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ウエーバーの文章の理解に苦しんでいます。下の。「精神のない専門人、心情のない享楽人。」これは何を意味するものなのでしょうか?

将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、
この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現われるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも――そのどちらでもなくて――一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現われる『末人たち』《 letzte Menschenにとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの《Nichts》は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう。

A 回答 (1件)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の最終部ですね。


有名な一節で、単独で引用されることも多い部分です。

まず、「末人」というのはニーチェの概念です。
「超人」の反対が「末人」です。

大勢で群れ、矮小で、誰もが同じものを欲し、身を寄せ合ってぬくもりを欲し、考え方が違う者は自ら精神病院へ向かう人々です。
彼らは働くことは慰みになるから働くけれど、慰みが身を損ねることのないように気をつけ、面倒なので、貧しくなることも富むこともない。
山から下りて、ツァラトゥストラはこの末人(最後の人々)と会いました。

ウェーバーは、禁欲的なプロテスタンティズムの果てに出現した人間を、ニーチェの「末人」という言葉で表します。
末人=精神のない専門人、心情のない享楽人であると。

この「精神」というのは、資本主義の精神のことです。
近代資本主義を推進した原動力、「エートス」のことです。

「『資本主義』は中国にも、インドにも、バビロンにも、また古代にも中世にも存在した。しかし、後に見るように、そうした『資本主義』にはいま述べたような独自のエートスが欠けていたのだ」(岩波文庫 上巻p.43)

ウェーバーはフランクリンを具体的な例としてあげていました。
一見、相対立しかねないような営利心と倫理が、「資本主義の精神」として、いかに内面的に結びついているかは、この著作を通じて、丁寧に論考されていますね。
この精神が、経営者だけでなく労働者にも等しく分有されていることが、近代資本主義の大前提となるわけです。

つぎの「心情」とは何か。

「あたかも労働が絶対的な自己目的―「天職」―であるかのように励むという心情が一般に必要となるからだ。しかし、こうした心情は、決して、人間が生まれつきもっているものではない」(同 p.72)

この心情は、プロテスタンティズムの中において育まれていく。

世俗内禁欲にもとづき、勤勉に働いた結果、富が恩恵として与えられます。
けれども人々は貴族的消費を嫌悪していたために、富は必然的に投資に向けられ、資本を形成することになる。こうして産業経営の機構ができあがってきます。

そうなると、それまで内面的な宗教倫理によってなされてきたことが、経済的強制にとってかわられたことによって、人々は「精神」と「心情」の双方を失ってしまう。

その結果、「精神」、宗教倫理を失った専門家と、「心情」、労働を「天職」であると考えることができない享楽人が、資本主義の発展ののちには登場する、と予見したものと理解できるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。難しい文章の理解に悩んでいたのですが、とても参考になりました。

お礼日時:2004/02/11 10:41

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