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本当に基本的なことで申し訳ございません。表題のごとく関ヶ原の遅刻についてですが、そもそも徳川秀忠はなぜ別働隊として中山道を通らなければいけなかったのでしょうか?

A 回答 (9件)

 軍を二分したのは他の方も回答されているとおり、兵糧の問題と移動の効率のためでしょう。


 そのうえで秀忠の徳川主力部隊が中山道を行ったのは小山から最短距離だったことと、途上の西軍の武将に対するためでしょう。東軍の福島正則をはじめとする豊臣恩顧の諸将が東海道を行ったのは、山内一豊など彼らの所領があったので彼らにとってはこちらのほうが移動が容易だったからでまちがいないと思います。

 問題は家康が江戸から一ヶ月以上も動かなかったことですが、これは西軍の性格が途中で変わったために動けなくなってしまったのだと思います。
 石田三成が挙兵した段階ではまだ大坂城をまとめ上げるにいたっておらず、淀殿や増田ら奉行たちは家康に事態の収拾を依頼しています。ですから、もともと反三成派である東軍の豊臣系武将たちも、心おきなく家康と共闘することができました。しかし、いったん秀頼を担ぎ出されたとあっては家康は彼らをどこまで信じて良いのか確証が持てず、動けなかったのでしょう。
 徳川の主力は秀忠に同行しており、ほかの結城秀康などの徳川系武将は上杉・佐竹に対処するために配置していました。ですので、家康としては秀忠にあまり先へ進まれては逆に困るわけです。いざとなったら呼び戻せるところに留まるよう指示していたのではないでしょうか。別に資料があるわけではないのでわたしの想像ですが。

 ところが先着した東軍はなかなか進発しない家康にしびれを切らすと、ようやく彼らの姿勢が変わらないことに安心した家康は秀忠をうっちゃって東海道を驀進します。ここは家康の果断な行動こそがスゴイのであって、秀忠に家康と同じ判断力を求めるのはいささか酷な気がします。真田昌幸・幸村の軍略も計算以上だったという事情はあったのでしょうが、秀忠遅参の主因はこちらだと思います。
 とはいえ、その辺の事情を家康を信じて戦った東軍の諸将に説明するわけにも行かないので(これを説明すると「お前たちを信じていなかった」と告白することになりますから)、秀忠の遅参ということで決着をつけたのではないでしょうか。

 関ヶ原の合戦については三成と家康の行動力が抜きんでていて、並みの武将でしかなかった秀忠がわりを喰ったということなのでは、と理解しています。

この回答への補足

回答者みなさまの手により、うっすらと秀忠の中山道進軍が見えてきた気がします。

みなさまが一様に指摘される「兵力の分散」という大前提と、家康のイメージする戦闘以外における、支配戦略をふまえた広い視野に立って、関ヶ原を見つめる必要性を改めて感じました。

補足日時:2012/10/12 18:27
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この回答へのお礼

なるほど、2か月近くの時間がありますから、移動の効率(兵糧問題を含む)も何も、有り余る時間を使って何とでもなる気がしていましたし、むしろ結果から見るに、道中に戦闘があった中山道より、ご指摘の山内らの申し出のごとく、安全な道が確保されている東海道のほうが、効率的だと思っていたんですよね。実際、家康側の部隊は道中に戦闘なんてしていませんし。

いずれにせよイメージとしては、本来であれば真田らを抑えるなどの目標もある中山道を使って進軍するべきところである。それは戦う意思を強調するといったことも踏まえて、時間稼ぎの部分もあったと。そのような意味を持つ軍を秀忠に率いさせ、まずは西進させると。その間、戦局の把握をしながら家康自体は様子を見ると。そしていよいよとなり家康は重い腰をあげると。そうなれば家康自体は一気呵成に西進する必要があると。だからこそ、秀忠の軍とは別ルートでもあり、道中の支配実態なども勘案すれば、一番効率的な東海道を西進したという事なのでしょうか?

