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 ヨハネによる福音の次のくだりで アガペーないし動詞のアガパオーとそして フィリアないし動詞のフィレオーが使い分けられているのでしょうか? その解説をしてくださる方は いますか。


 すでに死後において復活したイエスが ペテロらと話しています。ペテロに向かって 《わたしを愛しているか》と三度たずねています。二度目までは《アガパオー》を用い三度目には《フィレオー》で表わされているようです。
 ちなみにペテロは 三度ともフィレオーで答えています。
 この事情について何か特別なことがありましょうか?

 ▲ (ヨハネ福音21:15-17) ~~~~~
 15: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c …
  食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、

  「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛している( ἀγαπᾷς με アガパース メ)か」

 と言われた。ペトロが、

  「はい、主よ、わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε フィロー セ)ことは、あなたがご存じです」

 と言うと、イエスは、

  「わたしの小羊を飼いなさい」

 と言われた。

 16: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c …
 二度目にイエスは言われた。

  「ヨハネの子シモン、わたしを愛している( ἀγαπᾷς με )か。」

 ペトロが、

  「はい、主よ、わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε )ことは、あなたがご存じです」

 と言うと、イエスは、

  「わたしの羊の世話をしなさい」

 と言われた。

 17: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c …
 三度目にイエスは言われた。

  「ヨハネの子シモン、わたしを愛している( φιλεῖς με フィレイス メ)か。」

 ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。

  「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε )ことを、あなたはよく知っておられます。」

 イエスは言われた。

  「わたしの羊を飼いなさい。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 まとめ: イエス・・・・・・・・・・・・・ペテロ
    _________________
 一度目:ἀγαπᾷς με―― φιλῶ σε
      lovest thou me ――  I love thee       (KJV)
     わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している(新共同訳)
 二度目:ἀγαπᾷς με――φιλῶ σε
      lovest thou me?――  I love thee
     わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している
 三度目:Φιλεῖς με――φιλῶ σε
       Lovest thou me?―― I love thee
     わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している



 ☆ 質問者に成案はありません。したがってたたき台はありません。
 分からないなりに思うことは:
 ( a ) 三度問いかけることが重要なのではないか? 内容が確立する〔ため〕という意味において。

 ( b ) だから アガパオーとフィレオーとはどちらでもよいのではないかという見方ですが それにアガペーは 人間のチカラでおこなえる愛ではないとすれば なおさら どちらでもよい思われます。

 ( c ) でももしふたつの語に違いがあるのなら キリスト・イエスは そのことについて何らかのかたちで留意するようにとうながす意味で使い分けた恰好になっているのかも知れない。

 ( d ) ただし イエスらが実際にはギリシャ語で話すことはなかったであろうから あくまで物語として聖書記者はそのように表現の使い分けをおこなった。


 以上ご教授ください。

A 回答 (4件)

こんにちわ、ぶらじゅろんぬさん。


ご返事ありがとう。
サッカーのコーチが終わってから
久しぶりに聖書をぺらぺらしてました。



おいらがふと目に留めたのは この辺おす。
イエスがどっちの【愛】を表現しているのか
またそのことに意味があるのかは
まるで分かりませんが とりあえず。



◇ヨハネ13-5 あたりから。
人間イエスが たらいに水を入れて
弟子たちの足を洗っています。

これはどっちなんでしょうね。


分かりませんが、
「わたしが洗わないなら、
あなたとわたしと何の関係もありません。」
と言っています。

これはどっちなんでしょうね。

結局「関係し合っていること」「表現し合うこと」
を示しているのだとは思うんだけど。


◇2.ヨハネ15-15あたりから。
わたしはもはやあなた方を奴隷とは呼びません。
(中略)
しかしわたしはあなた方を友と呼びました。

これもどっちの【愛】なのかわかりませんが、





3度目の「わたしを愛しているか?」は、
関係し合っている(不完全な)人間同士でも
できるときにできるぶんだけ表現し合える
ということを強調したのかなあ、とも思えました。


