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 日本語を勉強中の中国人です。村上春樹氏の「走ることについて語るときに僕の語ること」という随筆を読んでおります。理解できないところがありますが、教えていただけないでしょうか。

『僕はもともと、長距離を走ることが嫌いではない。学校の体育の時間は好きになれなかったし、運動会みたいなものにはつくづくうんざりさせられた。しかしそれは上から「さあ、やれ」と強要された運動だったからだ。自分のやりたくないことを、自分のやりたくないときにやらされることに、昔から我慢できない。そのかわり自分がやりたいことを、自分がやりたいときに、自分がやりたいようにやらせてもらえたら、人並み以上に一生懸命やる。』

1.「僕はもともと、長距離を走ることが嫌いではない」と「学校の体育の時間は好きになれなかったし、運動会みたいなものにはつくづくうんざりさせられた」の間に、なんだか物足りない感じがします。「でも」という弱い逆接の言葉があったほうが自然になるような気がします。なぜ「しかし」という強い逆接の言葉がかえって「うんざりさせられた」の次に置かれたのでしょうか。「うんざりさせられた」の次に「しかし」はないほうが自然になるではないかと思われます。皆様はいかがお考えているでしょうか。

2.「自分がやりたいようにやらせてもらえたら」のなかの「ように」と「やらせてもらえる」はそれぞれどういう意味でしょうか。「やらせてもらえる」と「やれる」の違いは何でしょうか。「使役+もらう+可能」という構造に対して頭の回転が遅いです。「やらせてもらえる」だと学校から許可をもらっているようなニュアンスになるのでしょうか。

 また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (5件)

日本人である私には、違和感も引っ掛かりもなく村上氏の文章を読めました。


しかし、日本語を文法書などの文字情報から勉強している外国の方には、村上氏の文章は省略が多く、場面もあちらこちらへと飛ぶので前後関係が上手く繋がらなかったり、時間軸の流れが掴み難かったりで、違和感を憶えるかもしれませんね。
けれども、日本語を母国語として耳から覚えた私には、村上氏の文章は日常会話の感覚で自然です。

ご質問で引用している文章は随筆だということですから、村上氏の普段の話し言葉の感覚で自由に書かれたものなのではないでしょうか。対談やインタビューをそのまま文章に書き起こしたら、丁度こんな感じになると思います。
良く整理された文章は秩序正しく、誰が読んでも解り易いものになるかもしれませんが魅力は半減してしまいます。あまり説明口調だとインパクトが弱く退屈な文章にもなりかねません。会話の感覚で書かれた村上氏の文章は、肉声のように血の通った文章で、頭よりも直接心の中に入り込んで行く、そんな感覚で読めました。


◇◇ 質問1について ◇◇◇

>「僕はもともと、長距離を走ることが嫌いではない」と「学校の体育の時間は好きになれなかったし、運動会みたいなものにはつくづくうんざりさせられた」の間に、なんだか物足りない感じがします。「でも」という弱い逆接の言葉があったほうが自然になるような気がします。

原文は、一気に読ませる様にリズムを重視して書かれた文章である、そういう印象を持ちました。ですから、ご指摘の箇所に「でも」を入れてしまうと、そこに注意が行ってしまって、一旦ブツッと途切れた感じになり、読者も感情移入がし難くなってしまいます。「もともと、長距離を走ることが嫌いではない」と語る作者の、過去の苦い想い出が今明かされるのだと気分が高揚したところで「でも」と入れられてしまうと、一緒にその記憶を駆け抜けようとしている読者としては、石に躓いた様な肩透かしを食った様な、妙な違和感を感じてしまうのです。原文は文法に囚われて読むと手直ししたくなるかもしれませんが、音読で読んでみてください。実に流れが良いのです。

「でも」を入れることが決して間違いだとは思いませんが、作者の村上氏は現在も過去も一貫して「長距離を走ることが嫌いではない」という態度です。過去に学校の授業や行事で運動を強要されることには辟易していたけれども、村上氏は決して「運動嫌いにはなっていない」し、「自分がやりたいことを、自分がやりたいときに、自分がやりたいようにやらせてもらえたら、人並み以上に一生懸命やる」のです。だから、作者は「でも」を入れる必要性を全く感じなかった(作者自身のポリシーが変わってしまうことはなかった)ということで、作者の心情を表現するのには、このままで良いのです。