ようは、家康の最後の決断を待つといった事情があるからこそ、秀忠も意図的にチンタラする事情もあったと。よくいわれる秀忠が真田を侮って戦闘を開始し、それが原因で遅刻というより、家康との連絡不備などもありつつ、一番の原因は家康により近い場所にある軍の動きというのは、家康のそばにいるからこそ命令遂行のスピード感が秀忠や他の諸将とは格段に違ったでしょうから、秀忠に代表されるように、その家康のスピード感についていけない面もあったという事なのかもしれませんね。

いずれにせよ、ご回答ありがとうございました。だいぶスッキリしてきました(*^^)v

お礼日時:2012/10/12 07:23

秀忠は東軍総大将でしたね




理由はいくつかありますが全うな回答は他者様が述べているので私は持論を…

徳川は信州上田の真田父子に2度にわたって手痛い敗戦を喫しています
秀忠は父の無念を晴らしたいがために自ら中仙道を通り真田を叩きたいと家康に進言
3日もあれば落とせるだろうとたかをくくって上田城に乗り込みました
ところが真田の策略にハマり釘付けにされ関ヶ原に遅参 家康は激怒し秀忠は一時後継者を外されるほどでした



まぁ要するに 父の敵をとってやろうと意気込んで返り討ちにあったぼんくらという事ですね
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
秀忠がボンクラか?については、歴史をながめる人それぞれに、思いや考え方がありますから、ひとまず措くとして、どのような状況であれ、遅刻はきびしいですよね…

参考になりました

お礼日時:2012/10/12 18:22

理由はほかの人が書いてあるので、軍事的な常識から。



兵力というのは集中しないといけません。

しかし、軍隊というのは消費しかしません。

大軍が同じ箇所にとどまると周辺の食料を食いつくしたり排泄物だけで一面の植物が枯れたりする有様となります。

そこで、行軍は兵力をいくつかに訳、決戦予定地または直前で合流するという手法が取られます。
日本では行軍ルートが限られているため、2つに分散させたのだと思われます。

同様の手法は世界各地で行われております。
モンゴルのバツによる遠征やナポレオンのアウステルリッツなどの各軍団の行軍ルートを参考にしてみるのも良いかと。

この回答への補足

なるほど…回答者の方々それぞれに兵力の分散について強調されていますから、僕もそれのような気がしてきました…

時に、あまり詳しくないのですが、関ヶ原の直前の「会津征伐」において、徳川は10万程度の兵を引き連れていますが、その時は分散していなかったかな?とかも思っているんですが、どのような状況だったのでしょうか?

たぶん僕が知らないだけで、分散していたのかもしれません<m(__)m>

補足日時:2012/10/11 23:17
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
確かに戦闘には集中、移動には分散といった具合に考えることもできますよね。

いずれにせよ、移動の分散は兵法の常識と言ったところなのでしょうしね。兵や武将が多くなればなるほど、人数分だけ意見の対立も生まれるでしょうから、ベストの戦略って決定しにくくなりますよね。
そのような中で「兵の移動はできるだけ分散して」といった戦略は、みなが一様に納得できるだけの説得力がありそうですよね。

参考になりました。

お礼日時:2012/10/12 18:11

1単純に最短距離を行った


2中山道の大名を傘下に収めるため。

まず関ヶ原の起こりを整理する必要があります。
徳川と上杉が対立し家康が豊臣恩顧の諸将を引き連れて会津征伐の兵をあげます。
下野(栃木)まで兵を進めた時点で、意志だ三成挙兵の報が家康に入ります。
そこで家康は、徳川家主力を秀忠にあずけ、まず中山道を西上させます。
つまり出発地点は江戸ではありません、栃木です。
ここからの最短ルートは、自然中山道となります。
一方家康は、江戸に帰り残った旗本をあつめつつ、豊臣恩顧・西軍に裏切りの切り崩し工作をします。