ほぢゃ、お邪魔しました。
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この回答へのお礼

 にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ◇ヨハネ13-5 あたりから。
 ☆ これは・これも むつかしそうですね。

  ▲ ヨハネ福音13:1-20  § 弟子の足を洗う
 
 として ひとまとまりとなっているようですが 見てみると ふたつの主題があるように思われました。

 1. 《お前たちも足を洗い合わなければならない》という或る種の愛のあり方について。
 2. 《わたしのパンを食べている者が わたしに逆らった》(詩編41:9または41:10)という聖句が成就するようにという例のユダの裏切りについて。


 ◇ ~~~~~
 結局「関係し合っていること」「表現し合うこと」
 を示しているのだとは思うんだけど。
 ~~~~~~~
 ☆ どうなんですかねぇ。というのは けっきょくわたしにはまだ分からないからです。どうもピンと来ません。大きく・または基礎の問題として おっしゃるようなことなのでしょうが。





 ◇2.ヨハネ15-15あたりから。
 ☆ これは 【Q:《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?】の聖句なのですが いまここで考えてみます。
 ひとまとまりのクダリを引いて その中の《愛》という和訳の原語をしめします。けっきょくここではぜんぶ《アガペー ἀγάπη agapē/ アガパオー ἀγαπάω agapaō》でした。

 ▲(ヨハネ福音15:1-17) ~~~~~
 § イエスはまことのぶどうの木

 1:「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

 2:わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

 3:わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

 4:わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

 5:わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 6:わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

 7:あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 8:あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 9:父がわたしを愛された( ἠγάπησέν με )ように、わたしもあなたがたを愛してきた( ἠγάπησα ὑμᾶς )。わたしの愛に( ἐν τῇ ἀγάπῃ τῇ ἐμῇ )とどまりなさい。

 10:わたしが父の掟を守り、その愛に( αὐτοῦ ἐν τῇ ἀγάπῃ )とどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛に(ἐν τῇ ἀγάπῃ μου )とどまっていることになる。

 11:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

 12:わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい( ἵνα ἀγαπᾶτε ἀλλήλους καθὼς ἠγάπησα ὑμᾶς )。これがわたしの掟である。

 13:友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛( ἀγάπην )はない。

 14:わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

 15:もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

 16:あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

 17:互いに愛し合いなさい( ἀγαπᾶτε ἀλλήλους )。これがわたしの命令である。」
 ~~~~~~~~~~~~~


 けっきょく無難なところでは イエスが言うとき《アガペー》を使ってもよい。だから そのアガペーに 人間のふつうの愛がふくまれるかたちと見れば よいかも知れない。と思うようになりましたが これはいわゆる妥協案ですね。





 ◇ ~~~~~~~
 3度目の「わたしを愛しているか?」は、
 関係し合っている(不完全な)人間同士でも
 できるときにできるぶんだけ表現し合える
 ということを強調したのかなあ、とも思えました。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これについては わたしは慎重です。なぜなら 英訳や和訳のように この愛の語を使い分けないで決定訳としている状態にあるということは何を意味するか? つまり 特に使い分けなくても意味は通じると判断している。はずです。
 ですから よほどしっかりした理由のある《使い分け》の事情が分かるのでなければ 解釈は定まらない。こう思われるからです。
 むつかしいですね。基礎としての問題なら もう定まっていると思われますが。

お礼日時:2013/03/16 20:32

こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。


あまりくわしく知らないんですが
ボソッとしゃべってみます。


大垣市は踏切がほとんど無く、
線路の下は たいてい
幅1メートル弱の地下道なのですが、

幅1メートル弱ですから 自転車同士
地下道の中ですれ違うことはできず、

地下道に入ってから
反対側からの通行人がいれば
どちらかが引き返します。
高校生の集団が通るときなどは
おぢさんおばさんは1分ぐらい待ちます。
相手が知らない人でも、です。
ゆづり愛です。


