アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

昭和30~33年頃の自家用車はどのような層をターゲットにしていたのでしょうか?
また、実際に所有していたのはどういった人ですか?

テレビの「梅ちゃん先生」や、映画の「Always 3丁目の夕陽」をみると街中にかなりの自家用車をみます。

実際、私の祖父も自家用車をもっていて、それがタイトルにある「日産オースチン・ケンブリッジ」でした。
ちなみに祖父はサラリーマンで住まいは東京です。


普通のサラリーマンであった祖父が所有できているのですから、一般市民層がターゲットであるという認識でしたが、ネット情報によっては「闇市などでもうけた人や医者や役人などが自家用車をもてた」というようなことが書いてあることもあります。祖父は闇市もしていないし医者でもないし役人でもない・・専業主婦の妻と2人の子がいる、ごく普通の人でした。 ^^;

所詮はネットの情報ですから、私がみてきた祖父とその歴史が事実なのはわかっていますが、もし当時のことをご存知(体験されてなくてかまいません)のかた、「3丁目の夕陽」時代の自家用車とはどういう扱いだったのでしょうか?

A 回答 (4件)

こんにちは。


昭和27年生まれです。懐かしいタイトルを拝見いたしまして、判る範囲・記憶の範囲で回答さしあげます。(ただし、札幌生まれ・育ちでして、大都会の東京の状況とは随分違っていたとは思いますが・・)

「A50オースチン・ケンブリッジ」が発売になった昭和30年当時の日産の乗用車は、最高級車のオースチンと殆どがタクシーに使われていたダットサン110の2車種だけ、またトヨタも最高級車のクラウン(観音開き)がようやく出た頃で、コロナやトヨペットマスターは殆どがタクシーに使われていましたね。
ほかに自家用常用らしい車はいすずのヒルマン・ミンクスと日野ルノー(これもタクシーが殆どだったはずです)くらいではなかったでしょうか。

昭和40年に小学校を卒業しましたが、当時の校長がケンブリッジに乗っておりました。当時、学校の先生で自家用車を持っていたのは校長のほかにはただの1名だけ(初代三菱ミニカ)でしたね。
クラスで自家用車を持っていた家は45人中に二人だけ、羨望の眼差しで見ていたものです。

ちょっと当時の新車価格を調べてみましたが、オースチンが110万円(昭和30年当時)、クラスで三菱500を持っている家がありましたが、当時の新車価格は39万円、市電の市内一律料金が10円・鉛筆1本が5円の時代・ようやく1万円札が発行された時代にですよ。
3種の神器に「車」が登場するのが昭和40年くらいからでして、それ以前に自家用車を持っている家ですと、やはりお医者さん(よく往診に乗ってきました)やお金持ち(闇で儲けたは言いすぎでしょう)とは見られたのではないでしょうか。
当時はローンなどというものはありませんですから、現金(千円札山積み)か月割月賦程度の方法だったはずです。
多分、当時(昭和30年代)の月給も多分数万程度だと思われ、10万も貰っていたら高給取りだったでしょうね、ですから110万は高い買い物ではあったはずです。
*ちなみに中学3年のとき(昭和43年)の担任の給料は3万2千円、私が二十歳(昭和48年)で入社した自動車ディーラーの初任給は(税込で)4万6千円でした。
この時代でも新車なんてそんな簡単には・・・という感じでしたよ。

ただし、あくまでも地方都市での話ではありますが、少しでもご参考になれば幸いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。


当時の様子が眼にうかぶようで(みたことはありませんが ^^;)うきうきとしてしまいました。

ローン、なかったんですね・・ 千円札山積みで、なんて想像もしていませんでした。

祖父のオースチン、幼き日の母と写っている写真がてもとにありまして。格好いいなぁ・・とデスクに飾っているんですよ。私のしっている祖父の車はブルーバードかスカイラインでしたので、この写真の車もてっきりどちらかだと思っていたんです。気になって調べてみたらオースチンでした。タイヤの側面が白いやつです。ナンバーが写ってなければここにアップロードしようと思ってました。

どうやらこの頃の祖父一家はなかなかゆとりのある生活をしていたようですね。できることなればタイムマシーンにのって覗き見たいものです。

本当にありがとうございました。

お礼日時:2012/11/13 01:51

No1です。

「お礼」拝見いたしました。
ちょっとご質問の主旨から外れるのかもしれませんが、

幼稚園時代(確か昭和31年頃)と小学校2年生のとき(昭和33年頃)に、東京の親戚や関西の親戚のところに旅行したことがあったのですが、
幼稚園のときは、まだ山手線の色分けが無くエビ茶色一色、池袋から浅草へはトロリーバス、初代湘南電車(緑とオレンジの塗り分けで前面窓が二分割)で熱海まで、などは記憶していますね。
確か東京タワーはまだ建設中でして登ることはできませんでした。

また小学生のときは、東京から京都までは東海道線の当時最速の特急こだま号でして、熱海あたりの山側では「夢の超特急(新幹線)」の線路が建設中、玉川遊園地(二子玉川園)には渋谷駅から246を玉電(独特の丸い電車)に乗って行ったものです。
このときは東京タワーにも連れて行ってもらいましたね、また、銀座4丁目付近には森永製菓の大きな地球儀型の広告塔や初代クラウンの実物を載せたトヨタの広告塔(夜に見ましたがヘッドライトが点灯していました)があったのも記憶にあります。
まだダットサン110や初代ブルーバード、ルノーや初代コンテッサなどの「カミカゼタクシー」が走っていた時代ですね。
このときは64年の東京オリンピックに向けて、あちこちで近代化工事が進んでいましたが、下町にあった親戚の家のあたりでは、あちこちの路地で子供たちが遊んでいて・・駄菓子屋もあって・・・古き良き時代でしたね。

ちょっと脱線した回答になったかもしれませんが、当時が懐かしく思い出されたもので・・二度目の投稿、申し訳ありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

貴重なお話を本当にありがとうございます。
私は白黒の世界でしかみたことがありませんでしたから、拝見しながらきらきらした街の様子が想像できてうれしいです。23年生まれの私の母もきっと同じような景色をみていたのでしょうね。

山手線はエビ茶色だったのですか!?

