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強ければいいのではないのか?
どんなに品格がなかろうと、素行が悪かろうと、
勝ちまくれば問題はないのではないだろうか?

だいたい品格などと甘いことをいっているから
日本の力士は外国の力士に勝てないのであろう。

日本の伝統の将棋界でも品格を重んじる人がいた。
現将棋連盟会長の谷川氏がそうだ。
彼自体、だから人間ができている。
名人といわれる人間は品格もすばらしくなければ
ならない、という考え方だ。

ところが、しばらくたって羽生という合理的かつ論理的な
天才棋士が現れた。
彼の考え方は、勝負の勝ち負けに人間性など関係ない。
ただ強いものが勝つ。
いわゆる名人と品格は関係ないという考え方だ。

みなさんは相撲や名人に人間性やら品格やらが必要で
あると思いますか?

A 回答 (14件中1~10件)

教育の問題で、


「長所があれば、短所には幾らかでも目をつぶって、長所を伸ばす」というのと、
「長所があっても、短所があるなら、まずは短所を直すのが先決」というのと、

また、仕事?の問題で、
「一流の選手が一流の監督たりうるかどうかは判らない」ということがあり、
さらには経営ということまで考えたら、OB・OGでなければならないのか?、ということもあるのではないでしょうか


ですから、
>「相撲や名人に人間性やら品格やらが必要であると思いますか?」
には、「必要ではない」となりますか。

私の感覚では、それらは非常に高度な次元の話であって、
「同じものなら、こっちが良い」という判断材料であるとか、


「(完璧な)善か、さもなくば悪か」みたいな了見ではなくて、
「特に異常なし」であれば良い、みたいな考えもあって?
だけどさらには、「とにかく強ければ、後は不問」という立場もあるのか
「強ければ、後は不問」では、後々いろいろ大変かもしれないと思う一方、
「(完璧な)善か、さもなくば悪か」とは、そこまでするか、みたいなことも。
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大相撲は、単なるスポーツではありません。



伝説としての相撲の起源は、野見宿禰が当麻蹶速と対戦し、相手を踏み殺したと言われていますが、これなど文字通り強ければそれでよかったわけです。

しかしその後、闘いというより、五穀豊穣祈願と作柄を占う神事となりました。
平安時代には、「相撲の節会」が行われています。
戦国時代には、武術としての相撲を奨励するようになり、上覧相撲も始まりました。
江戸時代の後期になって、現在の大相撲の前身である勧進相撲が興業を始めました。

このような歴史的な背景をもとに、現在の相撲があり、各種の所作がルール化されているのです。
新人で入門すると、相撲教習所では先ずそれらの相撲の歴史を教えられるそうです。

横綱というものは、単に強ければそれでいいというものではありません。

現在の横綱審議委員会の内規の一番最初には、
 「横綱に推薦する力士は、品格、力量が抜群であること」
となっています。
「品格」の方が「力量」よりも先に求められているのです。

横綱審議委員会などなかった昭和初期の玉錦三右衛門は、「ケンカ玉」との異名があったのですが、こればかりが理由ではないのですが(当時は4大関がいて、二所ノ関部屋は小部屋であったとか)、関脇時代に優勝・優勝同点と続いたにもかかわらず大関にもなれませんでした。
また、大関で3場所連続優勝しても横綱になれなかったのです。
5回目の優勝をしてもダメで、横綱免許が下りたのは、それから5ヵ月後のことでした。

ですから単に強いからというだけでは、横綱になれないという事例は、結構以前からあったことです。
先に述べた伝統を重んじることで、大相撲は国技と言われているのだと思います。

かつては講道館柔道も礼儀を重んじる武道の一つでしたが、世界中に普及させた結果として、スポーツの“JUDO”になってしまい、ポイント稼ぎだけが優先されるようになった轍を、大相撲には踏んでほしくないものです。
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強ければ、それでよい、というのであればそれは


