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太平洋戦争で日本軍がやろうとしたことは欧米列強による植民地支配を許さないこと、
というのが真意だったというのが何冊か読んだ本の中に書いてあり、
同時に満州に攻め入ったのは関東軍というアンチ日本軍だったように書いてあります。

やがて日中戦争が勃発したようですが、
天皇は併合で日本人となった朝鮮人の将軍に勲章を授与したとも書いてあります。
関東軍が天皇の言うことを聞かずに満州へ攻め入ったならば、
天皇は日中戦争を勝利に導いた将軍に勲章を授与したのは何故だったのでしょうか。
また天皇も日本軍も戦争には否定的だったようですが、
ならば日中戦争は何だったのかなと疑問でなりません。

僕は満州事変と日中戦争が関係のない出来事なのにセットで考えて迷っているのかも知れません。

もし詳しい方がいらっしゃれば、
僕の疑問に回答をお願いいたします。

A 回答 (5件)

>太平洋戦争で日本軍がやろうとしたことは欧米列強による植民地支配を許さないこと、


>というのが真意だったというのが何冊か読んだ本の中に書いてあり、

それはその通りです。そもそも欧米列強が19世紀にアジア諸国を植民地化していった狙いはアジアを資源・食料・原材料の供給基地として囲い込み、商品の輸出先として囲い込む狙いがあった訳です。産業革命で飛躍的な工業生産力を備えた先進国は、そういった目的で自国の勢力圏として囲い込んでいった訳です。ところが明治維新後にようやく近代化の端緒についた日本が工業化を果たした時には、もう日本が進出できそうな国はどこにも残されていなかった。それは大げさな表現かも知れないが、日本は大幅に出遅れてしまったことだけは確かです。幕末に結んだ不平等条約を日清日露で改定して、ようやく先進国に追いついたといっても条件はかなり違っていました。日本が工業国として成立させる為には、欧米列強に植民地化されたアジア諸国を解放して他の先進国と対等・平等に貿易が成り立つようにする必要があったのです。そしてまさにアジア諸国の解放に成功したことが今日の日本の経済立国・貿易立国の基盤になっています。

日本がアジア諸国を解放したなどというつもりはないし、そんな事実はない。しかし日本が太平洋戦争に打って出たことが、アジア諸国に独立の勇気を与え、独立の機運を作ったことは否定できません。太平洋戦争そのものは日本の敗戦で終わり、国土を灰燼に化してしまった。しかし植民地化されていたアジア諸国を独立させるという目的は果たしたのです。例えば、今、ブルネイの天然ガスの輸出先の半分は日本が占めています。それが火力発電所の燃料になっている。しかしブルネイは太平洋戦争当時はイギリスの植民地でありました。

>同時に満州に攻め入ったのは関東軍というアンチ日本軍だったように書いてあります。

それは違います。日露戦争後、ポーツマス条約で日本はロシアから租借地として大連・旅順を、南満州鉄道として東清鉄道の南満州支線を割譲されました。それらを防衛する為の軍が関東軍だったのです。満州事変後に満州国が成立した後は満州国の国防も担いました。役割的には関東軍は、日本軍とは異なりますが、アンチ日本軍だった訳でもないし、ましてや満州に攻め入ったなどという事実はない。軍中央の統制に従わない暴走した関東軍将校のことであれば、「アンチ日本軍」という評は当たってないこともないが、それは個人的にそうだっただけで関東軍が組織的にアンチ日本軍だった訳ではありません。

>ならば日中戦争は何だったのかなと疑問でなりません。

日中戦争を理解する為には、辛亥革命後の中国大陸の歴史を知らなければなりません。ポーツマス条約で大連・旅順、南満州鉄道の利権を獲得した日本は、「辛亥革命後の中国大陸の歴史」に翻弄され続けたといったことなのです。辛亥革命後の中国大陸の歴史を簡単に説明することは不可能ですし、歴史の授業でもほとんどまともな説明もされていません。これは一冊の本でも書ききれないぐらい複雑怪奇な問題なので、ここで回答せよというのは無理難題。ここでいえるのは、日本は血を流して獲得した利権を守ろうとしただけだということだけです。それとは別に蒋介石にも清からロシア、ロシアから日本に渡った利権を回収したいという悲願があった。その激突が日中戦争だったということです。簡単にいえば、それだけです。日本にすれば、蒋介石に文句をいわれる筋合いはなくて、それは満州国から借りているだけだということになるのですが、蒋介石にすれば満州国の独立など認めない。満州も中国の一部だというのが蒋介石の主張なのだから、まるで話が噛み合う余地は無かった訳です。