>なぜ「しかし」という強い逆接の言葉がかえって「うんざりさせられた」の次に置かれたのでしょうか。「うんざりさせられた」の次に「しかし」はないほうが自然になるではないかと思われます。

上記の質問文ですが一部間違いがあります。下記の《 》ように添削しましたので参考にしてください。
《なぜ「しかし」という強い逆接の言葉が「うんざりさせられた」の次に置かれたのでしょうか。「うんざりさせられた」の次に「しかし」はないほうが自然なのではないかと思われます。》

ここでの「しかし」は「でも」と同じ意味で、前述の事柄に対して「弁解・反論」をするために使われています。下記の参考リンク2の用法がそれにあたります。なお、「しかし」は語気を強める意味合いで使われているものと思われます。
【でも】http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%8 …

前述の“学校の体育の時間は好きになれなかったし、運動会みたいなものにはつくづくうんざりさせられた” を受けて、“それ(うんざりさせられたの)は上から「さあ、やれ」と強要された運動だったからだ。自分のやりたくないことを、自分のやりたくないときにやらされることに、昔から我慢できない。そのかわり自分がやりたいことを、自分がやりたいときに、自分がやりたいようにやらせてもらえたら、人並み以上に一生懸命やる”と弁解と反論をしているのです。
「しかし」と切り出すことで、作者が不本意な思いをさせられた悔しさや本来の自分について思いを込めて語っている場面なので、この「しかし」を外すことは出来ません。


◇◇ 質問2について ◇◇◇

>「自分がやりたいようにやらせてもらえたら」のなかの「ように」と「やらせてもらえる」はそれぞれどういう意味でしょうか。「やらせてもらえる」と「やれる」の違いは何でしょうか。

・自分がやりたいように=自分が思った通りに(思い通りに)=好きな通りに
  ―― ここでいう「ように」とは、「方法で・やり方で・通りに」という解釈になります。
 
・「やらせてもらえる」=「やって良いと許可が下りる・しても良いと許可が下りる」

・「やれる」=「ラ行五段活用動詞“やる”の可能動詞」=「やることが出来る・することが出来る」

 【やる】http://dic.yahoo.co.jp/detail?p=%E9%81%A3%E3%82% …
  ―― 「やる」 とは、この場合「する・行う」という意味になります。 
      (「やる」の意味は、上記の参考リンク6を参考にしてください。)

【可能動詞】
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&stype=0 …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%83%BD% …


>「やらせてもらえる」だと学校から許可をもらっているようなニュアンスになるのでしょうか。

はい、仰るとおりです。

質問文に不自然な表現があれば教えて欲しいと言うことでしたが、間違いを探す方が難しいぐらい、よく勉強をなさっていると思います。ご質問者の日本語は簡潔で、綺麗な文章で書かれているので何が聞きたいのか解りやすく、こちらこそ見習いたいものだと思いました(私の回答の説明が長くて申し訳なく思っています)。
よく見直しをしたつもりですが、回答中に解りにくい箇所がございましたら補足をよろしくお願いいたします。

この回答への補足

>>なぜ「しかし」という強い逆接の言葉がかえって「うんざりさせられた」の次に置かれたのでしょうか。「うんざりさせられた」の次に「しかし」はないほうが自然になるではないかと思われます。

上記の質問文ですが一部間違いがあります。下記の《 》ように添削しましたので参考にしてください。
《なぜ「しかし」という強い逆接の言葉が「うんざりさせられた」の次に置かれたのでしょうか。「うんざりさせられた」の次に「しかし」はないほうが自然なのではないかと思われます。》

もともとのこの質問文の意味は「僕はもともと、長距離を走ることが嫌いではない。」と「学校の体育の時間は好きになれなかったし」の間に「でも」という弱い逆接の言葉が必要だと私は感じました。けれども、村上氏はそこにその弱い逆接の言葉を入れずに、かえって、私が逆接が不必要だと思うところに、強い逆接である「しかし」という言葉を入れました。私は前に弱い逆接が必要で、後ろに強い逆接が不必要だと認識しています。いるところには入れない、いらないところにかえってさきほどいると思うところよりもっと強い逆接の言葉を入れたことに対する驚く、不思議な気持ちです。「のに」だと村上氏を責めるニュアンスになってしまうので、避けました。こういうつもりで、「かえって」を入れて、こういったニュアンスを表したかったと思います。でも、添削された文は私のこのニュアンスがなくなったようです。どのようにこの驚く、不思議な気持ちのニュアンスを表すことができるのでしょうか。もう一度教えていただけないでしょうか。

