1. 多神教は もし宗教であるなら 一神教ではないか?
2. 多くの神々から成りつつその多神のまとまったかたちは 全体としてひとつの神 すなわち《唯一神》なのではないか?
3. クリスチアニズムのような特にはっきりと唯一神をかかげる宗教に相い対したばあい 相手を《あなたは 一神教である。ゆえに どうだこうだ。うんぬん》というふうに述べるその視点は やはり一神教としての立ち場にもとづくものではないのか?
3-1. けっきょく 一神教 vs.一神教という図式になっているのではないか?
4. あるいはただし そのときさらに込み入った状態・情況が派生していると思われる。
4-1. すなわち 多神教の側は――というのははっきり言えば 日本人の日本教を捉えて言っているのですが その八百万の神々を擁する唯一神体制の側からは―― その神々の中に ブッダもヤハヱーもクリストスもアッラーフもあるいは 《無い神》もコミュニストの無神もぜんぶ入っている。
4-2. マジワリをつうじて入って来る神はすべて その多神制の内にひっくるめたかたちで それらが全体としてひとつなる神と成っている。
4-3. つまり 《一神教》ではないのか? その多神体制よりほかには 宗教のかたちはあり得ないとまで思っているとすれば 明らかに一神教ではないか?
5. と問うたのちに――いえ 問うと同時に―― では 宗教をめぐる寛容とは どういう姿が描かれるか? これを問います。
No.10ベストアンサー
- 回答日時:
NO8とNO9のお礼欄に、
「日本教の本質について、触れて欲しかった」
といった趣旨のリクエストがありましたので、すこし考えてみました。
で、
まず、わたしの頭に浮かんだのは、
「何事の おわしますかは 知らねども
かたじけなさに 涙こぼるる」
という、西行の歌でした。
(伊勢神宮をお参りしたとき、歌った歌らしいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C
でも、歌そのものを、なかなか思い出せずに、Wikipediaの西行の項目を見ました)
西行は、真言の人ですから、「何事の おあわしますか」の背後に《maha-vairocana・大日如来》の存在を薄々確信しているのでしょうけれども、それは言わない。
ロゴスではなく、パトスとして感じている、何となくそのことを感じている
ってことになるのですかね~。
「モノのあはれ」としてカミを感じている、感得している。。。
この「何事の」は、
のちの時代に教義化された神道における《多神教の最高神としてのアマテラス》ではないでしょう。
カミとしての普遍に近い何か、キリスト教のGodや大乗の法身に近い何か。
そして、日本人は、
カミの顕現としての自然の中に、日本人は、普遍のカミ〔の存在〕を感じ取れる。
いわゆる原始的なアニミズムとは異なる、日本人独自のアニミズムがある。
そしてそれは、おそらく、西洋哲学でいうところの一神教的な《汎神論》に極めて近いもの。。。
日本人は、何かカミ〔の存在〕を感じるとき、《ホニャララのカミ》を感じませんよ。
「神さまは、いるんだな~」
「神さまは、やっぱ、いるかもしれない」
ですよ。
この時の《神さま》という言葉は、普遍名詞の《神》であり、その意味は、キリスト教の《God》、大乗の《dharma-kaya-buddha》の意味ですよ。
日本人は、宗教に無節操とよくいわれますが、無節操なのではなく、全てのカミ──Godやmaha-vairocanaも含みます──は、この日本人の自然心性としての《神さま》という言葉や概念に包まれてしまう。そこには、矛盾など、端から存在していない。日本の《神さま》は、絶対に、喧嘩をしない!! 《争わないカミ》なんでげす。 争うことなど、原理的に起こり得ない!!
───アマテラスVSスサノヲ、国譲りなどの神話は、大和朝廷が権力の正統性を主張するために、勝手にこさえた与太話でさ~───
神道ではなく、日本人の素朴心性に基づく《日本教》の本質は、ここにあるのでは、と眠り猫は、考えます。
「日本は、八百万のカミさまが……」、なんてのは、絶対に嘘。
八百万のカミとして、神さまを感じるはずがない。
そもそも、無限定者である《神》をそのように感じられるはずがない。
何だか分からない、《何事のおわしますかは》としてしか、《神》はとらえられない。
「八百万の神」という言葉は、神さまが万物に溶け込んでいること、浸透していること、西洋哲学的にいえば「個物に《神》が内在している」ことを言明しているにすぎない。
なので、
ドグマ化された「《八百万のカミ》という考え」、その呪縛から、一刻も早く脱却してほしいものです。
でなければ、日本人は、他の宗教の人と、永遠に神について語り合うことができない!!
我ながら、理屈っぽいな~。
お早うございます。ご回答をありがとうございます。
そうですね。おおむねそのように了解しました。
◇ 何だか分からない、《何事のおわしますかは〔知らねども〕》としてしか、《神》はとらえられない。
☆ これですね。
ナゾ あるいはさらには 無根拠
あたりではないかと。
◇ ~~~~~~
「八百万の神」という言葉は、神さまが万物に溶け込んでいること、浸透していること、西洋哲学的にいえば「個物に《神》が内在している」ことを言明しているにすぎない。
なので、
ドグマ化された「《八百万のカミ》という考え」、その呪縛から、一刻も早く脱却してほしいものです。
でなければ、日本人は、他の宗教の人と、永遠に神について語り合うことができない!!
~~~~~~~~
☆ それほど理屈っぽいとも思いません。わたしの理屈としては
○ ~~~~~~~
いわゆる一神教に向き合うとき人びとは
自分たちは多神教であるとか八百万の神々がいるとか言うわけですが
だとしたら
それは その一神教とは別の何らかの宗教だと言っていることになり
またその何らかの宗教というのは
ひとつの一神教と対等に向かい合うかたちと中身とを持っている
と言ったことにもなる。
ゆえに 漠然とながら 自分たちの多神教を特に外から見たら
やはり類型として 一神教である。
~~~~~~~
でした。このかたちの中身を埋めていただきました。
ですから 今回示していただいた結論が妥当であると思いますので この視点をもって《日本人は 他の宗教の人と
神について語り合って欲しい》と思います。
次のご指摘もかかげておきます。
◇ ~~~~~
日本人は、宗教に無節操とよくいわれますが、無節操なのではなく、全てのカミ──Godやmaha-vairocanaも含みます──は、この日本人の自然心性としての《神さま》という言葉や概念に包まれてしまう。そこには、矛盾など、端から存在していない。日本の《神さま》は、絶対に、喧嘩をしない!! 《争わないカミ》なんでげす。 争うことなど、原理的に起こり得ない!!