だから太平洋戦争と日中戦争はそもそも全く別な話なのです。一方は欧米列強から植民地を独立させることが目的で、もう一方は既得権益を死守しようということが目的です。だからまあ、虫が良すぎるというか欲張りすぎというか、身の程知らずに手を広げすぎということもいえる。

このへんで私の回答としては一旦筆を置かせていただきます。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
ただただ頷くばかりで、
他の回答者さんからも僕の無知を教えられ、
感謝するばっかりなのですが、
mekuriyaさんから頂いた回答と、
読み終えた本たちで付箋を貼って置いたページを読み直し、
僕は深々と頷くだけでした。

ありがとうございます<(_ _)>

補足日時:2013/05/25 00:27
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この回答へのお礼

とりわけ最後段にある、

> だからまあ、虫が良すぎるというか欲張りすぎというか、  身の程知らずに手を広げすぎということもいえる。

この2行は深々と頷いてしまいました。
感謝。感激。

また質問した際に、
何か御教示お願いします。

どうもありがとう御座いました<(_ _)>

お礼日時:2013/05/25 00:28

戦後60年以上が経過しました。


自民党など保守勢力は,「アメリカから押しつけられた憲法」と称して,先ず,9条改正を目標に96条の改正で,改正条件の緩和を目論んでいます。憲法前文の中の「主権在民」には,当時の日本共産党の野坂参三演説が反映されています。自民党の先輩である自由党・民主党・改進党をはじめ,左右両派社会党も結局はこれに同調しましたが,保守派は「主権在天皇論」,社会党に至っては「主権は国家にある」などと陳腐な説を持ち出しました。
それは兎も角,アジア解放のための戦争であったとか,欧米による経済制裁に対する止むに止まらぬ戦争だったなどとの,屁理屈が罷り通ろうとしています。
外国の領土に軍隊を送り込み,戦闘行動を展開し,支配地域を広げようとする国家的行為,これを「侵略」と呼ばずして,何を侵略というのでしょう。
安倍総理は「侵略の定義は無い」などと非常識を唱え,国際間の物笑いになっています。それどころか吉田茂は,世界を敵に回した戦争の終結に当たって,日米単独講和に踏み切り,その見返りに「ポツダム宣言」を「無条件降伏」化し,「ヤルタ協定」さえも受け入れさせられて千島を放棄し,沖縄・奄美・小笠原をも明け渡しました。日本国内での米軍基地の無制限認可,米軍用地・電力・ガス・水道・高速道路通行権の無制限提供が,安保で義務づけられました。
その日が「主権回復の日」とは,まさしく「恐れ入谷の鬼子母神」です。
明治政府の富国強兵策の結果,軍部が強力となり,満州国をデッチ上げた勢いで「シナ事変」にまで突き進みました。「事変」とは,「宣戦布告」が無かったための呼称です。
その流れを見れば,大元帥陛下の統帥権が及ばなくなっていたか,見て見ぬフリをしていたのか,いずれにしても,近隣の強勢国家と大差ない当時の国家像が忍ばれます。
戦線を拡大し続けた責任者が,靖国で安らかにお眠りになって居られます。合掌。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

返答が遅れてスミマセン。
国民は憲法96条の改正に賛成ムードですが、
安倍政権は手出ししすぎだと思います。
可決も否決も1/2になったら何でもありでしょう。

恐ろしいのは、
「過去の清算より未来」に向けて全力投球みたいな、
橋下市長による維新の会の発言だと思います。

ただ「侵略の定義はない」という風な安倍晋三さんの発言が、
何だか意味がわかりません。
パール判事は善悪の規定はなく日本の是非は語れない、
これを東京裁判で一貫して主張しました。


