プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

先日ある老婦人からこんな話を聞きました。
戦後2年くらいは固形石鹸が手に入らず、
髪を洗うのにうどんの茹で汁を使用していたというのです。
毎日うどんを茹でるわけでもなく、また家族も多いので
髪を洗うのは数日に一回の割合だったとか。
洗濯も苦労したそうです。
慢性的な食糧不足と配給の遅れで、満足な食べものがなく苦労したという話はよく聞きますが、
この話のような日常品の欠乏を代用品でまかなかっていたという話はあまり聞いたことがなく、新鮮でした。
このような具体例を知っている方がいらっしゃれば教えてください。
又聞きでもけっこうです。
よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

車(主にバスなど)自体が木炭で動いてましたから。

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師団司令部のある軍都で育ちました。



ろうそく作り。
工場勤めの父がしょっちゅう「蝋」を持って帰ってきました。
工場の倉庫の照明は電力不足で「蝋燭」だったそうで、使い終えた蝋燭の融けた「蝋」です。これを熱すると粘土のようになるので、紐を入れて適当な形にすると蝋燭になります。
浅い缶の蓋の上で灯します。
蝋燭が燃え尽きるとまた、そのカスを大事に残しておきます。
これが子どもの私の役目でした。

裏紙でカレンダー作り。
新聞紙は貴重で、落とし紙や焚き付けに。昭和25,26年頃でも学校の習字の練習は新聞紙で、清書の一枚だけ半紙でした。

苦味(クミ)チンキの話。
酒好きの父がよく「クミチンキ」と言っていました。当時は何のことか知りませんでしたが、今、ググッテみますとアルコールを含んだ漢方薬のようです。
これを怪しげなアルコール少々と水で割って酒代わりに飲んでいました。
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自分は、50代の一応「戦後の生まれ」です。


母親が80代で、戦中を生きた世代ですから、その手の話は、よっく聞かされて育ちましたね。

私の母の父親(私から見れば祖父)は、煙草が大好きだったとか。
しかし、戦争中は、滅多に煙草の配給が無く、「道の雑草」の「ヨモギ」か何かの新芽を乾燥させ、古くなった辞書か何かの紙に巻いて自分で煙草を作り、吸っていたそうです。

戦争中は、「お米」も殆ど供出して、自分達は滅多に「白いご飯」を食べられなかった。
そんな話も、よく聞かされました。
それで、何を食べていたかと言うと、一番多いのが「かぼちゃ」。
住んでる場所が田舎だったので、空き地が有れば「かぼちゃ」を作っていたそうです。
「かぼちゃ」を茹でて砕き「団子」にしたものを「味噌汁」にしたり、他の野菜と煮たり、所謂「団子汁」が一番のご馳走だったそうです。
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後期高齢者です。



私の周りでは戦時中も敗戦直後、その後も食べるものがないと言う経験はありません。

都会では金さえ出せば、或いは軍関係者であれば色々なものが手に入りました。
空襲中の都下でも牛肉の配給があったと徳川無声の戦中日記にある程です。

夏、都会部の人たちは普通に海辺へ農家の離れなどを借り1ケ月ほどは海水浴に行くのも普通の事。

そう言った所では朝は魚介類を売りに来るし・・。

混乱していたのは戦後も1年以上経っての都市部でしょうね。
例えば食料の買い出し(農村部へ行って物々交換・・着物などを持参して・・で米や薩摩芋と交換して帰ってくる)に行き、警察の取り締まりですべて没収されるなど、苦労していた人は沢山います。

農村部では自給自足が普通ですから食うに困ると云う事はまずありません。

石鹸などの日用品は荒物店(日用雑貨を扱う言わば何でも屋)で買えましたが、流石に敗戦時は物が無かったようです。

でもそれは店が隠匿していたからと云う事も多く金さえ出せば奥からごそごそ出してきて、買う事は出来ました。歯磨きも然り。

現在のようにサラリーマンが居て定期収入があるような家庭はまずなく、軍事工場で無償で勤労奉仕させられたり、銃後(戦場に対する国内と言う意味)では女性子供、老人(壮年は居ても在郷軍人や憲兵、陸海空軍の訓練中の兵隊と教官位で、なんでも女手一つで生活をすることが一般的でした。

日本全体が貧しい時代ですからね。

食うに困ったや**が無いと云う事はありましたが、食糧不足とはいえ何とか餓死もしないで来たわけですからすべてがドン底と言う訳ではなかったのです。

昔の人は髪の毛が長く、パーマは戦時中は禁止令。
でも都会の美容院(髪結い)は戦時中でも店を開けていました。(私の店も)

