プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

さいきん通訳技法の勉強をしています。
疑問に思ったことは、今の世の中はCDやカセットデッキなど音を反復学習できる機械が一式揃っていたり、辞書なんかも随分充実していると思います。

ほんの一昔前や、大正・明治の海軍軍人には英語が堪能な人が多かったと聞きます。

どんな勉強方法だったんでしょうか?

A 回答 (1件)

明治期の中等高等教育機関は数も少なく、優秀な学生しか入れなかったと思われます。

また、東京帝国大学など旧帝大や、主要都市にあった高等中学校、そして各府県にあった尋常中学校にはけっこう外国人英語教師が雇われていました。例えば、有名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は松江尋常中学校、第五高等中学校(熊本)、そして東京帝国大学で英語の教鞭を執ったことは有名です。ですから、当時の学生たちは優秀でしかも日本語に翻訳することなく、ネイティブの英語を聴きながら、英語を勉強していたのです。ラフカディオ・ハーンが東京帝大で行った講義は、日本人の学生によって筆記され、その原稿がほとんど残っているくらいですから、学生の英語力のレベルの高さが伺えます。

明治も後半になると、日本人の中にも優秀な人は留学後に日本の学校で英語を教えるようになりました。夏目漱石が愛媛県尋常中学校(松山中学校)で教えたのは、坊っちゃんで有名ですね。漱石は第五高等中学校でも、また、東京帝国大学でも教鞭を執っています。ラフカディオ・ハーンと奇しくも同じ学校で教えています。けれども、明治も末期になると、高額な手当をもらっていた外国人英語教師は高くつくという理由や、日本人英語教師でも務まるという考え方、また当時の国際政治状況からも外国人英語教師はだんだんと少なくなっていきました。

特に、海軍軍人には英語が堪能な人が多かったというのはよく知りませんが、当時の状況からして優秀な人間が軍に流れたことは容易に察することができます。

英語の勉強方法については、詳しくは知りませんが、外国人英語教師の生活をサポートしたりして、英語を身につけた学生も少なくなかったようです。通訳や外国人の為に日本の古典を英訳して、紹介した人もいたと聞いています。漱石が帝大の学生の時に、方丈記を英訳したものが残っていますが、それは格調高いものです。漱石は漢文の素養が高かったので、特に重々しい英語が得意だったようですよ。

ご参考になれば幸いです。
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