~~~~~~~
これでこの質問は閉じます。
ありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
こんばんはです。
☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~
そして《寛容》の問題になります。
◇ ~~~~
唯一神教が排他的か排他的でないか、融和的か融和的でないかは、別の話。
法身ブッダをいただく大乗ブディズムについて考えてみれば、
この問いに対する答えは、おのずと出てくると思います。
~~~~~~
☆ ふむ。多神教か一神教かを問わず いづれであっても神は《普遍性なる根源の一》に収斂する。そういった理論においては 《排他的か否か》の問題はかかわっていない。ただ その宗教の――組織をとおしてのでしょうか――いとなみにおいては 具体的に融和的でない側面も現われ得る。ということに過ぎない。――でしょうか?
~~~~~~~
〈神〉が〈ドグマ〉・〈教義〉になった瞬間でしょうか。
ここには、〈神⇔人間〉という本来的な結びつき以外に、〈教団〉・〈教会〉などという組織が介在してしまう。
組織としての論理が働いてしまう。
〈オシエ〉にその論理、組織防衛という本能が働いてしまう。程度の差はあれ、〈オシエ〉由来のものとは別な排他色がでてしまうのではないかと。。。。。。
時に、世俗の政治権力などと結びつく。
政治と宗教の利害が一致した時、
暴力という物理的な強制力が生まれてしまう。
キリスト教の布教、とくにアメリカ大陸でのキリスト教の布教を見た時、これは顕著でしょう。
政教一致、戦前の日本を見るまでもなく、これはとても恐ろしいことだと思います。
そこに待ているのは、おそらく、個人の権利・自由を徹底的に抑圧する荒涼とした地平だけ、
などと思っています。
まさにどんぴしゃりの質問を挙げていました。
――まづは ご回答をありがとうございます。
○ 【Q:組織宗教を 弾劾する。】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8087365.html
☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~
教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。
自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。
すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。
そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。
よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。
信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。
~~~~~~~~~~~~~~
◇ ~~~~~~
〈神〉が〈ドグマ〉・〈教義〉になった瞬間でしょうか。
ここには、〈神⇔人間〉という本来的な結びつき以外に、〈教団〉・〈教会〉などという組織が介在してしまう。
組織としての論理が働いてしまう。
〈オシエ〉にその論理、組織防衛という本能が働いてしまう。程度の差はあれ、〈オシエ〉由来のものとは別な排他色がでてしまうのではないかと。。。。。。
~~~~~~~~
政教一致の問題もありました。
◇ ~~~~
時に、世俗の政治権力などと結びつく。
政治と宗教の利害が一致した時、
暴力という物理的な強制力が生まれてしまう。
キリスト教の布教、とくにアメリカ大陸でのキリスト教の布教を見た時、これは顕著でしょう。
政教一致、戦前の日本を見るまでもなく、これはとても恐ろしいことだと思います。
そこに待ているのは、おそらく、個人の権利・自由を徹底的に抑圧する荒涼とした地平だけ、
などと思っています。
~~~~~~~
なのですが――まったく文句無しなのですが――あとは 《日本教》について出来ればスカッとする説明なり批判なりがみなに共有できるようになるとよいかと思いました。
継続審議にしてもよいのですが。
No.8
- 回答日時:
こんばんはです。
神を哲学する、あるいは、神学化すれば、唯一神的なものになってしまうのではないですか。
八百万のカミさまどころではなく、無数のホトケさんが存在する大乗・密教ブディズムの終着点は、法身仏や原初仏です。
バラモン教では、最終的に、ブラフマン、ビシュヌ、シヴァは合体して、一つの神になった。民衆の支持は得られなかったけれど、ブラフマン、ビシュヌ、シヴァは至高神のペルソナ的なもの、至高神の一つの顕現、アヴァター(ラ)になってしまった。
神や仏という言葉が、具体ではなく、抽象になった瞬間、それは普遍であり、唯一神的な存在になってしまう。統一をしようという、動きが起こってしまう。
これは、人間の思考のクセ、性(さが)みたいなものだから、避けられないと思いやす。
物理でもそうでげしょ、
強い力、重力、電磁気的な力、弱い力、
できるかできないか分からないけれど、統一しようと悪戦苦闘する。
チカラなんだから、統一できるはずだ、となってしまう……。
素朴な信仰においても、〈○○の神〉というように、〈○○の神〉を超える〈神〉という普遍的な概念、あるいはカテゴリー・範疇が存在しているのですから、
神を哲学しちゃえば、
唯一神、もしくは、至高神を頂点とする階層的な構造
になってしまうと思いやす。
素朴な神観においてすら、神という普遍、範疇は存在しているはず。
それゆえに、普段拝んでいる神とは違うでさえも、同じ神様だから、と手を合わせる。
ここに矛盾はみられない。
唯一神教が排他的か排他的でないか、融和的か融和的でないかは、別の話。
法身ブッダをいただく大乗ブディズムについて考えてみれば、
この問いに対する答えは、おのずと出てくると思います。
ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
◇ ~~~~
素朴な神観においてすら、神という普遍、範疇は存在しているはず。
それゆえに、普段拝んでいる神とは違うでさえも、同じ神様だから、と手を合わせる。
ここに矛盾はみられない。
~~~~~~
なるほど。抽象化・一般化の作用は いづれの場合にせよ はたらくことになり それは《普遍性》にたどりつくところまで行き着くと。
多神は 唯一神の分身だという見方しかしていなかった。
回答No.6のくりやさんは ぎゃくに《普遍性》のほうから《具象・多様性》なる世界に降りて来るかたちのようです。
★★(回答No.6) ~~~~~
一(いつ)なるが故に多。多なるが故に一(いつ)。
これを一つ二つという西洋数学の観念で捉えることは適当ではないと存じます。統一、一体ということに近いと存じます。
一(いつ)は多としてしか現象顕現ができない、つまり存在しえない。
だから個たるどの信仰も宗教も、外見的存在たる自己のほかの多や他の個が存在してこそ存立の知覚経験と確認ができます。
否定したりないものとはできない。これが寛容たることの絶対原理性です。
~~~~~~~~
そして《寛容》の問題になります。
◇ ~~~~
唯一神教が排他的か排他的でないか、融和的か融和的でないかは、別の話。
法身ブッダをいただく大乗ブディズムについて考えてみれば、
この問いに対する答えは、おのずと出てくると思います。
~~~~~~
☆ ふむ。多神教か一神教かを問わず いづれであっても神は《普遍性なる根源の一》に収斂する。そういった理論においては 《排他的か否か》の問題はかかわっていない。ただ その宗教の――組織をとおしてのでしょうか――いとなみにおいては 具体的に融和的でない側面も現われ得る。ということに過ぎない。――でしょうか?
