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まず「認識主体を持たない」という意味ではありません。(当たり前です)

「主体性をもたない」が「特定の主観に依存しない」という意味ならそんな事を確かめる手段はありません。←勘違いです。これは鶴の一声的な意味であり、そのように決まった共通認識は主観に過ぎないということを述べたまでです。(社長がこうすると独断で決めたことを共通認識しても客観的になりえないという意味)

「文が客観である」だと広義的にし過ぎるので現実的に中身がないものになります。

例えば「俺はこう考えている」と言語化した場合、概念は客観的だが内容は主観的になります。しかし客観だと主張されても間違いではないのですが実際には納得できることではないです。客観についてという文を書き「今、書いていることがすでに客観である。」と書かれても同じく概念的には間違いではないことではあるがこれも納得しづらくなります。(パンツはパンツでもゴムがヨレヨレではけないパンツならパンツの意味を為してないのと同じ)

もちろん概念的なことを求めているならそれでも良いのでしょうが、それだとパラドックスやアンチノミー的な問いになりやすくエンドレスにループします。

「言語は現象に先立つ」という謎めいたことにもなりますからね。

それなら狭義的に「主体性をもたない共通認識」の方が良いと考えます。

文を反対しているのではなく表現的な問題であって意味合い的には近いので誤解なきように。

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”解説”
客観とは、狭義的に「主体性をもたない共通認識」の方が良いとする彼の見解

に異議、再検討、または、反論し、反駁し、更新できる方はいるでしょうか?

また、この見解にほぼ同意せざるをえないものを感じた方からの回答も待っています。

A 回答 (9件)

個の人間は主観から絶対に離れられません。



客観も、主観から観た客観のものごとにしかなろうはずがないのです。
つまり、主観から観た「主体性をもたない共通認識」であることがらです。

科学が客観の最たるものにあたるのですが、科学の探求は人間主観そのものの探求になっているんです。

目の前の石は、誰が見ても石なのだから、客観的に石であると疑わない主観です。

「主体性をもたない共通認識」は、「共通認識」で足ります。

同じ場所で同時に確実に幽霊を見たと言う人が10人いたとするとその10人の中に限ってその幽霊が客観的に存在することになります。
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>異議、再検討、または、反論し、反駁し、更新できる方はいるでしょうか?



与えられた命題を否定するくらいはわけないと思いますよ。というのも「共通認識=客観性」は必要条件ではあるが、十分条件ではないからです。たとえば普通の人が知らない真理も、また客観的な認識に入ります。いや、むしろ「真理=客観」と言った方がよいでしょう。何しろ神の認識こそ客観性であるとさえ、中世ヨーロッパでは考えられていましたから。

しかし逆に真理であったとしても客観的にならない事例があります。つまり質問文に書いてあることですが、発話者Aが「俺は真理を言っている」と主張しても、それが真理であるか周囲に判定できない場合です。しかしそれならば、発話者が論理的に述べれば良いだけです。

数学で喩えてみましょう。例えばある回答者が、ヤマカンで正解に辿り着いたとしましょう。しかし、ヤマカンですからテレパシーでもない限り、その答案の提出者の思考過程を万人と共有できません。どうやら合っているかもしれないが、この人は天才なのか不思議ちゃんなのかな、と思う程度です。つまり仮に正答(=真理)でも、主観的なのです。しかしきちんと数式が示され、論述されいたらどうでしょう。その思考過程を万人と共有することが出来ませんか。これでこそ、真理=共通認識となります。つまり客観的となります。

しかしこの喩えで、逆はありません。思考の筋道は示されているが、回答が間違っている場合、共有するに値しない記述として誰も注目しないでしょう。仮にクラスの全員が間違えたとしても、たった一人の正答者の回答にのみ注目が集まるものでしょう。したがって、客観的認識という時、共通認識であるというだけでは不十分なのです。
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 主観と客観



 主観的と客観的

 いろいろ考えちゃうよ。
 “的”のあるなしでも「主観と客観」を考える上で結構役に立ちそうだ。
 気を付けなければならないのは“混同”して使わないようにすることだよね。