タイ国のプミポン国王は、
「日本軍の目的が欧米の植民地支配から免れることだったのは嘘」
と言うよう米国政府に強要させられたと自身で告白しました。

だから日本軍の戦争は欧米の植民地支配を免れること…
と思いたいところなのですが、
ならば清朝末期の皇帝こと溥儀の人生は何だったのか。

僕は日本軍とか関東軍について勉強しはじめたばかりです。
だから知らないことだらけです。
しかし溥儀は清朝末期の皇帝とはいえ関東軍の許可なしには、
何もできなない飾り物にすぎなかったことも、
全ての本に書かれています。

一部の本ではありますが、
満州事変で勢いづいた関東軍が南京に攻め入ったことが、
今日の赤字国債の原因とも書いてありますから、
やっぱり支配地域を広げたかったのかな…
という気がしなくもありません。

貴重な御意見をありがとうございます。

補足日時:2013/05/20 15:29
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1931年 満州事変の時の関東軍首脳 その後



石原莞爾 関東軍作戦参謀
(1935年)8月1日、参謀本部作戦課長
1937年 盧溝橋事変時「事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし」と不拡大を指示する総長電が発せられる。これは参謀本部の実質的な責任者であった石原莞爾少将の主導
板垣征四郎 関東軍高級参謀
(1939年)1月5日 - 第47代陸軍大臣。9月4日 - 支那派遣軍総参謀長。

関連 東条英機
1935年(昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任
1937年(昭和12年)3月1日、板垣の後任の関東軍参謀長に就任する[13]
※ 盧溝橋事件時、参謀長:東條英機中将17期)は蘆溝橋事件発生の報に接すると、八日早朝会議を開き、「ソ連は内紛などのため乾岔子事件の経験に照らしても差し当たり北方は安全を期待できるから、この際質察に一撃を加えるべきである」と判断し、参謀本部へは「北支ノ情勢ニ鑑ミ独立混成第一、第十一旅団主力及航空部隊ノ一部ヲ以テ直ニ出動シ得ル準備ヲ為シアリ」と報告した
1938年(昭和13年)5月、板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く
1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣
1941年 首相、太平洋戦争開始

関東軍というアンチ日本軍
この論理はどこから出てくるんでしょうか?関東軍の首脳は日本陸軍内でちゃんと出世しており、関東軍がアンチ日本軍であるなら、なんでその関東軍の首脳が日本軍の首脳になれるのでしょか?

石原にしても東條にしても、現地軍にいると「イケイケ」で軍中央の意思を無視して戦線を拡大している。

この回答への補足

石原はアンチ天皇だったらしく、
東条が引き留めようにも引き留められなかった、
という風に書いてありました。

アンチ日本軍というのは中国人留学生が米国人留学生から、
「南京で中国人が30万人も殺されたなら、
 中国軍は何処に居たの?」
と質問されて確かにおかしな話だと思ったそうです。
そしてこの中国人が調べて書いた内容に使われた造語です。

余談ですが中国人留学生によると、
中国軍は逃げてしまったそうで、
更には中国軍同士で殺し合いがあったし、
歴史的に繰り返された殺し合いで死んだ中国人が、
合計30万人とか40万人とか50万人となってしまい、
ようするに南京大虐殺は全くのウソだったとの結論です。

補足日時:2013/05/15 06:36
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日本軍は侵略目的で戦争を起こしたことはありません。



満洲事変から朝陽寺事件、山海関事件と、すべて中国側の軍事作戦による結果である。
その後の日中戦争も、中国の国民党内における内乱が原因で、日本が中華民国南京政府を支持した結果の軍事介入であって、中国国民党の改革派内の共産派(現中国共産党)の軍事行動における中国人民の救済が目的であったのです。

また韓国併合も、元々は李王朝から請われてのものであって、結果・・・近代化が図られたのです。
感謝されても、恨まれる筋の話ではありません。

ちなみに、金日成はこの頃からテロリストでした。
日本軍から賞金首になってました。

この回答への補足

侵略目的で戦争を起こしたことは無い、
というのは意外と韓国人の教授たちの本に書いてあります。
中には日本の軍人たちは優しく接してくれたし、
何かを強要されたことも無かったし、
改名の件も強要されなかったので自分の名前で過ごせた。
という記述があります。

