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人生相談です。

先日、ある方と話しをする機会があり、
忠告された事に、「言うなれば、物事になげやりになっているようね」という意味の言葉がありました。

なげやり=いい加減、
よい加減なら、許されることという考えもありますが、
生き方として、どう受け取って考えるものなのでしょう・・・

私(女性)は、元々思春期まで、世間体を気にする厳しい家庭で過保護でもあり放任されても育ち、
自然と自立志向が強く、自分にも他人にも厳しい、いわゆる完璧主義を通していました。
ある時期からそういった自分に嫌気が差して見直し、自己批判をやめ、自分の素直な欲求を第一に大切にし自己評価を高めて、
自分を好きになり自分を大事にするのと同じように、他人にも寛容に接し思いやる気持ちを重視するように変えて来ました。

問題はここからです。

石の上にも三年といいますが、
現在の職場(職種としては、7年目になります)での労働実態や環境が大変厳しく、
客観的にも人員はぎりぎり、残業なしではやっていけず、休日に出勤したり自宅で仕事をすることは日常茶飯事、この数年、休日に外出することもまれで、ただただ休息を取るだけで精一杯、
気分転換に趣味を持って励んでみた生活もままならなくなり、
ますます増える一方の業務にも課題にも意欲も持てず、初心に持っていた動機も曖昧になってモチベーションは下がり、評価も承認もされない自分に、不満と諦めが募っています。

かと言って適当にやって要領よく周囲に仕事を振りながら働く、
という態度が許されない状況にも追い込まれ、
結果、私生活にも人生設計にも、文字通り、なげやり・開きなおりになっていると自覚があります。

潔癖にならず、他人のせいにせず、かと言って責任も放棄せず、
自分の仕事に集中するその集中力にもエネルギー切れで、
ついつい、どうともなれ、もはや自分のライフワークなんて、
数年後まで構築計画も遠延ばしにするしかない、

何のための自分の人生か、
現場に見切りをつけて辞めて、計画止まりになったままのライフワークにただちに着手し、
毎日に前向きでいられる生活に切り替えたい、と思いつつ、
今の現場で棚上げにした課題は、いずれ先延ばしになるだけで自分に帰って来るだけとも思い、
あと2年、契約満期まで、このまま投げやりでも続けて、とにかくけじめをつけてやり切ってから着手するべきか、本当に神経が麻痺摩耗してしまって、判断できずに参っています。

体力がないこと、気分の落ち込みも多く、気持ちの切り替えが下手で、
部屋の掃除も片付けも、山積みのまま、放置しています。
(筋トレやストレッチは2ヶ月前から定期的に実施していて、片付けは年末年始にある程度する気力だけはあります)

他人と社会に奉仕し、義務を果たすという仕事を、
どう自分の中に位置付けたらいいのか、納得して整理しきれません。

投げやりになることと、要領よくやることと、そこそこいい加減にやりくりすることと、
真面目に与えられた課題に、発想を変えて取り組むこととの、
また無理をすることと、頑張ることとの違いが、さっぱりわからなくなりました。

皆さんは、おそらく友人知人に愚痴ったり遊んだりして、
休日を利用して、気分の入れ替えをして、上手くやりこなしておられると思いますが、
私には残念ながら、そういう友人を積極的に持つ気がそもそもありません、
居てくれたらどんなにいいか、と思う反面、
愚痴っても自分に唾を吐くだけ、いずれ、心を決めるのも行動するのも自分自身だと思うと、
つい、一人で抱えてしまいます、
でも、率直に言えば、一人の方が気楽だし一人で解決したいのです。

こうやって質問を投げ掛けている事で、全く矛盾が生じている事は十分わかっていますが、
投げやりでもしょうがない、しょうがなく生き続けること生きていくことなんて、そういうもんだ、どうとでもなれ、
そう思うように至った自分に、喝を入れていただきたく申しました。

ちなみに恋愛関係の異性は居ません、お別れした人への想いを大事にしていますが、
結婚したい(離婚歴あり)というのではなく、パートナーという関係が望ましいです。
それこそ、互いのライフワークを支え合い、励まし合えるような。
理想が高いのでしょうか・・・

漠然としていますが、

社会人としての仕事と、「いつかやってのけたいこと」というワーク、
皆さんは、どうやって並行して取り組んでおられるのか、
教えていただきたいし、
厳しい意見にさらされることも覚悟で投書します。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (2件)

んー、完璧主義はやめたとおっしゃっていますが、見事な完璧主義ですね・笑。



質問文と#1さんへのお礼文を拝見して分かったのは、要するに質問者さんの理想とするところは「人の世話にならない、完全に独立した自分」ですよね。ということは、他人を必要としない世界に生きたいわけですから、完全に自由である反面、完全に孤独でもあります。それはもう仕方がないですよね。
質問者さんは他人には思いやりをもって接しているとおっしゃっていて、たぶんそうだとは思いますが、しかし自分が内心期待したほどには周囲から「感謝されてる感」を感じてないと思います。たぶん「こんなに世話してやってるのにその態度はなんだ」って気持ちもあるんじゃないでしょうか。