そうですね。ブディズムに関して問題としたいところは 《ブッダ――つまり 法身のブッダ――》が 《神》であるのか無いのかという問いに対して はっきりとした答えを出せないでいる場合が見うけられます。
へたをすると その究極においては《唯一神体制》なのだということさえ知らない・分からないという場合が 多いようにも見られます。
これらは 現象としてです。
そうしてあとは 日本教の問題です。
日本教と呼びうる・目に見えないながら何らかの宗教としての外郭があるのではないか?
そしてそれは 多神教と一般に呼びならわされていても――普遍一神に辿り着くからには―― 宗教としてなら一神教であるということ。
これは 明らかにして みづから認識しておいたほうがよい。こういう議論になっています。
対外的な自己紹介のときの問題としてです。
No.7
- 回答日時:
#2です。
自分の疑問点をまとめます。>多神教も もし多少とも排他性のつよい一神教に向き合ったときには みづからの枠組みにそこで初めて気づくかのごとく要するに目に見えない自分の体系を持っているかのごとく 拒絶する動きを見せると思うのです。
インドなどの東南アジアの事情はわかりませんが、日本にキリスト教が伝来した時、仏教や神道は、こぞって組織的な排撃を行ったのだろうか?というところが、まず疑問です。日本史にそういう史実は、少なくとも明文化されてはいない。
そりゃ、軋轢はあったと思いますよ。神社,仏閣にしてみれば収入源である檀家衆を奪われ兼ねないのだから、組織運営上まずい事態だ。でも隠れキリシタンなどを考えると、何か仏教と宥和してしまっている。
潜在的な体系はあるでしょうが、どうもそれに対する意識が薄い。そういうのを一神教と呼べるのだろうか?、という疑問です。
>それは たとえば《クウキ》です。あるいはつまり 社会形態が――これは《国家》として 日本だけに限らないのですが―― 二階建ての構造になっているというその仕組みのことです。
第二階つまり 公民圏が 一階の市民らを主導し指導するというそのあり方 これが クウキなる雰囲気を醸し出すという方式であること。これです。
>言いかえると 日本教には キリスト教支部や共産党支部まであるのですが・・・中略・・・真綿で首を絞めるといったタトエさえ当てはめてもよいような組み入れ・組み込みなる方式がはたらく実際の情況である。これです。
賛成します。賛成しますが、二階建ての構造については私がさぼっているので触れません(^^;)。後半については賛成はするものの、やはりそれに対する意識は薄い。
>次の推論にもやはり楯突きます。
・・・これは個人的な感想でして・・・。徳川家康が3世紀に及ぶ安定の基礎を築いたのは、確かに歴史に残る偉業かも知れないが、自ら神様に祭り上がる事はないだろう(正確には、孫がやった事ですが)。何故ならそれは常人を凌駕したものではあるが、人知を超えたものではない。それなのに神様になるなんて、恥ずかしくないの?。神様には、そんなに簡単に成れるのですか?、という素朴な感覚です。
でも自分の本心では、気にしてないのですよね。そこで思い当ったのが、九十九神でした。たぶん同じ感覚なのだろうと。こんなのはインドにもありそうだが、結局、潜在的体系を意識せず、体系化志向が弱いという事ではないのか?。
>・・・そうではなく よく振り返って考えてみるなら そういうかたちで 多神教と呼ばれるひとつの宗教が じつは《一神教》であった。ということをまづは言いたいためです。・・・
否定はしません。しませんが、そう言ったところで、認識論的にどういう価値があるのか?。
結局自分は、定性的に体系化志向の有る無し、定量的には体系化志向の強弱で一神教を「定義したい」訳ですが、これだって「認識論的にどういう価値があるのか?」と問われれば、けっこう困ってしまう(^^;)。自分の感覚に合う、としか言えない・・・。
結局、あなたの意図がわからない訳です。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
そうですね。まづ 反論をいただきました。
★ 日本にキリスト教が伝来した時、仏教や神道は、こぞって組織的な排撃を行ったのだろうか?というところが、まず疑問です。日本史にそういう史実は、少なくとも明文化されてはいない。
☆ ええ。おそらく《目に見えない自分たちの組織(世間ですかね)としての体系》において 人びとは振る舞っていると思います。
つまりは早い話が
★ でも隠れキリシタンなどを考えると、何か仏教と宥和してしまっている。
☆ というふうにして そのクウキなる体系にやはり組み入れている。
隠れキリシタンというくらいですから 取り締まっているわけですが 共産党なりオウムなりについても もし取り締まりが必要だと見た場合には そのような《組み込み》の仕方をするのだと思います。
《組織的な排撃》についての《明文化》は 極力避けているでしょうね。それが・つまり名指しして規定し管理するということを避けるというのが クウキ大王による支配(というよりは 組み込み。役割分担でさえある)の方式だと思われます。
このとき
★ 潜在的な体系はあるでしょうが、どうもそれに対する意識が薄い。そういうのを一神教と呼べるのだろうか?、という疑問です。
☆ でもたとえば 北朝鮮の出先としての朝鮮人の人たちをも この日本教ないしそのクウキのもとにおさめるというのがハタラキとしてあるとすれば やはり一神教であると思われます。
《意識が薄い》どころか クウキなのですから 意識せずにはたらいているのではないでしょうか?