ただの欧米流のスポーツです。

日本に独自性を求めるのであれば、いわゆる国技と
称される大相撲には、別の意義を求めるべきです。
独自性がない国は衰退します。
隣の国は独自性を求めてねつ造までしています。

それほど独自性というのは重要なものです。
それが無ければ、日本は二流の欧米になるだけです。

品格を要求して何が問題なのでしょうか。


”みなさんは相撲や名人に人間性やら品格やらが必要で
あると思いますか? ”
   ↑
必要だと思います。
将棋など、電脳に勝てる素人などほとんどおりません。
そのうちプロでさえ危なくなるでしょう。
事実、渡辺竜王とほぼ互角に戦い、米長元名人に勝っているのです。
電脳が人間を凌駕したとき
強さだけの将棋名人に何が残るのでしょうか。
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そもそも、品格なんて、誰も必要とするようなものではない。

その思考が既に下品。

国家の品格なんて下品な本を書いた人間の品格を推して知るべし。
品格とは結果であって、それを目的にすると下品になるのは当たり前と思う。


品性下劣人間からの回答でした。
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「力士」としては不要でしょう。



ただ歴史上、「横綱」はもともと単なる相撲の最強力士、というものではありませんでした。
横綱の綱は注連縄と同じく、それを張ったものを聖なるものとして扱うという意味であり、本来は地位ではなく名誉です。
(大関兼横綱、関脇兼横綱、という風に)

よって強いだけでは横綱になれないというのは事実です。
ただ、特に戦後において横綱は単に大関の上、最も強い力士の番付になってしまったことに本来は誤謬があるのです。
角界自身がボカしてしまっているその定義をはっきりさせないうちは、いつまでもこの論争が続くことでしょう。
よって結論は
「本来の横綱の意味で言えばNO。ただし現代の相撲の慣習に従えば、強いだけでも横綱でいていい」

となります。
個人的に朝青龍がそこまで品性下劣とは思いませんがね。
乱暴とも粗暴とも言われますが、本当に会って話してみないとわかりません。
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横綱に特別の品格は必要ないと思います。


ただ、横綱である前に大人の人間なわけで、品性下劣とかであれば、人間としてだめでしょう。
まっとうな大人の社会人としての品性があればいいと思います。
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まぁ強くて品格があるのが白鵬ですからね。


強いが品格がないのが朝青龍でしたね。
(個人的には好きですが)
つまり品格うんぬんの前に日本人の名前は出てこないですね。
ひとことで言えば「弱い」だけです。
がんばってほしいものです。
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>横綱に品格など必要あるのか?



強ければいいのではないのか?

そういったマウンテンゴリラのような力士を多数の観客が大いに喜べば相撲協会は商売上はOKするかもしれません。でも、天皇陛下も観覧される国技といわれる伝統のあるスポーツですし、超強いとはいってもそういった力士を必要とするかどうかは疑問です。
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>みなさんは相撲や名人に人間性やら品格やらが必要であると思いますか?



「必要」だと思います。
ただし、「心技体」のバランスが取れてないと「ダメ」でしょう。

>どんなに品格がなかろうと、素行が悪かろうと、
>勝ちまくれば問題はないのではないだろうか?

「問題、大有り」でしょうが。
『素行の悪さ』にも寄るけど、限度を超せば「横綱」どころじゃ無い。
相撲を廃業ってコトに成るでしょ。
先の回答者さんが、実例(実名)を挙げてますよね?。

日本人力士が弱くなった原因は、複数の事情が有るでしょうけど「競技人口の減少」が大きな理由、かつ単純な理由の一つでしょう。
今の子供たちが、遊びで「相撲」とってる姿を、オジサンは、もう何年も見た事が有りません。
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その昔、北尾というムチャクチャな横綱がいました。


彼なんかを見ると、やっぱり最低限の品格は必要だな~と思います。
ただ品格品格言い過ぎて、力士が萎縮してしまうようなのは
良くないですね。
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