でも考えてみてください。例えば質問者さんが仕事上で非常に世話になっている人がいたとします。その人はなにくれとなく面倒を見てくれる。ありがたいですね。で、ささやかながらも自分なりにお礼をしたいと思ったとしても、それを頑なに拒否されたらどうでしょうか。自分は世話になりっぱなし、相手の世話はさせてもらえないなら、余程他人に依存する人でもない限りなんだか不安になりますよね。関係がアンバランスだからです。お世話になる、お世話する、なんかいろいろすいません、いいよ困ったときはお互いさまだとなるから人間関係はスムースになるわけです。
質問者さんはおそらく他人の世話になることはプライドが許さないと思うし、周囲もそれを知っているので「へたにあの人と関わるとこっちが良かれと思ってもかえって気分を害される」となって疎遠になってしまうのでしょう。さらに、質問者さん自身からは積極的に人間関係を築こうとしませんから余計ですよね。

私も20代の頃には質問者さんと似たように考えていて、まあスポーツ選手でいえば自分がいい成績を残せば周囲も自分を認めるだろうと思っていたのですが、そこで思い上がって大失敗をしてしまいまして、んでそういう考えを根本から変えました。
それでようやっと分かってきたのですが、野球やサッカーのようなチームスポーツでは、必ずしも見た目の成績だけがいい選手を集めても上手くいかないんですよね。チームのために自己犠牲ができる選手であったり、選手間やコーチとの間などのパイプ役をしてくれる選手も必要です。そして、そういう選手は往々にしてたいした成績ではないにも関わらず長くチームにいたりします。
ゴルフなんかの個人による競技でも、キャディーやトレーナーなどとの関係がスムースでないと安定した成績をあげられません。
質問者さんはゴルフ選手に例えると、キャディーもトレーナーもぜんぶ自分で抱えてやろうって思っていませんかね?キャディーに頼って勝つようなゴルファーじゃダメだと思ってるんじゃないかしら。でもそりゃあしんどいことですよ。

話が横道に逸れましたね。いつかやりたいこととのバランスですか。それはもう「完璧を目指さない」ことなんじゃないですか。80点以上とれれば上々、70点以上とれれば良し、という気持ちです。なんだかんだで100点を目指してるでしょ。いや、100点を目指さないと80点は取れませんよ。だけど、100点を目指すなら120点を目指すつもりじゃないといけないし、毎度毎度それをやったら持ちません。
一流といわれるサッカー選手は、試合中ずーっと全力ではやらないそうです。スタミナが持ちませんからね。「ここは俺の出番じゃねーや」という場面ではサボるそうです・笑。ところが一流と三流が違うのは、「ここぞ俺の場面」というところではとんでもない集中力を発揮することです。そういう「メリハリ」が上手なんですね。
ですから、そこは上手いことメリハリをつけることですね。

異性関係については、正直厳しいかなとは思います。「お互いに励まし合える関係」といいますが、他人を必要としない人が本当に相手に対して親身になってあげられますかね。恋愛つうのはつまるところ「あなたがいないと生きていけない」ってことではないでしょうか。つまりそこは精神的に依存しているともいえるわけです。完全に自立した関係というのは、そういう意味では相手を必要としない関係でもあります。それはビジネスライクな関係であり、愛とはいえないんじゃないかな。愛とは相手に寄り添うことですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そもそもの矛盾をいい意味として誤解をされやすいので、もう締め切りますが、
ビジネス(仕事)と私事とは、きちんとシーンを分けて考えています。仕事では上手くノーと言えず分担を負ってしまいがちですし、お互いさまという日本人の義理?といいますかそういう最低限の精神は持して、実際人間関係に問題が生じているというわけではないのです。私が悩んでいるのは仕事、そしてプライベートでの人との関係の取り方ではなくして、疲弊状況のさ中に置かれている現状でライフワークにどう集中仕切り直し展開していくのか、あなたの指摘の通りメリハリをつける突破口についてです。
またあなたの指摘の通り完全主義についてこだわって記述したのは、まさに自分が抜け切れていないからです、煙草を辞めた人が禁煙と言っているのと同じです、断煙と言えないのは自分に禁じているからでそれでは続けているのと同じ、という事ですね。
確かに、6割方やれればいいとモットーを掲げていても、ついついいつのまにか(さぼっている間の割合だけ上増しして)自分に厳しい目を持ち理想100%以上を追求し課してしまいがちなのは事実で、ここにこそ自分の矛盾、公私の境界線の引き方が甘かった部分があったのだと思います。仕事を自宅に持ち帰る~間違っています。しかしそうでもしないと間に合わない実態があるからこそで、責務に浸食され棚上げにせざるを得ない私生活に行き詰ってしまっているわけなのです。私は決して他人様のお世話にもならず一人で生きていく~という意味で語ったのではなく、たとえばですが、画家や作家なら一人自力で創作しますよね、創作した上で経営などは専門の助力を得てようやく作品が世に出る、その過程の「決しておひとり様ではない」状態まで無視しようとまで言っていません、そういった世界の構築と成就を指していたわけで、ビジネスシーンでのチームワークまで軽視し自分だけの力でやっていけるとまで傲慢に思っていません。
そして警戒心を持たざるを得ない事情はあるのです・・・
依存には、適度な距離感を持った心地よい依存と密着し過ぎる弊害のある依存があると考えています。自分からいかなる人をも遠ざけたら結果的に正真正銘の孤独になることも承知しています。でも、多少の孤独な遊びの世界のない暮らしにはそれこそ耐えられないです。逃げ場のない居場所のないコミュニティに依ることにも。それは実体験があったからであって、絵空事を呈して拒絶しているのとは訳が違います。