徳川家康なる神も付喪神も すべてを包み込む包容力のある宗教なのではないでしょうか。
この包容力は そんぢょそこらの宗教とは違うのでしょうね。言いかえると 《国体》は何が何でも守るということになるのかも知れません。
★ ~~~~~
>・・・そうではなく よく振り返って考えてみるなら そういうかたちで 多神教と呼ばれるひとつの宗教が じつは《一神教》であった。ということをまづは言いたいためです。・・・
否定はしません。しませんが、そう言ったところで、認識論的にどういう価値があるのか?。
~~~~~~~~
☆ この認識は 重要です。キリスト教を初めとするいわゆる一神教についてそれらの排他性や敵対する相手への容赦ない攻撃といった特徴や弊害を われわれが指摘するとき そのことを《われわれは 多神教だから出来るのだし そういう弊害はない(*)のだ》という説明によるのではまだ認識不足になると思われるからです。
つまり自分たちも多神教の様相を持った宗教がひとつあってそれは国としてまとまったかたちでは ほかの宗教と相い対するときじつは類型として一神教なのであるがうんぬんと言って説明できると うんとよい。こういうメリットがあります。
なぜそうできるとよいか? 科学的な妥当性があると考えられ 説得力が増すからです。(これは あたらしい時代において日本人が世界のリーダーになるときに 精確な自己認識が必要だと思われるからです)。
あぁ これで
★ 結局、あなたの意図がわからない訳です。
☆ にお応えできました。どうでしょう。(つまり その自己認識にもとづく内容についての質問を別にいま もうけています)。
* 《われわれに弊害はないのだ》: これは言い過ぎだと思います。
つまりは 社会がやはり二階建ての構造をしているからには
そのお二階さんの支配方式ないし主導形式には 行き過ぎが
あるかと考えます。威張り過ぎかと思います。
それはいま 別としています。
No.6
- 回答日時:
No.5でのbragelonne さんのお礼のコメントの仰せで全て言い尽くされています。
一(いつ)なるが故に多。多なるが故に一(いつ)。
これを一つ二つという西洋数学の観念で捉えることは適当ではないと存じます。統一、一体ということに近いと存じます。
一(いつ)は多としてしか現象顕現ができない、つまり存在しえない。
だから個たるどの信仰も宗教も、外見的存在たる自己のほかの多や他の個が存在してこそ存立の知覚経験と確認ができます。
否定したりないものとはできない。これが寛容たることの絶対原理性です。
ラートブルッフの法哲学の相対性原理を少しお読みになるとそのあたりでのドイツワイマール法哲学(新カント西南学派)の素晴らしさも伝わってきます。
人間は私達は個としての存在です。どうしても。
この個という存在は寛容であって、始めて存在できる。
そんなご回答を期待して、待っているんですがなかなかご訪問がないですね。
ご回答をありがとうございます。
★ No.5でのbragelonne さんのお礼のコメントの仰せで全て言い尽くされています。
☆ ありがとうございます。
★ ~~~~~
一(いつ)なるが故に多。多なるが故に一(いつ)。
これを一つ二つという西洋数学の観念で捉えることは適当ではないと存じます。統一、一体ということに近いと存じます。
一(いつ)は多としてしか現象顕現ができない、つまり存在しえない。
だから個たるどの信仰も宗教も、外見的存在たる自己のほかの多や他の個が存在してこそ存立の知覚経験と確認ができます。
否定したりないものとはできない。これが寛容たることの絶対原理性です。
~~~~~~~~
☆ あらためて 現象世界において多様性としてあることの意味をめぐって
★ 否定したりないものとはできない。これが寛容たることの絶対原理性です。
☆ と。
思考の次元では 互いに自由に批評・批判してもよいとわたしとしては 思っています。批判と否定とは 微妙にちがいます。
★ ~~~~~
ラートブルッフの法哲学の相対性原理を少しお読みになるとそのあたりでのドイツワイマール法哲学(新カント西南学派)の素晴らしさも伝わってきます。
人間は私達は個としての存在です。どうしても。
この個という存在は寛容であって、始めて存在できる。
そんなご回答を期待して、待っているんですがなかなかご訪問がないですね。
~~~~~~~
☆ このご発言については さらに待ちたいと思います。
いかがあい成りましょうか。
No.5
- 回答日時:
bragelonne さん、久しぶりですね。
たいへん難しい質問文ですが、私なりに以下のように理解していいでしょうかね?
なお、ご参考までに私の場合を少し述べます。
あぁでも難しい、コメントやお話はつらいですね。
ご質問は、宗教, 宗教信仰とその宗教的寛容性の問題ですね。
そこで宗教信仰って、多神教でも結局、一神教となるのではないか。
という問題でしょうかね?
そこで、ある一神教とそれ以外の他の一神教の互いの位置づけ。
そして同じ一つの多神教(ヒンドゥ的、或いは日本の神道など。)の間のお互いの位置づけ。
こういう問題でしょうかね?
*まぁヒンドゥの場合は多なる神は一なる神の化身、側面、或いは下降したあり方ですし、日本の神道もアニミズムなんで、全てが神ですから寛容も何も信仰心が大事なんですね。
私はそういうアニミズムに育ち、仏教も若い頃は勉強しましたが、ここ40年ほどはヒンドゥの流れのSelf-Realization Fellowshipというヨーガの勉強と精進をしております。
それで自己の信仰している宗教とかを根源までいくと、姿象(すがたかたち)や表現が多様でも、共通性が見えてきませんか?
そして根源のところに到ると、万人万象に神と自己が同じに存在していませんか?(実はこんな感じは幼児期から、何か否定できない感覚としてあります。)
ご回答をありがとうございます。
★ ご質問は、宗教, 宗教信仰とその宗教的寛容性の問題ですね。
☆ ええ。そうです。
★ ~~~~~
そこで宗教信仰って、多神教でも結局、一神教となるのではないか。
という問題でしょうかね?