 客観とは主観の対象物、て云うのはどうだろうか。
 主観は対象物《他者(人)の主観》と共通認識していると云えるかどうか、疑問に思ってしまった。

 ☆ 受け止め方に勘違いがあるかなぁ。
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質問者:kiokunosekaiさんは勘違いをされているのではないかと思います。


客観は主観に対する対義概念です。右翼に対する対義概念が左翼、長期の対義概念が短期のようなものです。肉体と精神も対義語として使うこともあります。客観と主観は、「対義語としても使う」のではなく、概念としては連続していることの方向を示しているものとしてしか使いません。
スッキリ断定的に表現する方が明瞭に考えられるような気がするために、主観と客観を対立概念としてしばしば使います。 それを聞いたり、読んだりするヒトの中に、主観とは別個に客観がある、客観と別個に主観があると、誤解してしまう人がいるだけす。
 
個人が文を作成するにあたって、「この論文の中で【客観とは、主体性をもたない共通認識のことである】と定義する」のは本人の勝手ですが、多くの場合不都合な定義になります。
 
例えば「概念は客観的だが内容は主観的」「自分の意見でなくて客観的事実を報告せよ」「あなたはもっと客観(客観性)を重視しなさい」という文中の“客観”では、「共通認識となっていることが確認されている」ことを前提にしていません。
通常の文章では“客観”は「主観的でないようにしてよ」「自分の視点や感情ばかりに依存しないでね」という“意向”を述べていることが多いと私は思います。日本語の文でいえば、「客観」は、「(意見を出す人、報告をする人、観察する人)が、狭い観点・一方的視角に限定してしまうのを自重して、価値観や感情を込めないで、できる限りバランスのとれた見方で事実関係を中心にして観察・報告して欲しい」という意向を示していることが多いです。
そうした意向(相手に対する要望)をオブラートに包んで表現する用語が、日本語の「客観」だと思います。
客観的事実、客観性を欠くなどの言葉の使用状況を考えれば、認識そのものを分類しているのではなく、意向や要望がその裏にあることがわかります。
客観的精神、客観的妥当性、客観描写、客観的表現、客観テストなどの用語も、何かを識別しているだけではなくて、(好ましい・そうあってほしい)という意向があります。{(意見を出す人、報告をする人、観察する人)が(狭い観点・一方的視角や感性でやる)のは止めて欲しい}という要望があるときに、客観という単語を使うのだと思います。
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「客観は、認識の一形態」ではないと思います。
客観は、何人かの共通認識になっていることを必須の条件にいていません。
客観は、それが何人かの共通認識になるであろうことを期待しているのでもありません。
 
客観は、主体性を持たないことを、相手に要求するとは限りません。
部下や調査員に「客観的にやってくれ!」と要求する場合、部下や調査員には主体的、積極的にやることを要求しています。
彼(彼女)が持っている能力や知識・感性も出来るだけ活かしてあたることを希望しています。本人の持っている感性を鋭くして、知識を動員して、積極的に主体的にやらないと、表面的・形式的にはなっても、客観的なことがわかりません。
「客観的にやってくれ!」は、客体をメインにせずに、{自分の希望や情動、嗜好、好悪、損得などで動いたり、見方を一方的にしたり、(何かに)都合良く強調したり無視した報告をするな}という条件を述べていることが多いのです。
(何かに)というのは、部下や調査員の個人的事情だけでなく、既存の組織方針、自分たちが進めてきた方向にとって適合不適合、通常の世間的道徳心や法制度、学会などで共通認識となっているセオリーなどのことを含みます。 既存の共通認識に適合的な視点というのも、主観的といわれるものと考え、「客観的に・客観的な」というのは、既存の共通認識に不適合も含むようにという希望を出しているのです。
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私の場合、主観・客観は「主観性の高い・低い」とか「客観性の高い・低い」といった表現が相応しいと思っています。

そうして両者の比率を「交換可能性」という概念にて捉えています。

たとえば、「鉛筆の芯が折れたが、鉛筆削りがないので、別の鉛筆で書いた」というとき、「鉛筆のメーカーと真の硬さ(BとかABとか)」が同一であるなら、「折れた鉛筆」と「代わりの鉛筆」は「交換可能性が高い」ものとなるでしょう。でも、「私」が書くのか、「貴方」が書くのかでは、たとえば「字体」が異なります。即ち「主体」にとっては「交換可能性が低い」ということになります。