特急こだまは、あの鼻っ面が大きなやつですね?私が小学生の頃もまだ、特急といえばあのかたちでした。路線バスもまだ鼻っ面の大きいタイプが残っていて床は板だったのを記憶しています。

情報といえば雑誌などの紙面か、写りの悪いテレビか、子供同士のうわさ。「なんだかよくわかんないけど、すごーい!」っていう感動があったなー・・と。

わが子を含め、今の子たちは情報が多すぎてかわいそうな気もします。

楽しいお話をありがとうございました。

お礼日時:2012/11/13 15:37

昭和30年代初めというと、大卒初任給はまだ月1万円なかったと思います。

そんな時代に百万円近い車が買えたとなるとおじいさまは普通のサラリーマンでなく、何か特殊なお仕事をしておられたか、給料以外に相続財産があったとかしか考えられません。当時自動車を所有していたのは大半が自営業者で、大半がバイクに屋根とリアカーを付けたようなオート3輪の「バタバタ」で、映画に出てくるドアのあるダイハツミゼットも出たばかりの新車ということになります。4輪の国産オリジナルの自動車そのものがトラック以外まだない時代で、日野ルノーかいすゞのヒルマン・ミンクスくらいで、それでも「お大尽」しか買えない、町内に数台あるかどうかという時代です。自家用車という言葉が出てきたのはパプリカやだるまコロナが普及し始めた35年以降でしょう。もちろん少し大きな企業になると出たばかりの黒塗りクラウン(セドリックはまだ発売されていなかった)の他、メルセデスやアメ車を社用車にするところがありましたが、今の中国と同じで必ず右肩上がりでどんどん成長を続けていましたから、ちょっと無理しても買えたということです。道路も映画のような状態で、あまり車が走っていなくて、映画のように普通に路上で遊べた時代でしたが、その後年々急激に車が増えて行き、40年代になると排気ガスによるスモッグが問題になるほどになりました。最近の10年間は時間が止まったようにほとんど変わりがないですが、その頃の10年間はとにかく目覚ましく変化・発展しましたね。おじいさまが昭和30年頃にオースチンに乗っておられたのか、少し後の東名が開通し、東京オリンピックが開催される40年に近い頃に乗っておられたかによってまったく違いますし、また信じられないかもしれませんが1年違うだけでも随分状況が違っていたのです。ちなみに40年代に入ると車は2年ごとに乗り換えるのが最もお得とされて一般的でした。だから景気も良かったのでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。お礼が遅れまして申し訳ありません。

祖父の勤務していた会社は当時も今も大人なら誰でも知っている企業です。
祖母の父が上司にあたり、曽祖父は祖母を含め、娘を自分の部下へ嫁がせました。が、祖父は身内の中では一番出世できなかったようです。^^;
曽祖父は送迎の車が会社から出ていたらしいのでそこそこだったと思います。 ・・・へんなボーナスとかがあったんですかね・・?もしくは妻の実家からのサポートかもしれませんね。。

他の方へのお礼にもかきましたが、幼き日の母と一緒に写っている写真があります。母の姿から想像すると昭和33年頃ではないかと思います。

1年でも状況がかわる時代。想像をはるかにこえためまぐるしさだったのですね。2年で乗り換えとは・・びっくりです。
そういえば祖父は晩年になっても数年単位で車を買い替えていましたが・・その名残でしょうか。。音楽をかけ続けていると「バッテリーがあがる!」とよく怒られたものです。平成の時代ですら。。。苦笑
そのままオースチンを大事に乗っていてくれれば私も実物にお目にかかることができたんでしょうね。残念。

当時の状況、とても参考になります。ありがとうございました。

お礼日時:2012/11/13 15:00

No.1の方が仰るように新車はかなりの「高嶺の花」だったのは


確かでしょう。
ただし、中古はそれなりの価格で買えたはずです。
雑誌カーグラフィックの編集顧問の小林章太郎さんは学生時代(1952年ごろ
「3丁目の夕陽」よりちょっと前)に1年間のアルバイトでオースチンを買ったそうですから、
普通のサラリーマンでも無理ではなかったと思います。
小林さんの場合は実家が富裕層(ライオンの創業一族)ですからアルバイト代を全て
つぎ込めるということはあるでしょうが。
そうそう「3丁目の夕陽」には修理工の六さんが乗用車を買って
「やっぱりまだ早い」と言って売り払うというエピソードがあったはずです。

ちなみに私が通ってた小学校では昭和39年の時点で車を持ってる先生は3人いました。
全て中古でパブリカ700とスバル360とマツダR360でした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。

スバル360はよく耳にします。
六さんのエピソード、そういえばありましたね。個人的にはレンタカー、それもオープンカーを借りて海に行くエピソードのほうが印象的ではありました。

そういえば祖父は自宅の一部を下宿のような感じにして大学生に貸すなどして多少の副収入もあったようですし、さすが経済学部卒、お金の運用が上手だったのかもしれませんね。

なんだか楽しそうな様子が浮かんできます。
貴重なお話、ありがとうございました。

お礼日時:2012/11/13 04:22

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!