~~~~~~~
☆ そういうことになります。
★ *まぁヒンドゥの場合は多なる神は一なる神の化身、側面、或いは下降したあり方ですし、
☆ わたしもそううかがっています。すなわち――いろんな説に分かれるようですが 基本としては―― ブラフマンなる宇宙の主宰神ただひとはしらのもとにあると理解しています。
(このブラフマンが シーワやヰシュヌやに取って代わられるという説とその宗派の実際の情況もあると聞いていますが)。
★ 日本の神道もアニミズムなんで、全てが神ですから寛容も何も信仰心が大事なんですね。
☆ 初めの起源としてのでしょうかそのアニミズムの段階にすべてがとどまっているとはわたしは見ませんが 《全てが神》や《信仰心が大事》といったご指摘は おおむねその内部における・内部から見た自画像ではないかと見て 同じように捉えます。
言いかえると ではそのシントウが 外部すなわちたとえばいわゆる一神教としてのキリスト教やあるいはおおむねそうだと思われるコミュニズムに相い対して どう先ほどの自画像を描くか。描き直すか。あるいは もとのままにとどまるか。こういう角度からの問い求めになると思います。
この問いを発した局面から すでに《宗教の寛容》の問題に移って行かれました。
すなわち
★ それで自己の信仰している宗教とかを根源までいくと、姿象(すがたかたち)や表現が多様でも、共通性が見えてきませんか?
☆ おそらくそうなのでしょうね。
★ そして根源のところに到ると、万人万象に神と自己が同じに存在していませんか?(実はこんな感じは幼児期から、何か否定できない感覚としてあります。)
☆ そうですか。じつは 質問者もかねてよりこのようなご見解と同じ内容を思って来ています。
たとえば No.3のやり取りでは 次のように書きました。
☆☆(No.3お礼欄) ~~~~
・・・
つまり 《神》はすべてが その名が違っていても――また〔コミュニストらなどの場合の〕《無い神》であっても―― 同じひとつの神である。真理がふたつもみっつもあってはたまらない。
ただし 多神というときには その全体としてひとつの神の分身だという見方をしてもよいかと思います。つまり宗教ないしむしろ信仰は あくまで一元論である。こういう立ち場が もっとも寛容なのだという考え方です。
~~~~~~~~~~~~
こういった内容として捉えてよろしいでしょうか。つまり
★ 根源のところに到ると、万人万象に神と自己が同じに存在していませんか?
☆ とわたしは同じ趣旨であると受け留めましたというお応えです。
これは 一般類型として言うのですが それとしてはけっきょく
神:ブラフマン(梵天)
人:アートマン(霊我)
とまづ捉え この神なる霊(それは ナゾゆえ 霊という)において
《梵我一如》 なる信仰の類型
が描かれるという仮説です。
《我》は 人として不変であり 《梵》は それぞれの自由な信仰のかたちにおいて 一般的な《かみ》でもよいでしょうし あるいは《アミターバ・ブッダ》でも《ヤハヱー》でも《アッラーフ》でもそして《無い神》でもよいのではないかという見方になります。
従いまして 類型は具体的にいくつかの形態を自由にとります。
神人一如
霊霊一如
仏仏一如
無無一如
・・・
No.4
- 回答日時:
Bさま、こんばんは。
(1)それじゃあ、「神」とは、なんでしょうか。
(2)
>「宗教をめぐる寛容とは」
オウムは、「信教の自由」を大きく逸脱して、
・・・だから「信教の自由には、限界がある」というわけで
「あんなこと言ってるけど、所詮限界がある」と部外者が安心出来る意味も有れば、
「限界を越えない以上は、認めましょう」という意味もある。
K さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
★ (1)それじゃあ、「神」とは、なんでしょうか。
☆ 《人間にとっては それが分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》です。
次のように ひとの心なる《非思考の庭》にて受け容れられるものです。
○ 【Q:神について何故ひとは哲学しないのか?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8037616.html
☆☆(その趣旨説明欄) ++++++++++
9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~
非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
____________________
思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
____________________
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ ~~~~
オウムは、「信教の自由」を大きく逸脱して、
・・・だから「信教の自由には、限界がある」というわけで
~~~~~
☆ これは オシエの問題ではないでしょうか? オシエが 言わば人間の浅知恵によって勝手につくられたという問題。
なぜって《信じる》は その対象が分からないのですから その自由に 何かによる制限がかけられるということはあり得ません。
また オシエは 思考するものですから 非思考の庭に受け容れられている神とは別です。つまり信仰とも別です。
★ ~~~~
「あんなこと言ってるけど、所詮限界がある」と部外者が安心出来る意味も有れば、
「限界を越えない以上は、認めましょう」という意味もある。
~~~~~~~
☆ これは オシエについて語った問題でしょう。
言いかえると オシエが守るべき規範になった段階では 信仰から離れて オシエにもとづく宗教となっています。個人としての信仰の外郭のようなものをオシエとするのが 宗教です。つまり蝉の抜け殻です。
このオシエやそれにもとづくもろもろの活動 これらには《限界》があります。その思惟としての妥当性あるいは行動の公共性(公序良俗への違反かどうか)について取り決めます。
オシエが 経験思考の問題ですから それやそれにもとづく行為についても経験思考によって対処します。
No.3
- 回答日時:
4.については、私もよく分かりませんし、そんな状態では、知っている部分も公開しないほうがいいと思っています。
なお、幸福の科学は、最初は仏教の一派として始まっていますから、生まれ変わり、つまり「輪廻転生」は当然の教えです。そして「永遠の生命」を持って、あの世とこの世を往き来し、この世は、魂が肉体に宿って、魂の学校という役割をしているというのが教えの基本にあります。
そして、幸福の科学は、日本を発祥の地にしているけど、世界宗教と考えているので、「日本教の一環」という考えはありません。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教や、今は無き古代文明の宗教を指導したのがエルカンターレというスタンスです。
(ですから、現在の世界宗教の誤った教義の批判、修正も、そのうちに英語説法で始まるのではないか?と思ったりします。イスラムからは総裁の暗殺指令が出る?)