補足日時:2013/02/21 17:50
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。疑問が解けました。いろいろとても参考になりました。質問文までも添削してくださり、心から感謝いたします。ただ、添削された文は私のもともと表現したかったあるニュアンスを失ったようです。もう一度ご意見をお伺いすることができれば嬉しく思います。よろしくお願いいたします。

お礼日時:2013/02/21 17:56

No.4です。

返信が大変遅くなり誠に申し訳ございません。
また、お礼と補足をありがとうございました。

「かえって」とは、ご質問者が村上氏の文章を読んで感じた率直な疑問と驚きを強調する為の表現だったので、この言葉は外してはいけなかったのですね。
間違ってなどいなかったのに、勝手な解釈で添削をしてしまったことをお詫びいたしますと共に、なぜ そのように添削してしまったのか経緯をお話します。

***

さっと流して読んだ一読目は、「逆接が必要と思われるところにはなく、不要と思われるところに入っていることに対する驚きと疑問がご質問のテーマである」ということは理解できていたのですが、ご質問の最後には、不自然な表現があれば教えて欲しいということが追記されていましたので、何度も ご質問文を読み直すことにしました。

すると、“なぜ「しかし」という強い逆接の言葉がかえって「うんざりさせられた」の次に置かれたのでしょうか。「うんざりさせられた」の次に「しかし」はないほうが自然になるではないかと思われます。”の箇所が、若干、言葉の流れが悪く意味が取りづらい文章になっているなと、違和感を持ちました。言いたいことは解るのだけれど、「かえって」の言葉が入る位置が良くないのか、どこか馴染まない様に思えて、この一語については直した方が良い様に思えました。
他にも、“なぜ「しかし」という強い逆接の言葉が~次に置かれたのでしょうか。”と始まることが聊か唐突に思え、何かワンクッション言葉を補いたい気がしていました。上手く説明できないけれど、この違和感は何が原因なんだろう?と思いながらも、そのまま読み進めました。

すると、その後に続く後述部(“「うんざりさせられた」の次に~自然になるではないかと思われます。”)が、どこかぎこちない文章に感じられました。
“ないほうが自然になるではないかと思われます。”これを間違いだとしてしまうのは言い過ぎですが、少し間延びした表現なので、もう少し短くした方が馴染みが良いと考えたのです。しかし、「思われます」とは可能を表す助動詞であり、断定する迄には至らない、「おそらく、そうだと思います」 「(~のような考えを導くことが)出来ると思います」そういう意味で使いたかったのだろうから、この箇所はそのまま残した方が良いと考え、“ないほうが自然になるではないか”の方を手直しして《ないほうが自然なのではないか》と少し短い表現に直しました。

また、前回の回答では、添削する際に書き起こすのを忘れていたのですが、質問1の締めの言葉、“皆様はいかがお考えているでしょうか。”の“ている”は不要で明らかな間違いだったので、もしかすると質問1を読んでところどころで感じて来た違和感は、単にご質問者のタイピングミスや編集ミスだったのでは?と推測するに至りました。

再度の指摘で申し訳ないのですが、“お考えている”は明らかな間違いです。
ここでは“ている”は使わずに“皆様はいかがお考えでしょうか”とするのが正しく、“いる”をどうしても使いたいのなら、“皆様は、いかなる考えをお持ちでいるのでしょうか”とするのが正しい表現です。(“いかなる”とは“どんな・どのような”という意味です。)しかし、“で”が二度も使用されるとくどいし、少し間延びした表現になりますから、“いる”を入れずに“皆様は、いかなる考えをお持ちでしょうか”とした方が語感が良いです。“いる”を使うのなら他に“皆様はいががなお考えでいるのでしょうか。”としても間違いではありませんが、場面によっては人を馬鹿にしているとも取られかねず、少し嫌味な感じがするのでお勧めしません。

