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カントのいう実践理性の優位とは、神とか死後生の事柄は理論的にはわからないし「物自体」は認識できないが、だからといってそれはどうでもよいというのではなく、人間の道徳の実践のためには必要であり、その限りに於いて認め得るということでしょうか?
もしそうなら、道徳的行為以外の事柄についても、神とか死後生の事柄を必要とする場合があるのではないでしょうか?
たとえば死に対する恐怖を克服すること、そのために神とか死後生の事柄を要請することだってあり得ると思いますが、
それは実践理性の要請とは言えませんか?
また、死の恐怖の克服だけではなく、自分の人生の意味付けや世間的価値基準の相対化など、精神衛生上有意義なことがあると思いますが、そうした見地から神とか死後生の事柄を要請するのは実践理性の要請とは言えないのでしょうか?

A 回答 (3件)

まだここを見ておられたらよいのですが。



> 人間の道徳の実践のためには必要であり、その限りに於いて認め得るということでしょうか?

という意味ではありません。道徳的に考えるための「前提条件」として、霊魂の不死と神が出てくる、ということなのです。

カントにおける〈神〉というのは、

>必要とする場合がある

から、いることにしておこう、などという安直なものではありません。

少し話を『純粋理性批判』の方にさかのぼります。

わたしたちは身の回りのさまざまなものごとを見、聞き、触れたりし、その結果、そうした特徴がどんなものであるかを知ります。

けれども、なかには、あらかじめ観察する前に「これはこうだ」と断言できる特徴もあります。

この「もの」がなんらかの「もの」である、ということ。
この「もの」が空間のある一点に場所を占めている、ということ。
この「もの」が「いま」「午後二時三十五分」など、ある特定の時間に存在している、ということ。
この「もの」が自分が、もしくは誰かがそこにおくかどうかしたがゆえにそこにある、ということ。

そうした物体としての同一性や、空間上の位置や、時間上の位置、ほかのものを原因として影響を受けるという因果的な相互作用といったものはどれも、経験から派生する概念ではなく、考えられるあらゆる経験に先んじて、わたしたちが確かに知っていることです。
そうした条件がなければ、わたしたちはその「もの」を知覚することすらできません。つまり、何かが経験される前に、ある種の前提条件を満たしておかなければならない。

わたしたちは前提条件によって構成された「形式」にしたがって、経験していきます。この形式を網にたとえるなら、この網の目に引っかかるものだけが、わたしたちの手に入るのです。そうして網の目をすり抜けるものや、網の外にあるものは、わたしたちの手には入りません。

逆に言えば、あらゆる「もの」に物体の同一性や空間や時間、因果関係が経験にあてはまるのは、あらゆる「もの」がそのように成り立っているのではなく、わたしたちの経験というものが、こうした前提条件によって構成されているから、そのようにしか知覚できないのです。

わたしたちが見たり聞いたり触れたりしている「もの」は、わたしたちの網の目に引っかかったもの。そう考えていけば、わたしたちが見たり聞いたり、経験したりしている世界の外側(「外側」というのは空間に関する言葉で、ここでは「異世界」などが空間的に存在するといっているわけではありません。知覚できないために、なんとも名付けようのないのですが、一種の比喩として用いています)に、存在してもわたしたちには知るよしもない世界が拡がっている、ということになります。

だからこそわたしたちには、神が「存在する」ともいえないし、「存在しない」ともいえない。神をデカルトのように存在論的に証明することはできない。

こうした神は、認めるとか、認めないとかという問題ではないし、まして「認めないけれど必要だから、いることにしよう」などということではないのです。不滅の霊魂を持っているかどうかも、決して知り得ない。まず、この点をきちんと押さえておいてください。

では、神の存在をカントはどう考えたのでしょうか。結論からいうと、カントは存在論的証明ではない方法で肯定しようとします。だから「postulat」という論理学の用語が出てくるんです。