まず兵法の常道として、大軍で行動する場合部隊を複数に分けます。
これは道路の広さもありますが、それよりその途上の地域を制圧しながら進むのと、食糧確保の意味です。
当時の軍隊は食料の多くを現地調達に頼ります。
そのため一つの街道に兵力を多くし過ぎると兵糧不足を起こしがちです。

さらにここからは私の推測です。
秀忠に預けられた兵力は、徳川諸将の率いる主力と上野信州の大名です。
これらの大名を裏切らないようにするのと、途上の大名を傘下に収める目的があったと思われます。
次に関ヶ原の一番重要な点は、清州の豊臣家兵糧米です。
これがなければ徳川軍は尾張美濃方面へ兵を展開できません。
これを管理するのが福島正則で、清州・福島正則を東軍につけておくことが絶対条件です。
そのために真っ先に主力を西上させたものと思います。

よって私は清州に真っ先に兵を入れて東軍が清州を確保するのが絶対条件で、それが秀忠の役割だったと思います。
それが小城にこだわり家康より遅れたとなれば何をしに行ったのかわからず、叱責は当然であったと思っています。

この回答への補足

一番すっきりした部分は、他の回答者様が示したリンクの中にも書かれていた「兵糧の充足」の部分です。ただ漠然とスッキリしないんですよね。自分でもなぜかわかりませんが…

いずれにせよ、もう少し時間をおいてBAを出すことをお許しください。僕も混乱していますし(混乱してるから質問したのですが)また、別の側面からの回答もあるかもしれませんし。

すみません。僕はアタマが弱いもので、理解にもう少し時間をください<m(__)m>

補足日時:2012/10/11 18:40
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

やはり「後の憂いを断つ」(信州の反対勢力)といった面や、豊臣恩顧の武将に対する牽制の意味も込めて秀忠に軍団を組織させ、運用していたんでしょうね。

豊臣恩顧VS豊臣恩顧といった、家康の根底にある関ヶ原の戦略の中で、兵糧の充足もふまえて、いかに豊臣恩顧の大名を利用するのか?といった側面が秀忠の動きに集約されているのかもしれませんね。

参考になりました。

お礼日時:2012/10/12 18:20

しかし道幅が狭いと言っても、東海道ルートもけっこうな大軍でしたから、基本的には戦の常道として、兵を分散させるという事なのでしょうか?




海外での参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E9%80%B2% …

http://paomaru.dousetsu.com/file/05_senjutu_015. …
こんな説明もある

この回答への補足

僕の理解力が足りないのか?まだぼんやりしたイメージしか出来上がっていないのですが、ご指摘の戦略ないし戦術としての兵の分散はわかるのですが、小山評定が7月で関ヶ原は9月の出来事ですよね?その間は約2カ月離れています。
ですから、想像以上にノンビリ進軍していますよね?というのも家康は江戸に入って方々へ手紙を出すなど外交面で精力的に動いていたと思うんです。そういった中で、単に戦自体に勝つためだけに分散させたんですかね?東軍は西軍の動きは捕捉していたと思いますし、野戦を前提として隊を分けるって可能性が見えてこないんです。

僕も少々混乱していますので、自分でももう少し整理してみますが…

補足日時:2012/10/11 18:32
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この回答へのお礼

兵家の常道としての兵力の分散について、詳しい情報をありがとうございました。
どのような場面を想定しても、やはり兵力の分散という常道を、理解の埒外に置くことはできませんよね。参考になりました。

お礼日時:2012/10/12 18:05

>では合戦後に家康が秀忠との面会を拒否したってのは、どのような意味だったのでしょうか?榊原康政だったかが、必死でとりなしたとか何とか…



豊臣恩顧の諸将をてなずける為の猿芝居です。関が原の合戦で戦ってない秀忠にけろっと面会してしまえば、豊臣恩顧の諸将は「俺たちが必死に戦ったのは一体なんだったの?」と思います。家康はそういう老獪な人身掌握術を硬軟使い分けて磐石の徳川幕府を築くことができたのです。
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この回答へのお礼