“かえって”という表現に話を戻しますが、ご質問者が仰るニュアンスのことも、若干 気になってはいたのですが、意味が取りづらくなるよりはと、思い切って語句を削ってしまいました。
―― ここまでが前回の回答の経緯となります。

添削の件については、一部とはいえ、ご質問者のもとの文章を間違いだと言い切るのは言い過ぎで、失礼なことをしてしまったと申し訳なく思っています。
こうやって改めて読み直すと、間違っていると言い切れるのは“皆様はいかがお考えているでしょうか。”の箇所だけだと思います。
編集ミスを疑っていた件に関しては率直に、「不躾な疑問を持ったので お訊きしたいことがあります。」とこの後の回答が無礼な内容となってしまう可能性を示した上で、参考意見として書き進めた方が良かったと反省しています。

***

質問1全体を《  》の様に手直ししてみました。
添削文を二例書きましたが、どちらも大意は変わりません。今回は補足していただいた内容を考慮した上で、全体の語感や流れを良くするために、語調を整えたり説明を補ったりしています。
今回のものは間違いを正すというよりも、言い換え文の例として参考にしていただければ幸いです。

《「僕はもともと、長距離を走ることが嫌いではない」と「学校の体育の時間は好きになれなかったし、運動会みたいなものにはつくづくうんざりさせられた」の間に、なんだか物足りなさを感じています。「でも」という弱い逆接の言葉があったほうが自然になるような気がしているからです。ところが、逆接の言葉がここでは使われず、かえって不必要だと思うところで置かれたことに驚きを覚えます。なぜ「しかし」という強い逆接の言葉が「うんざりさせられた」の次に置かれたのでしょうか。「うんざりさせられた」の次に「しかし」はないほうが自然なのではないかと思われます。皆様はいかがお考えでしょうか。》

《「僕はもともと、長距離を走ることが嫌いではない」と「学校の体育の時間は好きになれなかったし、運動会みたいなものにはつくづくうんざりさせられた」の間に何かが抜け落ちているような違和感があります。「でも」という弱い逆接の言葉があったほうが自然な気がするのです。ところが、逆接の言葉がここでは使われず、かえって不要だと思うところで置かれたことが腑に落ちません。なぜ「しかし」という強い逆接の言葉が「うんざりさせられた」の次に置かれたのでしょうか。「うんざりさせられた」の次に「しかし」はないほうが自然なのではないでしょうか。皆様は、いかなる考えをお持ちでしょうか。》

※今回は新たに「ところが」という言葉を加えました。これも逆接に使われる言葉で「意外性を強調したいとき」に使われることがあります。

***

最後に、前回は割愛したことを書きたいと思います。
>「でも」という弱い逆接の言葉があったほうが自然になるような気がします。

というご意見についてですが、ここにどうしても逆接の言葉を入れたいなら「なのに」”が使えると思いました。
【なのに】http://dic.yahoo.co.jp/detail?p=%E3%81%AA%E3%81% …

ここは作者が“矛盾した感情”を語ろうとしている場面です。
ですから、ここでは「なのに」を補って読むと違和感なく読めると思います。
「でも」とは、「そうであっても」という、前述の事柄に対して何か言い足りない思いを語りたいときによく使われる表現なので、ここで使うのは日本語の表現としては馴染まないと思います。

客観的で論理的な文章によく用いられる逆接を表す言葉には、「しかし・けれど(も)・が・だが・ところが」などがあります。
「なのに」や「でも」は上記の言葉に比べると主観的・感情的な表現で、未熟な印象もあるので、入れない方が良いと作者は考えたのかもしれないですね。
逆接の言葉を入れなくとも言いたいことは伝わるので、作者は必要性を感じなかったんだと思います。
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この回答へのお礼

 再びありがとうございます。例文を拝見しました。繰り返し読みます。「お考えている」はタイプミスではなく、私の間違いです。今後気をつけます。何度もご親切に回答していただき誠にありがとうございました。とても助かりました。

お礼日時:2013/02/27 21:56

「僕はもともと」以下の文章はこれで良いと思います。

~嫌いではない(でも、だが)等の助詞を
分かりきったところに入れるとくどい歯切れの悪い文章になります。
「しかし」の次はなぜうんざりさせられたかの説明で、それが強要された運動であること。
それ以下の自分がやりたい時に~人並み以上に一生懸命やる。と最後までかかります。
しかしという言葉が無かったら間が抜けた文章になると思います。