ところで、目をわたしたちの内側に向けてみましょう。わたしたち自身は、経験の世界に生きているだけの存在といえるのでしょうか。

わたしたちが知覚し、認識する経験の世界は、混沌としているわけではなく、秩序だったものです。ある出来事は、どれも先立つ出来事を原因とする結果であり、あらゆるレベルの膨大な出来事は、相互に因果関係をもち、科学的法則に支配されています。

けれども、空間と時間を動く物体という肉体をもつわたしたちが、この因果関係と科学的法則に100%支配されているだけの存在であるとしたら、意志の自由というものは、まったく存在しないことになります。

もちろん、意志の自由を認めない人も多くいます。けれどもカントは、意志の自由は存在すると考えます。わたしたち人間は物体としての肉体はもっているけれども、同時にほかのものでもある。肉体は、因果関係と科学的法則の支配する経験の世界に属するけれども、わたしたちが選択し、決断をして、意志の働きとして行動を起こさせる部分は、経験の世界には属さない、というのです。

意志をもつ「わたし」と物理的な「わたし」とのあいだにどのような関係があるのか。「わたし」がなんであるにせよ、このふたつは相互に作用し、主導権はふたつのあいだを行き来し、相関関係があるのだろうけれど、実際のところ、肉体の一部を自由に指図する部分は経験界にはないので、正確には知ることはできません。けれども、空間と時間のなかの物体の動きが、少なくともあるときには意志の働きに応じて起こるのは、否定できないことです。

さて、この「意志の自由」とはいったい何のことでしょうか。カントはそれを道徳的な概念である、というのです。

いやいや、それはおかしい、自由といったら、道徳などとは無縁なものではないか、と思われるかもしれません。けれども、仮に、あらゆる道徳に反した生活を送っている人が、とんでもない虐待にさらされたとすると、おそらくは「自分をこのように扱う“べき”ではない、あなたはこう“すべき”である」と抗議するでしょう。つまり、ここでは道徳的な判断がなされており、相手に対しては「あなたにはほかのふるまいをする自由がある」と判断していることが前提となっています。

なぜ? どうして? と問うことはできない。というのも、「因果関係」というのは、経験の世界での形式であって、その外では適用できないから。わたしたちには道徳の「理由」というものは理解できないんです。けれども「意志の自由」ということを考えるとき、道徳的な命令が不可避的に登場します。「~だから、どうしなさい」ではなく、「~せよ」というかたちで。

このような道徳的な命令がわたしたちに意識されるのは、わたしたちが自由意志をもつ「わたし」であると同時に、物理的な「わたし」、肉体を備え、それを大事にしようという意識を持つ「わたし」であるからでもあります。このふたつのあいだを行き来するわたしたちにとって、道徳律に完全に一致して生きていくためには、無限の努力が必要となってきます。それゆえ、そのことが実現されるためには、肉体的な生が終わっても、なお道徳的主体としての存在が続いていくという前提条件がなければならない。つまり「要請」というのはそういうことです。

さらに、人間の力によっては、完全無欠の絶対的な善というのは実現できないわけなんですけれども、そういうものがどこかになければ、世界全体の道徳的な意味がわからなくなってくる。だから、その実現を可能にするものとしての全能至善の神も是認されなければならない。

繰り返しますが、こうしたことはわたしたちの経験を超えたことですから、経験的に確かめることはできない。けれども、わたしたちが道徳的存在であろうとすれば、自明なものとして前提とするしかない。ここでの「要請」というのは、そういう意味です。