なるほど!家康も秀忠も親子そろって役者なんですね!
よくわかりました<m(__)m>

お礼日時:2012/10/11 18:19

徳川秀忠の軍は別働隊ではなく、徳川軍主力の先遣隊だったと思われます。


中山道近くの有力な西軍大名は「真田昌幸」のみであり、
関東北部の徳川領を通り、比較的容易に西へ進めるルートでした。
おそらくは秀忠軍を美濃東部に進出させておき、南の清洲城と併せて、
東と南から岐阜・大垣方面へ圧力を掛けることが目的だったと思われます。
(実際は、福島正則らが岐阜城を落としてしまいましたが。)

これに対して東海道のルートは、豊臣恩顧の大名が多く居ました。
(中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴、福島正則など)
彼らは反三成で家康側でしたが、もし豊臣秀頼が担ぎ出された場合、
裏切る可能性もあったと思います。
また、東海道には大きな川が多く(大井川や天竜川など)、
大雨が降れば進軍ははかどらず、大幅に遅れる可能性がありました。

ところが事態は逆になり、家康が尾張に入っても、秀忠は信濃で足止めされていました。
家康は仕方なく、関が原で勝負に出なければならなくなったのだと思います。

この回答への補足

つまり、基本としては東山道(中山道)を通過した方が効率は良かったということでしょうか?そうなると逆に家康はなぜ東海道を進むのでしょうか?

補足日時:2012/10/11 00:53
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整備された段階でも、もっとも広くて 幅 10メートル


http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_to …

大量の軍備が進むには、別れざるを得ません。

例:承久の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85% …

幕末の江戸攻めでも東海道・東山道・北陸道の三路に分かれています。

関ヶ原の時も、前田利長が、南下したのも含めれば、承久の乱や幕末と行程は一緒になります。

この回答への補足

なるほど…
しかし道幅が狭いと言っても、東海道ルートもけっこうな大軍でしたから、基本的には戦の常道として、兵を分散させるという事なのでしょうか?

補足日時:2012/10/11 00:50
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元々秀忠は信州平定を家康から命じられていたのです。

となれば中山道以外にありえません。また関が原の合戦は東西両軍の事前の打ち合わせでスケジュールを決めていたことではありません。現代人は結果論を語れるが当時の人には将来のことなど何もわからないのです。そもそも三成が挙兵しなければ、関が原の合戦にはなりません。合戦になるといっても日時も場所も何も決まっていない。ましてや当時は川に橋もかかってない、道路は舗装などされていない。雨が降れば川は増水して渡れないし、道路は泥と化して歩けない。馬による伝令以外に連絡手段は何も無い。こういう条件の元で、わずか1日で終わってしまった関が原の合戦に家康軍と秀忠軍がどんぴしゃりで落ち合うことなど有り得るわけがないのです。そんな奇跡は絶対に怒りえない。それは家康だって分かっていることなのです。

問題は秀忠軍の合流を待たずに合戦して勝算があるかどうかが、すべてです。家康が勝算なしと判断すれば篭城して時間稼ぎしながら、西軍の切り崩し工作をすすめるなどいくらでも手はあったのです。現実には西軍の実態はがたがたの寄せ集めで既に家康の切り崩し工作は浸透していたし、家康配下の豊臣恩顧の武将たちの三成憎しの感情が強く、東軍の士気十分という情勢を勘案して、家康は勝算ありと判断したわけです。

そういうものを秀忠の遅参と捉えるほうが話がおかしい。家康が五街道の整備を諸大名に命じたのは江戸時代になってからのことなのです。ぐちゃぐちゃの狭い道であれほどの大軍がスムーズに進軍できるわけがない。現代人の歴史感覚はおかしい。家康は秀忠軍なしで勝算アリと判断して野戦に打って出た。それだけの話です。

この回答への補足

では合戦後に家康が秀忠との面会を拒否したってのは、どのような意味だったのでしょうか?榊原康政だったかが、必死でとりなしたとか何とか…
「先に来て待つのが子の務め」という意味なんですかね?

補足日時:2012/10/11 00:45
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