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斉藤道三が息子義龍に殺害されてから信長が美濃を攻略するのに約15年かかっています
桶狭間から数えても約8年です

その後の信長の加速度的な快進撃を考えると この美濃攻略にもたついていなければ
天下統一を成し遂げたと思うのですが どうなのでしょうか?



義龍謀反の時 道三の援軍に駆けつけた信長は国境に義龍軍のおびただしい旗が翻っていた
義龍は信長の援軍を察知して国境を固めたのである…義龍の鮮やかな采配に信長は「義龍め あのマムシをも欺いていたのか…」と言ったほどですから 義龍はやはり名将であったのでしょうか?

稲葉山城が金華山という天然の要害の山城であったことと マムシが鍛えた美濃は
たとえ義龍が当主とならなくても信長は苦戦したでしょうか?

A 回答 (6件)

次のような要素を考えると答えに近づくと思います。


・道三の死の時点で、信長は尾張の統一すら果たしていません。
・義竜の死(永禄4年、1561)につけ込んで、信長は美濃侵攻をはかりますが、さほど侵攻は進んでいません(幼主龍興でも撃退)。
・美濃侵攻は本格的に進み出すのは永禄8年(1565)頃とされる尾張犬山城の攻略以降です。
・永禄10年(1567)の美濃攻略のきっかけは西美濃三人衆の離反による稲葉山城の孤立化が主要因と考えられます。
以上のことから、稲葉山城が堅城かどうかは関係なく(直接的な侵攻は落城時のみのため)、義竜が優秀かどうかよりも美濃の国人衆がまとまっていたことが信長苦戦の主要因でしょう。
また、美濃攻略に時間がかかったと言うより、尾張平定に時間がかかっているので、美濃攻略への期間としてはそこまでかかっていません(本格化してから2年程度)。
上洛(1568)から畿内制圧(1580)まで12年かかっていることを考えれば、美濃攻略はやはり早いと見るべきでしょう。
美濃攻略が早かったとしても、その後の勢力拡大には様々な敵対勢力・要因が絡んできますから(たとえば史実より信玄と長く戦う可能性が高くなる)、天下統一ができたかどうかは判断できません。

本論とは別に、ちょっと気になったのですが
>「義龍め あのマムシをも欺いていたのか、…」と言ったほどですから 
信憑性の高い史料では見かけたことのない記述ですが、出典は何でしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2012/12/31 21:20

美濃については、斉藤道三と義龍が争ったとき、ほとんどの地方領主が義龍側につきました。


このことから義龍が当主だったときは美濃は盤石な政権だったと思われます。
また三河の徳川家康と同盟をしたとはいえ、もし伊勢に侵攻していたら、背後から斉藤勢に襲われたでしょう。
やっと尾張を統一したばかりでもし斉藤勢が侵略すれば、信長勢は敗北していたでしょうね。
また伊勢は当時北畠家が統治していましたが、旧家でありまた勢力も一国全土を支配しておらず、地方領主の連合体であり、北畠家が尾張に侵攻することは皆無だったでしょう。
京へ上るには美濃路か伊勢路を使用することとなりますので、背後を固めるためにも美濃は必須だったと思いますよ。美濃を統一した時点で、浅井、徳川とは同盟しており武田は上杉と対立中であったものの、急ぐ必要があり、今度は伊勢か南近江かを侵攻するにあたり、北畠家より六角家の方が同盟国の浅井家と対立していたことから、侵攻しやすいためこのルートにしたんだと思います。
ちなみに余談ですが、徳川家と織田家の婚姻で徳川から人質をださず織田家の姫を送っていますが、実はこの時点で徳川はほとんど三河を統一し遠江に侵攻しており、まだ織田家は尾張統一の間際で国力からいえば徳川家の方が強かったため、姫をよこしたという話もあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2012/12/31 21:20

>>ならなぜ無理にでも美濃を攻略しようとしたのでしょう?



尾張だけでは足らなかったから。美濃は交通の要衝だったから。経済圏が一緒だったから。等等。
尾張から勢力を伸ばそうとすれば行き先は三方。
三河、伊勢、美濃。
だが、三河は世に轟く貧乏国。
わざわざ盾になってくれている同盟相手を攻めるメリットは皆無。
伊勢は木曽川河口を挟んで長島願正寺の向こう側。国境も狭く、美濃に優先して攻める意味を感じない。
となれば自ずと美濃に絞られる。
美濃は尾張との国境が長く、しかも木曽川の水運等により極めて近い経済圏を形成している。
つまり、誰が考えても尾張統一の次は美濃だった訳。
更に言うなら、尾張から今日に上る際は美濃、近江、山城となるのが普通。
この辺は地図見れば分かる。
伊勢からの険しい山道に大軍を進めるなんて無謀はしない。

>>国力を鍛えるなら無益に美濃には手出しはせず
   国内で鍛えたほうが損害も少ないと思うのです

鍛えましたよ。だから美濃を獲れたんです。
ですが、尾張だけ鍛えても国力の基本となるものが絶対的に足りません。
美濃攻めは国力の増大のためにも無益ではないのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2012/12/31 21:20

いあ、むしろ尋常ではない速さだと思います。


1556年、道三が死んだとき、信長はまだ尾張に多くの敵を抱えていました。
というか、むしろ敵だらけ。
今川は勿論、弟の信勝、長島の一向宗、清洲の守護代、ままならない他国人衆。
美濃にまで手が回る筈がありません。
1560年、尾張統一して今川の脅威を退け、1562年、美濃攻め。
この間わずか6年。
自分に置き換えてみましょう。
何が変わったって言うのでしょう。
信長の勢力の拡大はすさまじいの一言です。
そして肝心の美濃攻めですが、尾張の石高50万石に対し美濃の石高50万石。
つまり国力的にはほぼ対等であった訳ですから、そう簡単に占領できる筈はありません。
それを、わずか八年で併呑。
ど偉いことです。
八年で国力が倍増しているのですよ。
更に言うなら、この時期に組織をしっかり作っていた事が、その後の近畿制圧を可能にしました。
天下布武
信長が使い始めたのは美濃攻略の直ぐ後です。
もはや信長にはその後の予定は出来上がっていたのかもしれません。
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この回答へのお礼

そうですよね
ならなぜ無理にでも美濃を攻略しようとしたのでしょう?
まぁ 道三の遺言ということもあったでしょうが…

国力を鍛えるなら無益に美濃には手出しはせず
国内で鍛えたほうが損害も少ないと思うのです

お礼日時:2012/12/30 21:28

追伸


信長の初陣は桶狭間(最近では田楽狭間とも言われている)の
戦いだと言われています。 26歳です。
普通は15歳前後で元服し、初陣もその位です。
信長が三英傑の中で負け戦が多いのは、
稲葉山城攻略に時間を要したのと、初陣が遅かったのが原因だと思います。
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この回答へのお礼

そうですか

お礼日時:2012/12/31 21:21

こんばんは。



確かに稲葉山城は堅城でした。
おまけに美濃兵が強かった。
結果的には西美濃三人衆が信長側に寝返ったので、
美濃を手中にする事が出来たんですけど。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2012/12/31 21:21

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