また、「32kgの物体を5インチ砲で45度方向に初速800m/秒で放出すると○○の高さまで上がって、△△分後には□□km離れた物体に命中する」といったことは、たとえば「地球上、無風状態」という条件であれば、「私」が行っても「貴方」が行っても、ほとんど同じ結果になるでしょう。すなわち「誰か」という項目については「交換可能性が非常に高い」ということになります。このように「主体者」そのものが「交換可能性が高い」状態であることが、「客観性が高い」ということと解しています。


主観と客観と交換可能性。。。 http://jinen.exblog.jp/345889/
2004-09-25 09:57
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主観と客観との対置は、過去から良く行われている。言葉による対置から、両者は「切り分けられるのでは?」という誤認がなされることがある。しかしながら、両者は、方向性のみをあらわすものであり、「切り分けること」はできない。

「科学的・客観的に事物を見る。」といったとき、観測者である「この私」と「あなた」とが「交換可能」だという限定された条件を持ち込んでいる。ようするに、「この私」と「あなた」とが入れ替わることで変化する要因があったとして、対象に対する影響の割合のうち、そういったものの影響を「無視できるぐらい極力最小」ないし「入れ替わるときに発生する影響度を確率的に予測可能な範囲」にとどめおくことで、観測可能であるときのみ、「科学的・客観的に見る」ことが可能だということを意味する。

すなわち「この私」と「その他」とは、決して切り離すことができないということである。

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カントの先験的哲学が表現する「超越論的動機」に関して、”誰もメタレベルに立てないという原則の確認”といった解釈もあるが、妥当とはいえない。それが意味するものは、当時の文脈に即してより正確に言い直せば、誰も「主観」の外に出て「客観」を直接確認できないという認識論的原理の確認であり、認識問題はこの前提の上でのみ構想されねばならないという思考原則の提示である。「言語的思考へ、脱構築と現象学」、竹田青嗣、径書房p.90-p.91
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 主観と客観



 主観は自分の心の反応、現象、捉えた物。
 客観は自分以外の“現象”

 他人も他人の思う心も、自分にとっては客観。
 自分の主観は他人には客観。

 さしあたり自分は主観であり他人は客観である、でもいいかとも思う。
 ここから思いを深めていければ・・・・・

 
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主体が主観的であることを発言すれば、客観ではありませんよね。


主体が主観を横に置いておいて、客体で発言すれば客観になります。

私(主体)はやりたいくないけど(主観)
やった方がいいということ(客体を使った客観)を知っている。

たとえば、勉強をしたくないけど、勉強した方がいいと知っている(分かっている)

これが主観と客観の差だと思います。


主体が、自分の意見を横に置いておくことを選んだ時、客観は発生するので
主体が意見を述べる時、自分の主観を意識的に認識できているかどうかと
その主観を横に置いて発言するということを選ぶかにかかります。

つまりは、自分が客体として身を置いて発言しようとしているかの意識が鍵となります。


客観とは「自らが客体に身を置いた認識」だと言えましょう。
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>客観とは、狭義的に「主体性をもたない共通認識」



違います。おっしゃるように主体を持たない認識はありません。また客観が集合名詞だという証拠もありません。

客観 と主観 の関係は 本来

自分(主)があって他人(客)があるという相対的なものだと思います。
主観があってこそ客観が生じる。逆もまた真なり。自分の見方はあくまで主観であり、他人の見方は常に客観であると割り切るべきです。
もちろん自分の見方のほうが他人の見方よりも「客観的」だという現象はありえますが、それは量的な問題ではなく質的な問題なのです。質的に客観的なものは多くが量的に優勢になり共通認識に近くなるという性質をもっているということはありますが、それは結果論に過ぎません。

ですから数量的に主観的<客観的 ではなく、 双方がっぷり4つに組むのが正しいのです。ですから常に客観的なもののほうが真に近いというのは幻想です。
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客観とは、主観を捨てることではなく、客観というのも


多くの主観の集合に過ぎないと理解することである。
(客観=他人の立場に立って見る=自分とは異なる
主観の相対化)
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