また、天照大神の霊言では、「(日本が中国の属国になるくらいなら)日本列島が全部沈んだって全然構わない」と言われています。
なので、そういう点では、エルカンターレと天照大神の考え方は一致しているともいえるかもしれません。
そして、日本の主宰神に、最終手段を決断させてしまう事態にならないように頑張らないといけないと思うこのごろです。
※多神教と一神教、寛容さについて
幸福の科学では、「レベルの違う神々が多数いる。そして、それらの頂点にいる神がエルカンターレである」という考え方です。
なので、多神教といえますが、神それぞれにレベル差を認める多神教です。その点で、善悪が分からない宮﨑アニメ的な汎神論的な多神教とは違います。
そして巨大企業の一般社員や地方の支店長が、トップである社長の考えが分からないように、どこかの国のトップとされている民族神がエルカンターレの考えはもとより、その存在すらも知らないってこともあるわけです。
また、イスラム教が、キリスト教徒に対して、「イスラム教に改宗したら税金は払わないでもいいよ。でも、改宗しないなら、税金を払いなさい!」という、ある意味の寛容さを示した歴史がありますけど、強制的な改宗や、宗教の違いによる大きな差別をしないのが、宗教の寛容さだと思いますね。
ちなみに、イスラム教のコーランでは、神が単数形だったり、複数形だったりします。イスラム教は、複数の神による集団指導体制がとられていました。
幸福の科学の信者になれば、これ以上のことが学べると思います。ただ、現在は、中国の脅威から日本を守ることのほうが大切であり、日本や世界の近代史とか核武装、ミサイルなどの軍事力、憲法改正などを考えるほうが重要かもしれないと思っています。
ええっと つい反論ばかりを書いてしまっていたようで その点については お気持ちをわるくされたなら あやまります。すみませんでした。
えるゐー4ゆーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
個別の問題ですが・そしてなお反論になりますが
★ なお、幸福の科学は、最初は仏教の一派として始まっていますから、生まれ変わり、つまり「輪廻転生」は当然の教えです。
☆ これは 受けつけられません。理由はふたつです。
輪廻転生は ブラフマニズムのオシエです。ブディズムは 部分的に取り入れたところがありますが それでもあくまでもその輪廻転生には到らないようにする修行でありそのオシエだと承知しています。
また オシエがいづれであっても 同じ遺伝子の人が過去にいたということはあり得ません。したがって《生まれ変わり》をオシエに説くことは――文学的な言葉のあやでなければ―― 《科学》ではありません。
よって議論にはなじまない。こう言ってよいと見ます。
★ キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教や、今は無き古代文明の宗教を指導したのがエルカンターレというスタンスです。
★ そして、幸福の科学は、日本を発祥の地にしているけど、世界宗教と考えているので、「日本教の一環」という考えはありません。
☆ それぞれの宗教の《神》を採り入れたとき そういう意味での――確かにこれまでの日本教からはまた別のあたらしい《日本教》類型になると思いますが――《多神教》ではないでしょうか。つまり 多神教制としての一神教であると。
そうですか。くわしく知りませんでしたが もしそうでしたら 言ってみればまさに日本教を世界に開いてひとまわり広くした《多神教制としての一神教》である。このように映ります。
そしてふつうの日本教は たしかに《エル・カンターレ》というような神もなかったようですし そのようなかたちで《全体としてひとつの神》をかかげることも なかったとは思います。
★ そして、日本の主宰神に、最終手段を決断させてしまう事態にならないように頑張らないといけないと思うこのごろです。
☆ なるほど。つまり ひとつの見方としては やはりこれまでの日本方式にのっとる日本教内一神教支部のさらに一宗派としてエル・カンターレを立てたというのか。それとも そうではなく・そこにとどまらず すでにあたらしいより大きい風呂敷を広げたようなかたちにおける第二日本教のような動きなのでしょうか。
あるいはつまり 日本教の別動隊であるのか。日本教なる宗教の内からの改革なのか。
★ エルカンターレ
☆ エルは神ですが カンターレとは何でしょう?
★ ちなみに、イスラム教のコーランでは、神が単数形だったり、複数形だったりします。イスラム教は、複数の神による集団指導体制がとられていました。
☆ そうですか。そういう見方もありましょうか。
神の複数形については 畏敬の複数だと言われて来ているとは思いますが。
★ 強制的な改宗や、宗教の違いによる大きな差別をしないのが、宗教の寛容さだと思いますね。
☆ 第一のレベルでしょうか。
つまり 実際問題としては あたかもおっしゃるようなエル・カンターレなる《全体としてひとつの神》が すべての人びとないしすべての宗教にとって共通の神であること。これが 究極の寛容だと質問者としては捉えています。
つまり 《神》はすべてが その名が違っていても――また《無い神》であっても―― 同じひとつの神である。真理がふたつもみっつもあってはたまらない。
ただし 多神というときには その全体としてひとつの神の分身だという見方をしてもよいかと思います。つまり宗教ないしむしろ信仰は あくまで一元論である。こういう立ち場が もっとも寛容なのだという考え方です。
情報交換として 質問者の考えを述べました。
No.2
- 回答日時:
あらかじめお断りしますが、駄文です(^^;)。
一神教と多神教の違いについて自分は、体系化欲求の違い、と見てしまします。一神教は体系化欲求が強いと思いますし、逆に体系化/合理化欲求の強い風土では、一神教が生き残った気がします。ただしここでの合理化には、非論理的合理化(要するに、屁理屈)も含めます。そこから異教徒に対する異常な攻撃性や排他性も、生まれて来る気がする。
いっぽう神道はまだしも、いわゆる日本教は体系化志向が大変に弱い。あれもこれも、まぁ~ありじゃないの?と、余り気張って考えない。それで神様達も分業体制をとる。これを長所だとは思わないが、欠点だとも思わない。おかげで比較的穏やかな暮らしが眼前にはある。反対に、日本教は日本以外には拡がらないでしょうね。体系化してないから無理だ。アルイカイーダは絶対に受け入れないだろう。
そもそも日本教は、己の自己評価などには関心がない。徳川家康様が神様に祭り上がったのはまだ良い方で、九十九神なんてのまでいる。なんでもありだ。ふつうの宗教ならこれらの事は、こっ恥ずかしくてとても出来ないのではないだろうか?、と思わず思ってしまうが、じつは自分も本心では気にしていない(それもありだよね、と(^^;))。
よって、
>・・・多神体制よりほかには 宗教のかたちはあり得ない・・・
などとは、思いもよらない(^^)。
しかしそう考えると、典型的な日本家庭に生まれ育って洗礼を受けた日本人クリスチャンと、典型的な西欧家庭の子弟がなった外人クリスチャンとでは(敢えて外人と言います)、決定的な差があるのではないだろうか?。
外人クリスチャンにとって、唯一神がいるかどうかは、のるかそるかのクリティカルミッションだ。それが無ければ、世界は崩壊しかねない。
いっぽう日本人クリスチャンにとって洗礼は、「あの人について行く」「あのアイドルでいい」や「あの人を師匠と決めた」というような、選択ではないのか?と思えます。
そうなると、日本同じようにというか、日本以上に道祖神なんかが夥しそうなアフリカ系クリスチャンと日本人クリスチャンには、ある種の相似性があるのかな?、とか邪推してしまします(^^;)。
また何でも認める風土だからこそ、いっけん唯一神を求めるかのような厳しい修行(じつは違うのだが)を行う修験道者のような人達も、現れる気がする。
・・・最後は思わせぶりな事を書きましたが、これは駄文ですから・・・(^^;)。
★ 体系化欲求の違い
☆ ですか。
ddtddtddt さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
ひとことでただちに反応するとしたら 多神教も もし多少とも排他性のつよい一神教に向き合ったときには みづからの枠組みにそこで初めて気づくかのごとく要するに目に見えない自分の体系を持っているかのごとく 拒絶する動きを見せると思うのです。
つまり 《体系》はあるかのごとくふるまう。のではないか?
