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新撰組の格付けはどのように決められていたのでしょうか?

能力でしょうか?

また役職のみで、格付けが特にないのなら何故なかったのか?(例えば皆、免許皆伝並みの剣の能力を持っていて格付けするいみがなかったなど・・・)も教えてほしいです。

ご存知の方よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

こんにちは。



沢山の方が閲覧するでしょうし、
間違った歴史認識を持たれてもいけませんから、
少し補足させていただきますね・・・。

新撰組の前身は「新徴組」と言われるものです。
当時、将軍は家茂です。
朝廷の命令により上洛の必要がありました。
(何故必要があったかは省略します)
その頃の京は実に政情不安なのです・・・。
過激な尊王攘夷派の連中が天誅騒ぎを起こしたりですから。

そう言う状況の中に将軍が行くわけです。
幕府としても当然、不安ですね。

その機に乗じて清川八郎と言う人物が、
幕臣、山岡あるいは松平主税介と言う人たちに働きかけて、
将軍護衛と言う名目で浪士隊を結成するわけです。
幕府も不安でいたところですから、
その浪士隊結成の為、費用として二千両以上の金を出してます。
これが「新徴組」です。

長くなりますので少し駆け足で・・・
京都へ着いてから清川は別な動きをします。
この浪士隊を朝廷の為に働かそうと画策するわけです。
当然、幕府としては話しが違うと言うことになりますから、
清川らを江戸に呼び戻しますね!
これは清川も言うことを聞くしかありません。
何しろ幕府の金で、名目は将軍警護ですから・・・。

中に、あくまで将軍警護のため、戻るのを嫌がった連中がいます。
これが後の会津様お預りになる「新撰組」です。

ここからが質問への回答になろうかと思うのですが、
格付けの意味が良く分からないのですが、
従来の幕藩体制での、上士、平士、下士の意味でしょうか?
もし、そうでしたらそれは無いと言うことになると思います。
浪士の集まりですから同志と言うことでしょうね。

ただ、「新撰組」を立ち上げたのは芹沢一派であり、
近藤を頭とした試衛館のグループですから、
役職として局長、あるいは副長が出来たのは自然な流れでしょうね。

ただ最後のほうになりますと、
近藤に同志を家臣と見なすような言動があったようです。
これが後に江戸以来の盟友、永倉や原田佐の助?と
袂を分かつ原因ともなったようですね。

これについては、永倉新八の聞き語りの本が、
お孫さんによって出版されています。
お読みになれば詳しいと思います。

最後に蛇足でしょうが、
今、新撰組に関する本の殆どは子母沢寛の、新撰組の三部作、
これに依ります。
それと前掲の永倉新八・・・。
聞き語りですから、まず一級の資料と言えると思います。
島田魁の「島田魁日記」と言うものもあるらしいのですが、
残念なことに世には出ていないようです。
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No1回答者の回答はほぼ正解、突っ込んで付け加えるなら、会津中将松平容保は別警備部隊組織を家臣の野村佐兵衛に命じて募集させる、集まって来た浪人、郷士達は皆一癖二癖有る者ばかり、庄内藩郷士の清河八郎は自ら親分気取りで束ねようとするが近藤、土方らの考えに全く合わずすぐ分裂、野村は近藤達に水戸藩士だった芹沢鴨を合流させ新撰組の誕生となる、総長(局長)・芹沢鴨、局長・近藤勇、副長・新見錦、土方歳三、山南敬助、副長助勤(この役職は芹沢一派らが暗殺された後格付けされた)・沖田総司、永倉新八、斎藤一、そして野村の考えはあくまでも芹沢を筆頭に武士としての模範となり適正的確な行動を命じていたが常軌を逸した行動をしたのが芹沢、新見達だった、後は歴史文献が語っているとおり、ちなみに清河八郎の暗殺は京都見廻組頭・佐々木只三郎(会津藩家臣・手代木直右衛門の実弟)一派である。

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当方、門外漢ではあるが新選組には興味がある・・!


質問者の所望する回答になっていないようであればご容赦・・!

------新選組の格付------
新選組結成当時(文久3年)では・・・、
1.局長・・・芹沢鴨、近藤勇
2.副長・・・土方歳三、山南敬助、新見錦
3.勘定方、副長助勤、諸士調役兼監察
4.平隊士(約30名)
・・・となっていたようである・・!

副長助勤には沖田総司、永倉新八、斉藤一他10名
の名がある・・!
(文献:新選組の真実・・・より)
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