やりたいように、好きなように、などに使われる「ように」はそのようにという
状態を表しています。望むままにという意味です。
やらせてもらえる。なになにさせてもらえる。自分の願望がかなえられる。許可される
時に使います。学校から許可が貰えるというニュアンスで良いと思います。

質問文は問題ないと思います。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。理解できました。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/02/21 17:22

1、質問者様の考えは間違っているように思います。

文章はこれで自然です。
>。なぜ「しかし」という強い逆接の言葉がかえって「うんざりさせられた」の次に置かれたのでしょうか。

学校の体育の時間は好きになれなかったし、運動会みたいなものにはつくづくうんざりさせられた。

この2つの事柄は、最初の「僕は…嫌いではない」に相反する事例になって、そのあとの しかしそれは で説明され解決されています。論理的な文章だと思います。

2、
>自分がやりたいようにやらせてもらえたら

自分がやりたいと思っている(スポーツを)自分の自由なやりかたで実行する(愉しむ)ことが許されたら という意味になります。

>やらせてもらえる」と「やれる」の違いは

>学校から許可をもらっているようなニュアンスになるのでしょうか。


前者はそういう理解でいいと思います。やれる は単なる「可能だ、じぶん一人ならできる」という意味です。
学校の授業として行うスポーツは、体育教師が「こうしろ」という方法に従って行うのが規則です。間合いをとったり、長く休んだりする自由はありません。自由にはやれないのです。


ご参考になりましたか?
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この回答へのお礼

 ご親切に回答していただきありがとうございます。わかるようになりました。いろいろ参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/02/21 17:18

よく外国の人から『日本語はあいまいで分かりにくい』と言う趣旨(しゅし)の話を聞きますが、日本語が持つ特徴の中で、欧米(おうべい)の言葉や中国語と違うものの一つにその言葉が直接的に表現するもの以外に、その言葉が想起(そうき)させるイメージを利用して語る事が容易(ようい)であるという事があります。



質問1の『もともと走ることが嫌いではない』人は、今の(現在の)村上氏で、『やりたいようにやらせてもらえたら、人並み以上に一生懸命やる。』のも、今の村上氏ですが、大人の村上氏が『学校の体育の時間は』と述べた瞬間に、読んでいる人は一瞬で『小学生の時の村上春木』を想起します。

ここで『「でも」という弱い逆接の言葉』があると、読んでいる人の意識は「小学生の頃を思い出して語っている今の村上春木」から離れず、前記のタイムトリップは完成しません。

逆に、「うんざりさせられた」の後に「しかし」を置くことで、「強制された運動だったからだ」までが過去の話として連続し、次の「自分のやりたくないことを」から今の村上春木に話が戻ります。

日本の優秀な作家は、よく同様の手法でわざと前置詞や接続詞を省く(はぶく)事で、読む人を一瞬で物語の中に引き込みます。欧米や中国では突然「感嘆詞(かんたんし)」を入れたりしませんか?それと同じです。

質問2についても同じ様な事が言えます。

「自由にやれる」と言う時は、そこに「自由にやれる自分」しかいませんが、「自由にやらせてもらえる」と言うと、そこには「自由にやれる環境」を与え(あたえ)てくれた人やその環境、与えられた環境の中で「自由にやっている自分」を見てくれている人達など、「社会」や「コミュニティー」、「コンセンサス」といったものに関連付けられたイメージを想起させる事が出来ます。

『言葉の意味のまま』ではなくて、『その言葉を聴いた「同じ文化的背景を持つ人たち」がその言葉を聴いただけで一瞬に想起するもの』によって読む人を物語りの中へ誘う(いざなう)と言う、作家のテクニックの様なものだと私は考えます。

ちなみに、あなたの日本語はとても正確です。私から指摘する事は有りません。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。タイムトリップという手法は理解できるようになりました。いろいろ大変参考になりました。ちなみに、中国では突然「感嘆詞(かんたんし)」を入れたりする手法は知りませんでした^^;。勉強になりました。本当にありがとうございました。がんばります。

お礼日時:2013/02/21 17:15

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