質問

価値の無い人間が生きることは社会にとって無益であるとすれば、
価値の無い人間が自ら命を絶つ行為は社会にとって有益ではないでしょうか。

価値とは何かという議論になりそうですが、
お金を基準とすれば、
1000万投資したのに600万しかリターンが無ければ、
400万の損失なのですから、その投資はしない方がマシ。
さらに、今後も多額の投資が必要なのにリターンがより少なければ、
その存在はこの世から無くなった方がマシということ。

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回答 (17件中1~10件)

社会にとって無益か有益か、という視点での思考は無意味というか、浅薄なものにならざるを得ません。
完成された社会というもの、つまり、社会自体の絶対的価値というものは未だ解明されているわけではないからです。
その時代時代において、たまたま確立された(ようにみえる)社会的価値観に盲目的に従っているのが人間という生物の実態でしょう。
現時点における社会的価値などというものは、過去・未来を通してみれば流動的な一端が現れているにすぎません。
たまたま現時点に何らかの価値観といったようなものがあると仮定したとしても、それに従うことは実に刹那的で無意味なものに殉じるということになり、これほど馬鹿げたことはない、というのが極めて論理的な捉え方になるかと思われます。
そもそも、既存のものを超越し独自の価値観を希求し続けることが、本能のみで生きるという、生物としての正常な進化過程を否定された人間という生き物の、本来の生きる意味であるような気もします。
   

 矛盾するのですが、半分賛成、半分反対ですね。

 生きる事が自由でないのなら、死ぬ事くらいは自由であるべきです。生きる事が素晴らしい、聖書の言葉、仏教、村社会、多くの言葉や価値が現代社会では希薄になっています。神は近代化と共に死に、共同体も多く崩壊し、縋るところのない生き辛い世の中です。コミュニケーション力が大事だと猫も杓子も、それでいてコミュニケーション力のない人間を排他する風潮、日本人の美徳であったはずの「場の空気」さえ、それを持たぬ人間を「空気読めねぇ」と排他していますね。溢れる情報に価値観が揺らぎ、信じられるものは多く持っていません。生き辛い、以外のなにものでもない。
 普段肉を食らい、兄弟愛を軽んじている人間が、死にたいときだけ仏教やバイブルを信じろ、って言っても無意味に思います。生きる事は素晴らしくありません。それは素晴らしい生き方ばかりを経験した人間の言葉で、今も程ほどの豊かさを持っている人間でしょう。人によると思いますが、私個人では到底信じる気にはなりません。だから死ぬ自由くらい持っていても良いと思うのです。
 例えば私は数年前まで、ずっと死にたいと思っていました。
 そしてある日、死ぬ事を受け入れました。気軽に散歩みたいに屋上に登ってみようかな、と。「あぁ、気が向いたときに死のう」と考えて、それからなぜだか生きる事が楽になりました。私の生きる自由は死ぬ自由に依存しているのです。死が傍にあるから、私は今日生きられるのです。


 一方半分反対と言ったのは、理由が二つあります。
 一つは多く他者判断に依存するからです。
 利益不利益、損得、そのあたりは他者判断ですよね。もしくは他者判断を曲解する自己判断です。
 まず利益不利益そのものこそ他者の利益不利益です。それを享受するのも、判断すのも他者ですよね。
 そこが他者に依存してしまうなら、それは他殺です。
 作業工程の最後だけ自分でするだけです。それは指示を出す組長と下っ端みたいなです。それって、意味の無い自殺に思いませんか?


 そしてもう一つ、私は自殺そのものに矛盾を感じざるを得ない点です。
 自殺を望む人間は、殆ど全て、その価値がない人間だと思います。つまり死ぬ価値の無い人間、生きるべき人間。
 逆にその価値があるのは、自らを過信し、過ちを認めず、他者を見下し、自殺者をあざ笑うような人間でしょう。自殺を考えない人間です。
 自らの失敗を反省し、それでも右も左もどうしようもない、迷惑がかからないように死ぬ、他人のために死ぬ。そんな思考回路に行き着く人間は、自殺する価値のない人間です。即物的に経済的に他者に迷惑がかかっても、精神的に他者にとって価値のある人間かもしれません。私はむしろ自殺に至る経緯を踏もうと思った人間は、それだけで思考する個人として人としての価値が大きいと思います。
 自殺を望むのであれば、自殺する価値を手に入れてください。他人を鑑みず傲慢に自己中心的に。そういう人間だけが、自殺を許される人間だと思います。死ぬ気なら、そういう人間にでもなってみるべきです。