長い髪の毛を洗うのは大変ですが美容院では梳き櫛でフケを落しあとで洗髪します。

美容院へ来られる女性は経済的に恵まれた人、第一郊外や農村には美容院自体が無いのが普通。

皆家で1週間に一度くらい自分で洗髪。

シャンプーなんてものは存在しませんから、場合によってはアルカリ成分の多い洗濯石鹸も体を洗う石鹸も全てごっちゃ。

石鹸の代わりにフノリを利用したりと苦労はあったようですね。

小学校(国民学校と言います)でランドセルなんてものはなかったし大抵は布の肩掛け鞄。

ランドセルはあることはありましたが裕福な家庭の子供でそれも戦前の豊かな時代に買った長兄等の牛革のものの御下がり。

でもね、一人だけそんなものをかけて学校へ行ったらみんなに白い目で見られるし、各国民学校にいた配属将校(学校の授業などを検閲する為に常駐していた下士官以上の軍人)にピンタを食らわされるのが落ち。

戦後に出てきたランドセルは物資が不足して芯にボール紙を使ってましたけれどね。
表は豚革だったかなぁ、確か。

都会でも一番困っていたのは小学生の運動靴。

ゴムが無い(ゴムはすべて天然のもので物価統制令に関わるので金を出しても買えないし売っていない。)から疎開先の国民学校では草鞋を自分で編んでそれを履いて登校が普通の時代です。

本当にゴムを使った製品は貴重で、流石に軍隊には作業用の地下足袋、ゴム長は沢山ありましたが、終戦で各地にある陸海空軍の基地を閉鎖時、閉鎖に関わった下士官連中は役得で余ったものを鉄道便(国鉄)で家へ送ったようです。

が、9割方中身を抜き取られて(当時の鉄道関係者でしょうね、そんな事をしたのは。それが証拠に家に着いた木箱はきちんと釘づけされていても開けると中が空。私の従弟(現在90歳)は帰ってきてからやられたなぁと。残っていたのは鉛筆数ダース・・山本五十六元帥鉛筆・・と「突撃一番」(ご想像に任せます)のみ。長靴、地下足袋6足を入れたとの事なのに。)あ~~あと母親が嘆いてました。

戦前の何でもあった豊かな時代(幼稚園はスクールバス、給食も毎日贅沢におやつまで、街中にはレストランもフルーツパーラーもアイススケート場も、酒場も映画館、玉突き、ダンスホールなど普通にあった))と戦中、戦後の物のない混乱期を経て右肩上がりの経済発展を目の当たりにしてきた世代です。

敗戦後1年の昭和21年にはアイスキャンデーが売られていたし22~3年にはチュウインガム(一つ1円)も売られていたし、その翌年には甘いだけのチョコレートも。

色々エピソードはありますがね、脱走兵などの。

この前東京で爆弾が発見され・・・って放送は焼夷弾って言ってたけれど写真は焼夷弾(焼夷弾はすべて六角形の筒型)ではなく爆弾だった・・・も知らない時代ですから。

でも今しがたまで横にいた人が焼夷弾でぼうぼう燃え上がるのは再び見たくもありませんし機銃照射にも会いたくありません。

配給の遅れで食糧に困った人がいたのは事実ですが農村部ではなく東京でもなく、食糧も物資も地方都市住人が一番困ったのだろうと思います。

饒舌で取留めの無い話になってしまい大変失礼しました。




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この回答へのお礼

貴重な体験談を沢山教えていただき、ありがとうございます。
贅沢品のランドセルで通学すると配属将校にビンタされただろうという話、大変興味深かったです。
現代社会からは想像もつかない話です。
「幼稚園はスクールバス」というのも初耳でした。

お礼日時:2012/10/28 19:10

   これは又聞きの又聞きなのですが、、、



    戦後、タバコもなくて、山に生えている「カンスイチゴ」(学名は知りません)の葉っぱを切って干し、薄い紙が無かったので、学生時代の英語の辞書を破って(あれアラビア紙と言うんですかね)手で巻いて吸ったそうです。

   その煙を吸ったら単語がすうっと頭に入った、かどうかは聞き忘れました。
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>このような具体例を知っている方がいらっしゃれば教えてください。



祖母から聞いた話です。
米が無いので、空腹をどう満たすか?
1.米を煎る。
2.煎った米を、その米の三倍量の熱湯中に入れ長時間煮炊く。
3.米粒が驚くほど膨張して増える。
4.不味いが、満腹感は味わえる。
ウソか真か・・・。
祖父が言ってました。
「食うモンが無いので、裏山から松茸を取ってきて食べてた」
松茸。今は高級品ですが、昔は(今の)椎茸の感覚だったとか・・・。
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布や革が手に入らず、ランドセルが紙でできていた、というのを聞いたことがあります。

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