これは「友愛」というよりは
人間が知らず知らずしている
「相互_利」なんぢゃないでしょうか。


近隣住民を「友」だと思っているからだ
とか突っ込まれそうですが。

___________


おいらはオカンとして
娘息子と接することがあります。
11年前 娘が生まれたとき
オカンというサブネームを持ったからです。

けど娘息子と公園に遊びに行けば
おいらはオカンではなく
一緒に遊ぶ仲間ですねー。



おいらはキリストではないので
毎日24時間 愛を飛ばす
のは無理ですが


アガペーなりフィリアなり
できるときにできるだけ
表現したらいいんぢゃないかなー
と思いました。

ちなみにうちの娘息子は
おいらが「大好きだよ。\(^o^)/」というと
「知ってらあ。(●^o^●)」と答えます。


ほぢゃ、お邪魔しました。

                 
                         
                              
                                    
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この回答へのお礼

 そうですね。まづは にゅうとらるさん こんばんは。久方ぶりのご投稿でしょうか。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。とずけずけと言ったのは 【Q:利他って何ですか】や【Q:友のために自分の命を捨てる・・・愛・・・】の問いにぴったりではないかと思ったからです。

 ★ ~~~~~
 地下道に入ってから
 反対側からの通行人がいれば
 どちらかが引き返します。
 高校生の集団が通るときなどは
 おぢさんおばさんは1分ぐらい待ちます。
 相手が知らない人でも、です。
 ゆづり愛です。
 ★ ~~~~
 ちなみにうちの娘息子は
 おいらが「大好きだよ。\(^o^)/」というと
 「知ってらあ。(●^o^●)」と答えます。
 ~~~~~~~
 ☆ というのは 日常生活における《愛》ということでその基礎だというひとつの結論を得ていました。

 ということは アガペーにしてもフィリアにしても そのような基礎における振る舞いにもとづいているはずだ。ともなります。

 そういう意味では確かに実践としては
 ★ ~~~~
 アガペーなりフィリアなり
 できるときにできるだけ
 表現したらいいんぢゃないかなー
 と思いました。
 ~~~~~~
 ☆ ということで ほとんどのことは足りると言ってもよいのではないかと思います。
 《出来るときを見つけたなら 出来るだけ》ですから。

 
 ただしこの質問は 聖書の特定のくだりを取り出しての問いですので そこは 果たして基礎の実践のことを考慮して どういう答えが出せるか。という次の段階へもすすむことになるかと思います。

 そしてそのときにも じつはわたしは 趣旨説明欄の( b )にもちらっと書きましたように どちらかと言うと そのような基礎の実践にもとづこうという見方をしてはいます。

 
 まぁ ですけど 聖書学か神学として問い求める余地はあるかも知れません。わかりませんので もう少し開いていて俟つことにします。こんな感じになりました。

お礼日時:2013/03/15 21:01

bragelonneさん おはようございます。



私はこの話は、キリストが十字架につけられる受難に際し、キリストがおしゃった通り、ペテロが鶏が鳴く前に「3度私を知らないというだろう」に結びつくのでは?と考えます。

あなたのことは知らない=無関心

これでは、友愛は成り立ちませんね。

しかし、あまり突き詰めると、当時いた、キリストに叱られた、ファリサイ派とサドカイ派のような、むなしい論争になり、行動という実践が伴わなければ、無意味と考えますので、bragelonneさんには、ずんぶんたくさんのことを教えていただき感謝いたしておりますが、哲学サイトへの投稿は控え、まだ読んでない本の消化に励みます。
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この回答へのお礼

 あめんほてぷ2000さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。《異者の受容》とともに 異見とのやりとりを重んじて こちらからもなるべく異なった見方を提出してみます。

 まづ なるほどと思ったのは:
 ★ 私はこの話は、キリストが十字架につけられる受難に際し、キリストがおしゃった通り、ペテロが鶏が鳴く前に「3度私を知らないというだろう」に結びつくのでは?と考えます。 
 ☆ 三度同じことを繰り返すというのは 確定するという意味があるのではないかと思ったのですが この《ペテロの裏切り》の場合にも 数字の三が出て来ますね。

