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日米開戦時、日本本土にはおおよそ何人くらいの欧米人がいたのですか。
彼らは、戦争中、どのように処遇されたのですか。

うろ覚えですが、東京近辺にいた人たちの一部は、軽井沢に移らされたそうです。
また、神戸の松蔭高等女学校で英語を教えていた英国人女性の手記では、
敵国人向けの配給センターで、約150人の米英人らが週3回、食料を受け取ったそうです。
外国人が入れる防空壕はないので、神戸空襲時は恐ろしかったそうです。

他方、英国にいた日本人はどんな処遇をうけたのでしょうか。
アメリカでの処遇は、本やテレビである程度のことは分かりましたが、英国ではどうなのか、さっぱり分かりません。
一例としてこんなケースがある、というような話を教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

詳細過ぎて抜粋は無理ですので、未読ならば、


下記URLを御覧になってみて下さい。

◇『お茶の水史学 巻43/お茶の水女子大学文教育学部
人文科学科比較歴史学コース読史会/1999-09』(1~48頁)
「太平洋戦争下の「敵国人」抑留 :
日本国内に在住した英米系外国人の抑留について(研究)/小宮まゆみ」
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/891
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/1008 …

続いて英国関連では…
読み辛いとのお叱りを受けるといけませんので、
一部抜粋してみましたが、
必要に応じ原本画像を御覧いただければと思います。

◆表題件名:1.在英国ノ部/1.マン島収容所視察報告
[階層]外務省外交史料館>外務省記録>A門 政治、外交>7類 戦争>0項>
大東亜戦争関係一件/交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係/一般及諸問題/
在敵国本邦人収容所視察報告/在英ノ部 第一巻
[レファレンスコード]B02032526300[画像数]16
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02032526300
<2/16>
昭和17-6072-電信 2月28日ベルン発/3月1日本省着
「マン」島ニ於ケル邦人抑留状況ニ関スル件

一、抑留所状況
「マン」島「キャンプ」ハ同島海水浴場旅館之ニ當テラレ
邦人抑留者ハ他國抑留者ト別ニ二旅館ニ収容サレ海岸散歩道ノ一部ヲ
散歩用ニ提供サル各室ノ設備ハ大體普通ノ「ホテル」ノ通リニシテ
食堂集會室ニハ暖房設備アリ
二、食事
日ニ二三度共質良ク量モ米ヲ除キテハ充分ナリ
三、医療
抑留者中四名氣管支炎或ハ風邪ニ罹リタルモ「ファルコン、ホスピタル」ニテ
治療ヲ受ケ快方ニ向ヒツツアリ同病院ハ設備良ク薬品モ充分アリ
四、衣服
身廻品ハ英國ヨリノを取寄ヲ許サレ衣服下着類ハ充分供與セラル
洗濯ハ「キャンプ」内テ行ハレ石鹸モ供與サル
五、金銭
「キャンプ」到着ノ際ノ所持金及其ノ後外部ヨリノ送金ハ各自ノ
「コント」ニ預ケ入レ必要ニ應シ使用シ得
六、酒保
目下整備中ニシテ煙草ハ品不足ノ爲最近二週間ハ一人週五本宛
シカ配給出サリシモ當局者ニ於テハ将来週二十本乃至二十五本ニ増加方努力中

以下省略

◆表題件名:1 英国
[階層]外務省外交史料館>外務省記録>A門 政治、外交>7類 戦争>0項>
大東亜戦争関係一件/交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係/一般及諸問題/
在敵国本邦人収容所視察報告/在英ノ部 第四巻
[レファレンスコード]B02032531600[年代域]昭和18年8月6日~昭和20年3月13日[画像数]85
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02032531600
<8/85>
昭和18-18843-電信 11月18日19:38ベルン発/19日19:00本省着
英国「マン」島P「キャンプ」抑留邦人左ノ通リ(十一名)…中略…
尚「スコットランド」第二十四「キャンプ」其ノ他英本国内何處ニモ抑留邦人ナシ(了)
<43・44/85>

(1)英国在住ノ抑留セラレ有ラザル日本人家族ニシテ援助ヲ要求シ得ルモノハ
五名ノ婦人ト八名ノ小児(少年三名及少女五名)ヲ以テ限度トセラレ居レリ。
男子ノ長期ニ亙ル抑留ノ結果凡ユル貯蓄ハ殆ンド使ヒ盡サレタルヲ以テ
若干ノ資金ヲ以テハ最早家族ヲ支ヘ得ズ。
之等ノ家族ハ現在英国貧民救済局ノ僅少ノ援助或ハ敵国人ニ対シテ制限的ニ
開放セラレタル労働可能性ニ依リ或ハ家具手廻品ヲ売却スル事ニ依リ生計ヲ立テ居レリ
(2)邦人集団ニハ相互援助機関ナシ
(3)家族ノ援助ニ為月々必要トスル最少額ハ五十磅(※ポンド)ナリ。
右金額ノ支拂ニ関シ信任者ハ各家族トノ関係ヲ適当ニ顧慮之有レリ。
(4)邦人抑留所内ニ於テスラ全ク無産ノ者十一人アリ。
之等ニ対シテハ信任者ハ月額四十四磅(※ポンド)ヲ與ヘ居レリ。


ほか、下記等は御時間の許す時にでも…

◇表題件名:
2.英領各地抑留邦人状況(抑留所視察報告ハA.7.0.0.9-11-1-10-2)/
2.在英本国邦人状況
[階層]外務省外交史料館>外務省記録>A門 政治、外交>7類 戦争>0項>
大東亜戦争関係一件/交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係/在敵国本邦人関係/
在英(含属領)本邦人関係 第二巻
[レファレンスコード]B02032804300[年代域]昭和17年1月27日~昭和17年8月19日[画像数]28
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02032804300

◇表題件名:2 以下昭和十八年度
[階層]外務省外交史料館>外務省記録>A門 政治、外交>7類 戦争>0項>
大東亜戦争関係一件/交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係/一般及諸問題/
在敵国本邦人収容所視察報告/在英ノ部 第五巻
[レファレンスコード]B02032532600[年代域]昭和18年1月5日~昭和19年5月15日[画像数]73
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02032532600

以上 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
詳細で根拠の確実な資料を教えて下さったので、疑問はすべて氷解しました。

開戦時点で約1200名の“敵性外国人”が在住していた、と知りました。
このうち主に兵役適齢期の男子342名が抑留されたのですね。
抑留生活の待遇が良かったのは、日本の勝利が続いていたほんの初期だけだった、というのは予想していたとおりでした。
驚いたのは、日本軍が占領したアッツ島の原住民アリュート人40名が北海道小樽の抑留所に収容されたことです。
この人たちはその後、どういう運命を辿ったのでしょうか。
疑問は尽きません。

最も知りたかった英国在住の日本人の処遇についても、ずばりの資料を教えて下さったので、細かなことまで知ることができて十分満足しました。

外務省外交史料館>外務省記録>というアーカイブがあるのですね。
今後は自分で探してみようと思いますが、できるかどうか自信がありません。
いつも親切なご教示に感謝の気持ちでいっぱいです。

お礼日時:2012/12/11 21:28

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