 逆説ばっかりで読みづらい文章になりましたが、私の日々考える全てです。肯定と否定と入り混じり、自分でも正直あまりまとまっていません。どこぞの他人が考える一つの価値観・思考形態として、参考にしていただければ幸いです。

「社会」にとって価値のない人間は死んだ方が「社会」のために有益だ。というのは論理的に間違っていないと思います。しかし、そもそも「社会」ってそんなに大切なものなのでしょうか。人の命よりも。

私は逆だと思います。「社会は人間が生きていくためにある」ものなのです。

チンパンジーやアリなどは社会らしきものを作りますが、多くの動物、例えばライオンやワニなどは社会を作りません。
ライオンやワニはすべて、彼らの社会にとって無益な連中です。だから彼らは自ら命を絶った方がライオンやワニの社会のために有益でしょうね。あなたがおっしゃるように。でも意味がありません。かれらは社会そのものを作らないからです。社会がなくても生きていけるのです。

人間はたまたま、社会というシステムを作った。それが人間と言う種が生きていくのに好都合だったからです。社会を壊すと人間は生きられなくなる。それで、人間は社会を破壊する個人を隔離したり、殺したりします。

でも、社会にとって価値のない人間(そんな人間がいるとすればですが)は、自ら命を絶つべきだというのは、確かに社会にとっては有益かもしれませんが、本末転倒ではないでしょうか。(おまえは社会にとって価値のない人間だから、死になさいといわれて、では社会のために死にます。と素直に言えますか)

貴方は 「社会は個人の命より大切」 とお考えのようですが、私は 「社会は個人が生きるためにある」 と考えています。

聖書によれば、人の命は全世界の全ての富をあつめてたとしても、それよりも重いと述べられています。つまりイエスは次のように述べています。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」-マタイによる福音書 16:26

聖書は偉大なパラドックスを含んでいます。同様に聖書では次の様に述べられています。

「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」-ヨハネの福音書 第12章24節

人のために死ぬか、自分のために死ぬか、一つの死なのですが、意味が大いに異なります。自分中心の人生は確かに無益なものかもしれません。

聖書の言葉によりますと、

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」-ヨブ記13章15節

私どもの命を神が与えたものであり、その命を取り去るのも神であると述べています。この与えられた人生を勝手にもてあそんではならないと思います。

この回答へのお礼

ありがとうございました。
聖書の言葉は説得力がありますね。

質問者さんの考えで行くと 福祉のお世話になっている

老人とか障害者 回復の遅い病人なども要らない と言う事になりますねえ

もしそれに徹するなら強い人間ばかりが残る いい事かも知れない

ではあなたの親を殺せるか?殺されていいか?

祖父母を殺されていいか。自分の能力が衰えたら殺されていいのか?

その辺はどうですか?

人間は存在することに価値があります まずはです。

人間は存在する事が目的です 未来に永遠への存在を実現できれば良いと思います

それならいいじゃないですか 目的が達成できさえすれば 何も弱いものいじめ 殺ししなくても。

問題は全体として調和してる事が大切なのです

どんなに優秀な人間が集まっても あいつ等が劣っているとナチスのように

優生思想を追求すれば 戦争で勝った方が優れていえると 言う事にもなりませんか?

この回答へのお礼

ありがとうございました。
確かにわたしの言っている論が通ると、
住みにくい世界になってしまうのかもしれません。

反論を待っているようにお見受けしますが・・

馬鹿は風邪をひかない
という言葉がありますけど
風邪をひかないような馬鹿はいない方がいい
という言葉は聞いたことがありません

それはきっと
価値のない人間は、けっこうタフで 案外しぶとい
自分に直接関係なければ 放っておけばよい
といった感じなのかもしれません

だいたい
風邪をひかないような馬鹿は自殺をしない
頭のいい人間が どんどん自殺していって 馬鹿だけが残る
その馬鹿の中から利口が生まれてくる
その利口が何と言おうが 馬鹿は無くならない