 あらかじめ言えば
 ★ ~~~~
 あなたのことは知らない=無関心

 これでは、友愛は成り立ちませんね。
 ~~~~~~~
 ☆ ということで そしてたぶんそれ以上にやはり《裏切り》なのだと考えます。

 ひとつに カリオテの人ユダだけが裏切りをおこなったのではないということ。

 ひとつに イエスの生前には誰もイエスが――自分の父は天なる神であると話していても――神の子でありみづからも神であるキリストだとは分からなかった。
 せいぜい預言者であると見たか あるいはローマからの独立を勝ち取るための政治的解放者であるかまたは人びとの身と心を癒す者であるかだと思っていた。

 ひとつに それでも弟子たちは 磔のあとに――復活したイエスに出会って――《ひつじを飼う》役目に就くことは 分かっていた。
 ▲ (出エジプト記33:21-23) ~~~~  
 21: 更に、主は言われた。

   「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
   あなたはその岩のそばに立ちなさい。
 22: わが栄光が通り過ぎるとき、
   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
   わたしが通り過ぎるまで、
   わたしの手であなたを覆う。
 23: わたしが手を離すとき、
   あなたはわたしの後ろを見るが、
   わたしの顔は見えない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうしてやっとイエスが十字架上に去って行ったあと その《背面》を見るようにして弟子たちは イエスがキリストであると分かった。

 ペテロは弟子たちの代表として取り上げられて記されていると思います。その裏切りの場面を掲げておきたいと思います。

 ▲(ヨハネ福音13:36-38;;18:15-18、25-27) ~~~~
 § ペトロの離反を予告する

 36:シモン・ペトロがイエスに言った。
 「主よ、どこへ行かれるのですか。」
 イエスが答えられた。
 「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」

 37:ペトロは言った。
 「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

 38:イエスは答えられた。
 「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」



 § ペトロ、イエスを知らないと言う

 15:シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、

 16:ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。

 17:門番の女中はペトロに言った。
 「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」
 ペトロは、「違う」と言った。

 18:僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。


 § ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う

 25:シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、
 「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」
 と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。

 26:大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。
 「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」

 27:ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 再度:
 ▲ (出エジプト記33:22) ~~~~~
   わが栄光が通り過ぎるとき、
   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
   わたしが通り過ぎるまで、
   わたしの手であなたを覆う。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~



 あとは ご意志を尊重します。
 では。

お礼日時:2013/03/15 08:06

 そろそろ回答があるはずだけど、と思いながら思索しつつ、回答ではなく感想をまとめてみます。



 回答者としての資格のない事は自他ともに認め、認められているはずなので、躊躇しながらの“回答”ですが。

 一応聖書を当たってみました。
 物差しで測ったら厚さ五センチの新共同訳(JBS)です。
 
 羊はキリストを信じる民のこと、と解釈してみました。
 アガパオーとフィレオーは辞書で調べました。
 とりあえずこの言葉の使い分けについては判断する材料が見当たりません。

 イエスの三度の問いかけへのペトロの答えに、それぞれ微妙に違った言葉を返していますね。
 初めは「私の子羊を飼いなさい」二度目は「私の羊の世話をしなさい」そして三度目は「私の羊を飼いなさい」と。

 これはペトロの、信仰心の度合いの確認作業の結果の言葉、かと思います。
 