だから台湾が日本に感謝していながら、
同じように扱ってもらえたし、
様々な設備投資をしてくれたのみならず、
当時3千万円の借金があった朝鮮の全額を完済したのは、
朝鮮の祖先ではなく日本によるものだった。

韓国人は韓国を報恩の国と自負するが、
報恩どころか忘恩の国である。

というような記載が5名の教授、
それも韓国人の教授によって記載されているから、
韓国併合は韓国というか李朝から請われた結果、
これは間違いないと思います。
ただし日本が支援してあげたという上から目線の発言が、
テレビでもネットでも本でも見られます。
言葉遣いとしては如何なものかと長らく悩んでいます。

それから併合の話の続きですが、
終戦間近になって日本軍は銃弾の数が必要になり、
農民にとっては唯一といえる祖先に供えるための、
御飯茶碗その他の銅を了承を得ずに強奪してしまった。

これだけは日本軍の失敗だった。
ここで了承を得ていれば韓日関係は違ったはずなのだ。

とも其々の本に、
あたかも親日が故の悲しみのように書いてあります。

これをどのように評価して、
日中戦争や関東軍と対比させるかで、
当時の事実が更に晴れやかになる気がします。

補足日時:2013/05/15 14:00
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あなたは関東軍という部隊を理解していないんではないでしょうか?


そもそも関東軍は満洲に攻め込んでいませんよ
関東軍は、日露戦争で日本が獲得した旧ロシア権益(主に鉄道)を警備するために満洲にいた部隊のことです。
昭和初頭の満洲には4つほど軍閥があり、その内の一つが張作霖・張学良親子です。彼らの傍若無人な振る舞いは日本どころか朝鮮人・満洲人も困っていました。その結果、張作霖は爆殺され、張学良は満州事変で満洲から追い出されたのです。問題は他の軍閥で、日本は攻撃する理由は無いがさりとて安定の邪魔でした。そこで溥儀を使って満洲国を作ったのです。

日中戦争は抗日運動が引き金です。抗日運動は今でいう反日デモと同じです。蒋介石の無策で社会に不平不満が溜まっていたのを日本軍とベルギー軍が中国にいるから(このいた部隊は北京と天津の領事館を警備するためにいた部隊で、北京議定書で決められた駐留軍です)社会が良くならない。日本企業が搾取しているから(当時、日本の企業は中国に工場を建設して国内消費財などを生産していました。今と同じです)貧乏なのだと煽ったのです。その結果、多数の日本企業が襲われ、罪もない日本人が街中で銃撃されて殺されていたのです。そのトドメが通州事件でした。北京近郊の通州で日本人避難民が襲撃されて虐殺されたのです。世論は中国叩くべし!となり、軍部も出兵せざるを得なくなりました。これが日中戦争です。

先日の反日デモ、もしあれで日本人が100人殺されてたらどうなってたでしょうか?我慢しますか?私は我慢で済まないと思います。日本の世論は一挙に右傾化し、日本にいる中国人は生きた心地のしない状態になり、尖閣で開戦してると思います。

当時の状況と現在はそっくりなんだと思いますよ

この回答への補足

まず僕の関東軍についてですが、
ここで質問したかった理由は、
まさに僕が関東軍を理解できてなかったからです。

ただ蒋介石なり張作霖なり、
日本人を28,000人も殺害したどころか、
日本人と仲良しだった中国人も殺害したと書いてあり、
どこで日本人と中国人が仲良くなったのか疑問でした。
中国人まで殺害された理由は、
共産党系の軍人だと思っていましたが、
単なる民間人だったと考えて大丈夫でしょうか。
これと溥儀について改めて質問するかも知れません。


それはそれとして、
三国志や水滸伝を読んでいて、
いつも政府と民間人の構図で成り立っており、
反政府デモが内戦になってしまう、
これを常に繰り返しては何も変わらないみたいな、
現在の中国は殆ど昔と変わらないように思いました。

補足日時:2013/05/15 07:33
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