「いるかどうかわからないけれど、そうした方が都合がいいから、いることにしておこう」という意味ではないことがおわかりになりましたでしょうか。

以上、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

畏れ入りました。これほどの御回答を頂けるとは・・・ネットのQ&Aサイトもなかなか素晴らしいです。さっそくお気に入り登録させて頂いた次第です。開設しておられるサイトがおありならぜひ拝見させて頂きたいものです。
「いるかどうかわからないけれど、そうした方が都合がいいから、いることにしておこう」という意味ではない・・・ということがよくよくわかりました。私の大きな思い違いでした。糺して下さり、誠に感謝至極です。「前提条件」という意味での「公準」なのですね。
カントの場合、「意志の自由」が先行しているのですね。そこから道徳的存在ということが出て来て、その前提としての「要請」なのですね。
しかしこの「要請」という考え方は、カントの意図とは異なるかも知れませんが、護教的詭弁としてはかなり有力なものだと思います。実際、神の存在なしには生きてゆけない者も少なくありませんが、神の死を訴える宗教批判者や無神論者の人たちに対して、神の存在を要請論から主張できるからです。
それとは別にメンタルな面での実践的意義もあると思います。
私はその宗教的利用の方に関心があります。これからの高齢化社会において孤独死を防ぐ一つの手段として「マイゴッドを持つ」ということを奨励します。
この場合の「ゴッド」は広義です。日本人などは無意識に大多数の人々がすでにやっていることですが、これを意識化し、それぞれ自分にとって救い主になる存在(救済宗教における神仏なので基本的にはキリスト教的神か浄土教的仏ですが祖先とか亡くなった家族でもよいし守護天使など何でもよいですが、
要はレアリテがなければ無効)を持ち、その者との関りを尊重することにより精神的安定を得て自殺防止につながるのです。そう、神は人間が絶望的になり自暴自棄になって犯罪に走ったり自殺することのないよう、あるいはニヒリズムに陥って精神を破綻することにないよう、しっかり自分自身を持ち続けて生涯を全うできるためにこそ要請されて然りなのです。
特に高齢者の「セルフネグレクト」(自己放任)の防止策として要請されなければなりません。ニーチェその人だって死に方からすればかなり無理していたのではないかとさえ疑いたくなります。牧師の子ですから神観念はかなり強固に刷り込まれていたはずです。それを抑圧してきたわけですからね・・・。
それこそ人間は物質だけでできているわけではないのですから、宗教もバカにしたもんじゃないですよ。

お礼日時:2012/11/01 04:47

カントの三大批判は、自己統合を成しえた時の状態に相当します。



感情と知識が融合しあって、自己矛盾が無い状態で
自己の中に答えが明らかになっている形なのです。

その状態ですと、神が居ても居なくても死に対しての恐怖はすでに無く(克服済み)
人生の意味付けは見いだせているでしょうし、世間的価値基準の相対比は無意味だと知ります。

その状態で実践理性が要請するものは、純粋な要請に限られます。
そうした時、自己の利益と他者の利益の重なった所しか選択しなくなります。

もしくは、自己の利益で他者の利益を害しない所ですね。
趣味や、健康の為の運動や散歩などなど。


三大批判は覚えるものではなく、哲学の実践から知りえる自分自身であり
「矛盾が無くなると、このように考えるようになったよ」であり
ものを見る目がフラットで公平で、心地よい選択ができるようになった時のことを書いてあります。

故に、宗教は道徳の実践のためには必要だと考えます。
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この回答へのお礼

なるほど、よくよくわかりました。的を射た御回答、心より感謝申し上げます。

お礼日時:2012/10/05 11:57

言えると思います。


カントの純粋実践理性批判が成り立つためには、
それまでの経験と認識によって出来上がった理性があってのことだと思います。
理性とは変化していくものだとも思うし、
広く深く大きく拡大していく意識だとも思います。
そのためには自分という存在に対する疑問が解決される必要があります。
ですから解決されるためには、それらの要請は必ず必要だと考えます。
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この回答へのお礼

御回答を心より感謝致します。「要請」と訳されているPostulat(動詞:postulieren)というドイツ語をカントがどのような意味で用いたのかですが、「公準」とも訳されるように、要は何かを実践するために必要として前提することのようですね。
人間が道徳的であるためには精神の安定が必要であり、その実践のために死の恐怖を克服すべく形而上学の対象から排除すべき霊魂不滅といったことも前提するということはOKなのですね。

お礼日時:2012/10/05 12:09

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