そんなくり返しのような気がするんですがね・・。

この回答へのお礼

ありがとうございました。
価値のない人間は案外タフでしぶといのかもしれませんね。

価値のない人間とは投資よりも回収が少ない人間だというのですね。
そうすれば消費ばかりして仕事をしないリタイヤ人間は皆自殺して当然ということになります。
そんなことはありませんね。
人間は生きているだけで経済を活性化させ、周囲にプラス効果を与え続けるものです。だからこそ植物人間も原則生命維持装置で生かされるのでしょう。


そういうことです。

自殺はしないでおきましょう。
これこそ反経済活動のきわみです。
貴方の死を嘆く人は必ず居ますし。

さてこれだけでは愛想がないので私の価値観を少々書きます。

人間の経済活動は人間社会の価値を増やしていく営みです。
人間が動けば必ず価値を生みだします。
つまり、人間社会はどんどんふくらんでいくのが正常なのです。
インフレ社会。
日本がデフレ社会になっていたのは、どこかで価値が逃げ出していたのだろうと思われます。

あべさんは日本を正常な状態へもっていこうとしているのでしょう。ただ
無理をして紙幣を増刷しているだけでは正常には戻らないと思います。
基本的には
価値が国外へ逃げ出すのを阻止しなければならないのです。

ご参考にはならないかもしれません。

この回答へのお礼

ありがとうございました。
何故価値が逃げ出してしまうのでしょうか。
価値を生み出したいです。

生きている限り、すべての人は価値があると思います。
朝起きて「水を飲む」 ⇒ 水を消費して社会に貢献している。
他は食べる、買う、服を着る、電車に乗る、一杯ありますね。

必ずしもリターンがあるかどうかが問題ではなく、何かに貢献している、それも知らない内に。
これは つまり 「価値」 ですね。

 新宿の 「ホームレス」 も 「価値」 があると思っています。 ある人は 意識・無意識に 「ああはなりたくないな。」 と思っているかも知れません。 間違いなく社会に貢献しています。

価値の無い人もいるかも知れません。それは 「憎まれ者 世にはばかる。」 でも価値観から言うとその人たちも 「価値」 があると思います。 正義という概念ができるからです。 でも他人の生活を暴力で脅かす 「マイナスの価値」 を持った人には いなくなってほしいですね。

この回答へのお礼

ありがとうございました。
たしかにどんな人間にも生きる価値はあるかもしれません。

存在が無価値→何しても無価値

自殺程無価値な事はありません
どんな無価値な人間だろうと生きてる意味がある
生きる意味さえ見つければ無価値も有益になる

この回答へのお礼

ありがとうございました。
意味を見つけられた人は幸せだと思います。

この問題は、身障者や高齢者の問題、あるいは脳死の問題に
つながる。
それは、生きる目的が「物質的繁栄」であるか「精神的充足」
であるか、という問題に起因する。

物質的繁栄=経済性が価値の指標ならば、確かに生産量より
消費量が多ければいない方がいい。
しかし精神的充足が価値の指標なら、身障者であれ高齢者で
あれ、その増大に充分寄与し得るし、逆にあまり寄与しない
からといって殺すというのなら、その不安や苦痛こそ大きな
マイナスの寄与として否定されるべきものなのだ。
一方脳死は、どんなに肉体的に生きているように見えても、
この観点からは、速やかに去るべきものとなる。

ここで問題となるのは、目的が「精神的充足量の最大化」に
なったところで物質的能力が精神的能力(認識深さ)に変わっ
ただけで、その能力の比較において優劣が生じるのではないか、
という点だ。
1つは、どんなに劣っても物質的能力のようにマイナスの
寄与となる事はなく、必ずプラスになるという事だ。
もう1つ大事な事は、より深い認識が「充足量の最大化」に
寄与するにしても、人間の脳は、遺伝的な要因よりも生後の
刺激による部分が大きい(というより主導的)である事が
明らかであり、もし低い認識を育成してしまった場合、その
責任は当人にではなく、親や学校、地域コミュニティや政治家
にあり、消すべき存在があるとしたらそちらになる。
とはいえ、いったん生育した意識には、精神的充足量に寄与
すべき義務と権利がある以上、認識の低い個体も育てた周囲
の人も、将来への改善をこそ図るべきで、いない方がいい人
などいないのだ。

この回答へのお礼

ありがとうございました。

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