ということになりますが 細かく見てまいります。
★ ~~~~~
いっぽう神道はまだしも、いわゆる日本教は体系化志向が大変に弱い。あれもこれも、まぁ~ありじゃないの?と、余り気張って考えない。それで神様達も分業体制をとる。これを長所だとは思わないが、欠点だとも思わない。おかげで比較的穏やかな暮らしが眼前にはある。反対に、日本教は日本以外には拡がらないでしょうね。体系化してないから無理だ。アルイカイーダは絶対に受け入れないだろう。
~~~~~~~
☆ そうですね。このままをまづ受け留めさらに受け容れたうえで 一点違うところは その受け容れた内実に《核心的利益》がじつはきちんとした装置として仕掛けられている。のではないかと見られることです。
それは たとえば《クウキ》です。あるいはつまり 社会形態が――これは《国家》として 日本だけに限らないのですが―― 二階建ての構造になっているというその仕組みのことです。
第二階つまり 公民圏が 一階の市民らを主導し指導するというそのあり方 これが クウキなる雰囲気を醸し出すという方式であること。これです。
言いかえると 日本教には キリスト教支部や共産党支部まであるのですが これらはそのもともとのオシエが大きく《クウキ》にはさからわないという条件のもとに 仲間となっておりタテマエとしてでも家族つきあいになっている。そういうクウキによる支配方式。
これが 《何でも有り》で 一見するとのっぺらぼうの社会に対して 真綿で首を絞めるといったタトエさえ当てはめてもよいような組み入れ・組み込みなる方式がはたらく実際の情況である。これです。
次の推論にもやはり楯突きます。
★ ~~~~
そもそも日本教は、己の自己評価などには関心がない。徳川家康様が神様に祭り上がったのはまだ良い方で、九十九神なんてのまでいる。なんでもありだ。ふつうの宗教ならこれらの事は、こっ恥ずかしくてとても出来ないのではないだろうか?、と思わず思ってしまうが、じつは自分も本心では気にしていない(それもありだよね、と(^^;))。
よって、
>・・・多神体制よりほかには 宗教のかたちはあり得ない・・・
などとは、思いもよらない(^^)。
~~~~~~~
☆ つまりは
★ 神様達も分業体制をとる。これを長所だとは思わないが、欠点だとも思わない。
☆ というように おおもとのクウキにさえさからわなければ 何をしてもよい。つまり
★ ~~~~
>・・・多神体制よりほかには 宗教のかたちはあり得ない・・・
などとは、思いもよらない(^^)。
~~~~~~~
☆ と声を大にして叫んでも まったくだいじょうぶなわけです。日本教が存続するなら あとは何を言っても何をやっても 自由だとなっているのだと見ます。
★ ~~~~~
しかしそう考えると、典型的な日本家庭に生まれ育って洗礼を受けた日本人クリスチャンと、典型的な西欧家庭の子弟がなった外人クリスチャンとでは(敢えて外人と言います)、決定的な差があるのではないだろうか?。
~~~~~~~
☆ これは あるでしょうね。西欧ないし欧米のクリスチャンの場合は 特にこれといった特徴はないと思います。それとして 宗教をいだいているといった情況です。
特徴があってこれが ふだんは潜在化していても つねに存在していて はたらいてもいると思われるのは 日本人クリスチャンのほうです。日本人クリスチャンは 世界のどこに行っても 日本教徒として存在するということ これだと思います。
つねに 日本教キリスト教支部所属の人間であり そうありつづけるということです。
別にそれはわるいことだと一概に決めて言っているのではなく そうではなく よく振り返って考えてみるなら そういうかたちで 多神教と呼ばれるひとつの宗教が じつは《一神教》であった。ということをまづは言いたいためです。(第二階公民による一階市民らへの支配としてのクウキを別とすれば いまここでは その宗教が 一神教の形態をしているということ。ここに 焦点があります。実情は ふたつ・つまりお上主導なるクウキと一神教としての日本教とは互いにつながっているでしょうけれど)。
★ ~~~~
いっぽう日本人クリスチャンにとって洗礼は、「あの人について行く」「あのアイドルでいい」や「あの人を師匠と決めた」というような、選択ではないのか?と思えます。
~~~~~
☆ といったような《自由度》を享受することができるのは じつは 日本教何なに支部に所属しているからこそできるのだ。という一神教の信徒である。のではないでしょうか。
見解を対比することに焦点をしぼっています。チガイがはっきりしてくれればという思いのもとにです。
よろしかったら反論をどうぞ。
No.1
- 回答日時:
1.多神教が宗教であっても、一神教にはなりません。
やはり多神教です。2.多くの神々から成り立つ多神教がまとまっても、それは、唯一神の教えにはなりません。
3.多神教の意見は、神々それぞれ違った意見を言うでしょう。
4.この部分は、神々の秘密に迫るところもあるので難しいですね。
5.幸福の科学の教えが、その寛容性を示しています。海外では、大川総裁の説法を聴いたその日に仏教徒やキリスト教徒が入信したりしています。命の危険を賭けて、イスラム教徒さえも入信しています。(学会の人もいると思います)「今の宗教を捨てないと、幸福の科学の信者にしない!」なんてことはないので、寛容な宗教です。(別の言い方をすれば、ゆるい宗教といえるかもしれません)
※ただし、究極においては、教えのレベルの違いにより、高いほうに集約されていくと思えます。とはいえ、人間は色々ですし、たとえば理系と文系でも考え方に大きな差があります。差があっても文系の妻と理系の夫という組み合わせは成り立つように、抽象論から具体論になっていくと、やはり差異は出てくるでしょうね。
えるゐー4ゆーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
★ 4.この部分は、神々の秘密に迫るところもあるので難しいですね。
☆ ここが大事だと思うのですが どうでしょう?
