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会津若松城は南東の微妙な距離に山があっていかにも防衛上都合が悪そうに思えます。
上杉領だった時代は移築の検討もあったそうですし、戊辰戦争時は実際に砲撃されましたし、火砲が無かった時代でも相手に上からのぞかれそうに見えます。
もっと山のふもとなり山なりに築城するか、いっそ周りじゅう平野の場所に建築すればよかったのに、なぜあの場所に築城することになったのでしょうか?

A 回答 (5件)

質問者様のおっしゃるとおり会津若松城(黒川城)は戊辰戦争時「会津若松城は南東の微妙な距離に山」=小田山の防御施設を占拠されて砲弾を打ち込まれて勝敗が決しました。

防御側も小田山の重要性は理解していましたので防御施設を築いていましたが結局は攻略されてしまいました。

小田山(城)
http://joukan.sakura.ne.jp/joukan/hukushima/oday …


さて、この地方は以下のように支配者が変遷致しました。

葦名氏→伊達氏→蒲生氏→上杉景勝・直江兼続→上杉氏

この地方で全ての支配者が会津若松城を防備の主力に置いたわけではありません。
特に一国一城令の発布された1615年以前は当然のように会津若松にはたくさんの城がありました。

葦名氏→伊達氏→蒲生氏→上杉景勝・直江兼続までの支配者が防御の主力と考えたのが向羽黒山城(参考URL)です。
東に阿賀川と急な斜面を持つ強靭な山城です。葦名氏から始まった築城工事に築城家の蒲生氏郷がさらに手を加え、最終的に上杉景勝・直江兼続主従が強化することでより強固な城となりましたが一国一城令以後打ち捨てられることになります。

その頃には戦争の主力は大規模決戦に変わっており、山城の防御価値はほぼ無くなっていたと言っても過言ではありません。篭城を行うメリットは戦国時代であればその場所に敵軍主力をより長くひきつけておく事で、相手家中の内紛や防御の薄くなった相手国への他国侵攻も期待できました。そのため、山城が数多く作られることになります。
しかし江戸時代となり、まわり全てを徳川家恭順国で固められているのであれば政庁としてまだ機能している会津若松城を残すほうがメリットが大きく、会津若松城が残されたのだと考えられます。

また、初期の「なぜあの場所に築城することになったのでしょうか?」については政庁としての築城であったと考えられる為、古来より城周辺が賑わっていたからではないでしょうかと考えられます。蒲生氏郷もこの城に手を加えたのは主に防御面でなく街づくりであったように思います。他にも近くに水源があった等も考えられますが一番の理由は地域支配のためではないでしょうか。

以上参考になれば幸いです。

参考URL:http://yaminabe36.tuzigiri.com/fukusima/mukaihag …
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この回答へのお礼

ほうほう、本来は麓の平城(起源は平時だけ使う大名館?)と山城がセットで防御群を構成してたのが、一国一城令で山城がなくなってしまったわけですか。
もはや戦国の世が過ぎ去っていたため単独では防御に適さなくても平城だけが残ったわけですね。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/13 11:27

追伸、戊辰戦争開戦当時、会津藩に神指城を強化する時間が無かった、むしろ猪苗代の亀ケ城を強化すれば攻撃防戦は出来たはず、ただ兵力が足りなかった、痛恨の極みは石筵(現在郡山市)の庄民が薩長軍に買収されて大鳥圭介、斎藤一隊の情報が筒抜け!母成に構築した砲台もほとんど役立たず(現在も跡は残っている)、惨敗を喫した!強い大鳥、斎藤らが撤退した事が原因となり難なく十六橋は突破され薩長軍は滝沢峠になだれ込むが、手前の大野原の激戦も凄かった!その頃会津藩軍師・佐川官兵衛は越後で戦闘していたし、土方は東山で足傷の湯治をしていた、西郷頼母が役に立たないのだから萱野権兵衛と山川大蔵がもっと機転を利かせねばならなかった。

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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/24 15:28

No2回答者の方も随分と勉強していますなあ、感服つかまつりまする!鶴ヶ城西位約4kmの場所に(神指城・こうざしじょう)があった、しかし立地条件が悪い(城周辺の当時はだだっ広い原野、田んぼもあったが・・さらに西側は川幅のある阿賀川が流れている)、たとえ神指城を強化して兵力を派遣して迎え討ったとしても一週間と持つまい、それだけ会津平野(盆地)は広いのです、海抜は200mくらいある、ちなみに鶴ヶ城と大阪城を比較すると城郭、外堀を併せても城の敷地は鶴ヶ城の方が広い。

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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
私も期待以上のパーフェクトの回答がついてびっくりしました。
さて移城が流れた神指城ですが、自由に巨大な城がつくれる敷地、背後に河を背にし正面の見通しがきくので、単独の平城として見た場合完成させれば立地として悪くないのではないでしょうか。
もちろん自由に城下町を拡大できそうな環境が魅力ではあったのでしょうが。

お礼日時:2013/05/14 14:01

あなたは会津若松城を見た事がありますか?


攻めづらい場所にある城ですよ

周囲2キロは平野ですし堀も深いです
会津戦争では小田山から砲撃を受けましたが、効果があったのは松代藩が持ち込んだパロットライフルだけ(天守閣上部の大きな穴がパロットライフルによる損傷)で、アームストロング砲は6ポンド砲(57mm砲)なので被害がほとんどありません(写真にある小さな穴がアームストロングの戦果)でした。四斤砲に至っては射程ギリギリで、表面で爆発してしまいました。

周囲2キロ圏には侵入されず、南門は最後まで封鎖されませんでした(南門にいた部隊が白虎隊と八重たち)

1ヶ月攻撃しても包囲も出来ず、攻めも出来なかったのです
「会津若松城の立地」の回答画像3
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この回答へのお礼

残念ながらGWの混雑で内部には入れませんでしたが、現地には行きましたよ。
またネコマ岳方面からの雄大な景色も見下ろしました。

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/13 11:31

http://watchizu.gsi.go.jp/index.html

小田山から天守閣まで 1.5キロメートル

標高差100メートルくらいです
小田原城で、同様に半径1.5メートル範囲には標高差100メートルくらいの高地もある

小田山を奪取するには
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6% …

ここを通過しないとならないが、
会津藩主松平家墓所
というのが存在しています。
だいたい墓地とか、建築物というのは同じような場所に作られるので、戦国時代からこの「会津藩主松平家墓所」という場所を防衛拠点にし安かったのではないかなぁ
県道はつづら折れ状態になっており、その県道に対して墓所の場所は攻撃しやすい位置になっている。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/13 11:25

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