>完全に自立した関係というのは、そういう意味では相手を必要としない関係でもあります。

そうでしょうか。そう言い切れる論には身を入れないでおきますが、「完全に」自立しようとはもはや思いたくありません、もし6割ぐらいの出力で得られるものに満たされたら、それが私にとって100%以上の価値あるものになると信じたいです、それが二人の人間に流れる愛情というものであればなおさら、今は。

貴重なご意見で考える機会をいただき、感謝いたします。

お礼日時:2012/12/20 21:24

「底が無いコップ」を大事にしてるんでしょうね、自分の中で。



底が無いコップでは、水は汲めません。
だけど、自分自身でそのコップに「非常な愛着がある」から、それでもそれで水を飲もうとする。
だけど水は溜まらないから、水道の流れを強くしたりするけど、ほとんど変わらない。
だからバンバン汲んでみる…でもダメ。
徒労をする分、喉が渇くから、尚更何度も汲んでみるけど、結果は同じで喉がなおも渇く。
この繰り返しです。

投げやり、というのは「流れっぱなし」と解釈すれば良いでしょう。
底が無いのだから、流れは留まらないで消えていくだけです。
「いい加減」という意味での「投げやり」ではありません。

コップを新しいものに換えるか、底を何かで塞ぐか。
いずれにせよ、今の「基本的な考え方」やパターンでは、問題の解決はありません。
自分で自分の事を「努力家」だと思っていらっしゃるとは思いますが、一番大事なことは努力ではないのです。
一番大事なことは「自分が良かれと感じる」ことであり、それは他人の投げた「答え」と同一なものではありません。

コップに底が無いのであれば…片手で底を押さえれば飲めるでは無いですか?。
あなたは、自分自身に開いた「穴」を塞がないままで、一生懸命努力しようとしている。
つじつまを合わせようと頑張っている。
だから、幸せ感が得られないんですよ。

自分の手で、自分を大事にする…自分の弱さを知り、痛みには「痛い!」と反応することです。
それを投げ出してきてしまっているから「投げやり」になってしまったんだと思います。

いたずらに「何かに合わせる」ということを意識しすぎないように。
あなたは、あなた以外の何者でもないわけで、何らかの課題も出来たりできなかったりして当然なのです。
時間がかかっても良いから、両手で水を飲んでください。
人生そのものを「投げて」しまうことが、一番生きている中では馬鹿らしいことなのですからね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

正直、さきほど質問を削除しようとしました。
が、回答を寄せていだいておりました。

やはり、わかりません・・・
決して努力しているのではなく、怠けていると考えています。
優先順位をつけて振り分けていく段階で、投げてしまっているのかもしれません。まず仕事ありき、その仕事に不満しか湧いて来ない、不満を持ったまま、順位を上げたいライフワークが二の次になった実態を見て、「こんなんじゃ、本当は優先したいのではないのではないか、したいことなら真っ先にするのではないか」という葛藤です。選んだ仕事への動機が現場では本末転倒としか扱えず、全く関心の持てない課題の締め切りに追われ、疲れきり怒りを抱えて。
人生を降りないとは決めたものの、降りないでいても乗りっぱなしの乗り物が自分の停留所の前を通り過ぎ、ブレーキをかけて止めて下さいと言えない自分のふがいなさ。自分に問いかけ自分の旅を再度仕切り直す時だと感じてはいます。
底のないコップ、、、とてもわかりやすい例えです。
自分のことは十分大事にしているというのも考えものだと感じました、実はやはり周囲への気を使い過ぎ、求めてもいない評価を得るだけで、本来の自己承認が得られないことに苛立っていました。私はどことなく浮世離れした自分の世界にこもりがちだとは自覚していましたが、本音ではそれが底のないコップだとしても、他人や社会がどう思うのかなど全く気にならない自分の生き方を通したいのです。自分の世界を確立して自分のものとしたいのです。

お礼日時:2012/12/20 11:00

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