 三度目の問いへのペトロの返事から、信仰の度合いの深さを認めたイエスは、その意思表示に「私の羊を飼いなさい」と云って、ペトロの信仰心をそれで良しとして励ました。

 と、云うように解釈できました。

 

 

この回答への補足

 ほかの言語での翻訳をちらっと見てみました。

 ○ 漢文もすべて《愛》なる一語でとおしているようです。

 一度目:わたしを愛している――――――――わたしがあなたを愛している
    你 愛 我―――――――――――――――――――我 愛 你
     http://www.biblegateway.com/passage/?search=John …

 二度目:你 愛 我――――我 愛 你

 三度目:你 愛 我――――你 愛 我

 ○ ヘブル語も ぜんぶアーハブ(愛する)なる一語で通しているようです。
   http://www.biblegateway.com/passage/?search=John … 
אתה אוהב אותי ――――――שאני אוהב אותך


 ○ ラテン語では 使い分けていました。まさしくギリシャ語にそっくり対応するかのように。
   http://www.biblegateway.com/passage/?search=John …

      イエス・・・・・ペテロ
   ___________________
 一度目:diligis me ――――amo te
 二度目:diligis me ――――amo te
 三度目:amas me ――――amo te

 ☆ diligo は di- (分離して・取り立てて) -lego (拾い集める・えらび出す)から成って《高く評価する・尊重する・愛する》(田中秀央編)らしい。





 どうなんでしょうねぇ。

補足日時:2013/03/14 23:28
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この回答へのお礼

 わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。



 ★ イエスの三度の問いかけへのペトロの答えに、それぞれ微妙に違った言葉を返していますね。
 ☆ これには気づきませんでした。
 しらべてみました。ただし これについてもその違いにかかわらず それほど大きく意味合いを変えるほどでもないようなのです。

 一度目: Βόσκε τὰ ἀρνία μου
      ( Boske ta arnia mou )
      ( Feed the lambs my )
      Feed my lambs
      わたしの小羊を飼いなさい

 二度目: Ποίμαινε τὰ πρόβατά μου
      ( Poimaine ta probata mou )
      ( Feed the sheep my )
      Feed my sheep
      わたしの羊の世話をしなさい

 三度目: Βόσκε τὰ πρόβατά μου
      ( Boske ta probata mou )
      ( Feed the sheep my )
      Feed my sheep
      わたしの羊を飼いなさい

 1. 小羊( arnia )と羊( probata )とはそのように別の語である。どちらも複数形。
 ★ 羊はキリストを信じる民のこと、と解釈してみました。
 ☆ ええ。

 2. 飼え( Boske )と世話をせよ( Poimaine )とは どちらも《〔草を〕餌としてやる》意らしい。
 つまりどちらも ラテン語では例の《牧師 pastor 》を派生させた元の語の pasco が対応するということで それなら同じようなのですから なかなか違いが分かりづらいです。

 〔ちなみに 《餌をやる・食べさせる(養う・まかなう)》の語として ギリシャ語のボスコーとラテン語のパスコーとは 同根なのでしょうか? 少し調べましたが 出て来ませんでした〕。
 〔ちなみに ラテン語の パスコーは パ‐が パン( panis )を派生させているらしい〕。


 ☆ ということで 特には違いが分かりづらいようなのです。

 ですから もし
 ★ これはペトロの、信仰心の度合いの確認作業の結果の言葉、かと思います。
 ☆ ということが イエスの中で 起こっているとするなら それは 《愛する》の語のほうである。ように思われます。

 気高き愛としてのアガパオーを使えばよいものを ペテロが二度ともそうではなく フィレオーを使ったので ぢゃあ それでもよい ペテロの使ったフィレオーのほうで自分も三度目は 問うておこう。とイエスは思ったのかどうなのか。・・・


 ★ 「私の羊を飼いなさい」と云って、ペトロの信仰心をそれで良しとして励ました。
 ☆ このことに疑いはないと思います。疑いをはさむ意味もないと思います。

 ワチカンの教会は 広場がサンピエトロ(つまり サンクトゥス・ぺトゥルス / セイント・ピーター)と呼ばれるように ペテロの座であることに変わりはないようですから。



 かくして
 ★ ~~~~~
 アガパオーとフィレオーは辞書で調べました。
 とりあえずこの言葉の使い分けについては判断する材料が見当たりません。
 ~~~~~~
 ☆ ただしヱブ上で必ずしもわたしはまだ しらべていません。


 また何かありましたら おしえてください。

お礼日時:2013/03/14 21:54

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