つまり この《神々の秘密》がどうなっているかによって 《1.2.3.》の問いに対する答えが決まって来る。こう思うのです。
なぜなら じっさいに《1.2.3.》についてのご回答は 理由が示されていません。
ただひとつ理由になるかも知れないと思われるところは
★ 3.多神教の意見は、神々それぞれ違った意見を言うでしょう。
☆ です。けれどもこれは よく読み取れません。読み取れないので ひょっとして理由が述べられているかも知れないというその可能性として ふれておくものなのです。
言いかえると 《神々それぞれ違った意見を言う》にしても その全体としておれたち(神々たち自身)は まとまって 大きくひとつの神として成り立っていると思うし じっさいよそからの攻撃を受けたときとか単純によその神々と相い対するときには オリンピックの競技のときに選手も応援する者たちもまとまるがごとく 《ひとつにまとまる》ものなのだから。
ということだとすれば 反論しえたと考えます。
つまり
★ 4.この部分は、神々の秘密に迫るところもあるので難しいですね。
☆ ここを明らかにして行く過程で 全体としての答えが互いに得られて行くものと思われます。
★ 5.幸福の科学の教えが、その寛容性を示しています。
☆ その理由としては
★ 「今の宗教を捨てないと、幸福の科学の信者にしない!」なんてことはないので、寛容な宗教です。
☆ これは 入信・入会のあり方について述べられています。
ちょっと 理由とするには よわいのではないでしょうか?
なぜなら もしたとえこの入信のときにきわめてきびしく条件を決めてそれを互いに課したりしてやっと入会にこぎつけたといった場合を取り上げるとしても その宗教が《寛容》ではないとは言えないでしょう。そういう問題とは 《寛容》は問題が違うと思うのですが どうでしょう。
すなわち その問題について次のようにおっしゃっています。
★ ※ただし、究極においては、教えのレベルの違いにより、高いほうに集約されていくと思えます。
☆ 質問者としましては これは決して《究極》の寛容問題だとは見ず ふつうの議論になるかとは考えます。すなわち やはりオシエの中身 つまりは 多神教であるにしろ一神教であるにしろ その排他性が問題である。
入会のときの排他性いかんは それだけでは決め手にはならないと考えます。
★ とはいえ、人間は色々ですし、たとえば理系と文系でも考え方に大きな差があります。差があっても文系の妻と理系の夫という組み合わせは成り立つように、抽象論から具体論になっていくと、やはり差異は出てくるでしょうね。
☆ これは こういうことでしょうか? つまり
○ ~~~~~
オシエの中身にかんして・特には排他性をめぐる中身にかんして
《差があっても文系の妻と理系の夫という組み合わせは成り立つように、
抽象論から具体論になっていくと、
〔まさに排他性が止揚されているか・
あるいは逆に唯一神体制であるからには むしろ排他的であらねばならない
と思っているか などなどをめぐって〕
やはり差異は出てくるでしょうね。
~~~~~~~~
ですからいまは これらの前提となる議論をふまえて その中でも《多神教》がどうであるか? これを取り上げています。
質問の趣旨は まさに《4》が問題です。
☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~
4-1. すなわち 多神教の側は――というのははっきり言えば 日本人の日本教を捉えて言っているのですが その八百万の神々を擁する唯一神体制の側からは―― その神々の中に ブッダもヤハヱーもクリストスもアッラーフもあるいは 《無い神》もコミュニストの無神もぜんぶ入っている。
4-2. マジワリをつうじて入って来る神はすべて その多神制の内にひっくるめたかたちで それらが全体としてひとつなる神と成っている。
4-3. つまり 《一神教》ではないのか? その多神体制よりほかには 宗教のかたちはあり得ないとまで思っているとすれば 明らかに一神教ではないか?
~~~~~~~~~~~~~~
ところで この趣旨によって あとは幸福の科学について考えるところを述べることにします。
(あ) 《幸福の科学》も 日本教の一環である。と捉えられる。
(い) ただし いくら多神教と言っても その神の特にオシエにかんしては あまりに常軌を逸しているかどうかの認容基準がある。
(う) 創価学会は そのオシエの排他性および〔かつての〕勧誘の仕方にかんして 許容水準を逸脱していると見られるおそれがあると考えられている。
(え) 幸福の科学は――わたしは申し訳ないといま思ったのですが よく知らないのですが―― 排他性や勧誘の問題には成っていないと思います。
(お) ただし おそらくたとえば《生まれ変わり――輪廻転生でしょうか――》といった考え方がオシエにあるのではないでしょうか?
(か) そうだとしたら 宗教ということの中身が どう言えばよいでしょうか ふざけているし ばかげている。という意味で 早く言えば 相手にされない。
(き) 日本教の一環なのですが コミュニストや学会イストと同じように 言い方がわるいかも知れませんが 異端視されている。(つまり 一環としてふくまれていつつ 排除はされないけれど ちょっとおかしいと見られている)。
(く) 言いかえるなら 《多神教制としてまとまった日本教なる唯一神体制のその中のまたまた部分的な一神教を標榜する支部宗派のごとく見られ扱われている》。
まちがった見方になってしまっているかも分かりません。
こういった情況の中で・また世界との交わりの中で では宗教の寛容とは どういうことになるでしょう?
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