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私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが
宇垣中将や大西中将や他の上級将校たちの終戦の日の行動は調べると解かりましたが、
実際現地で特攻隊員を送り出した現地司令官たちはどうしたのでしょう?
実際約束を守って出撃したのでしょうか?
それとも約束を反故にして戦後恩給をもらい続けたのでしょうか?
解かる人がいればお教え下さい。
学徒動員された人や予科練に志願した多くの人は沖縄の海に眠り
生き残った人も「苦労をかけた]という感謝状一枚もらっただけなのに
実際送り出した司令官は生き延びて、ずっと恩給をもらったというなら
なにかやりきれない気分となります。

A 回答 (4件)

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。

木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「予科練」というのは、今で言うと高校生くらいの「少年」を教育し、下士官搭乗員にする制度です。父上様のような、大学レベルの教育を受けていた方は対象外です。

さて、特攻隊が編成される際は、海軍なら航空艦隊司令長官、陸軍なら航空軍司令長官といった中将クラスの指揮官が出向いたようです。こうした人が、特攻隊員に訓示をします。

また、質問者さんは「現地司令官」と言っておられますが、佐官クラスの「航空隊司令」や「航空隊飛行長」
といった立場で、特攻隊員を選考したり、実際の出撃を指揮したりする将校がいました。また、海軍や陸軍の中央で特攻作戦に関わった将校もいました。

そうした人たちの、敗戦時・戦後の身の処し方を述べます。最初の3名が、敗戦時に自ら死を選んだ人です。

大西瀧治郎 海軍中将:
レイテ沖海戦の際に、第一航空艦隊司令長官として特攻隊を編成し、送り出した。敗戦時には軍令部次長。特攻隊員に詫びる遺書を残して自決。

宇垣纏 海軍中将:
軍令部次長に転じた大西中将の後任のような形で、第五航空艦隊司令長官として、九州から沖縄方面への特攻作戦を指揮。8月15日に「玉音放送」を聞いた後、最後の特攻隊に同乗して戦死。「最後には自分も行くという、特攻隊員への約束を果たした」という擁護意見と、「死なないで済む若者を道連れにした」という批判意見が常にぶつかる。

寺本熊市 陸軍中将:
陸軍航空本部長として敗戦を迎え、玉音放送が放送された8月15日に自決。陸軍では数少ない「知米派」で、高い見識で知られており、寺本中将の自決を知った人は「寺本中将が自決するなら、先に自決しなければならない者がいくらでもいる」と驚いたそうです。
一般に、寺本中将の自決と、陸軍航空特攻の関係が指摘されることはありません。陸軍航空本部長は、陸軍航空隊を「直接に」指揮する職務ではないからです。私見ですが、寺本中将が自決したのは「陸軍航空の特攻について、誰かは責任を取らねばならない」と考えたからではないかと考えます。

富永恭次 陸軍中将:
レイテ沖海戦の後、陸軍の第四航空軍司令官として、特攻隊を編成して送り出した。米軍がルソン島に上陸して自分の身が危なくなると、上級司令部に無断で、部下を置き去りにして飛行機で台湾へ移動。「敵前逃亡」とみなされる行動です。その責を問われて予備役に編入され、即日召集されて、ずっと格下の職である「臨時編成の武器もない師団の師団長」として満洲に送られ、敗戦後にソ連軍の捕虜となる。10年後の1955年に日本に帰還して恩給生活を送り、5年後の1960年に68歳で死去。「帝国陸軍の恥さらし」という意見以外は見た事がないです。

菅原道大 陸軍中将:
1944年12月に第六航空軍司令官となり、敗戦まで、陸軍航空隊の特攻作戦を指揮。長崎県出身ですが、戦後は、埼玉県の飯能で農民となり、養鶏に従事しました。ジャーナリストが取材に行くと「自分はどんなに罵倒されても良い、だけど特攻隊の若者を悪く書かないでくれ」とだけ言い続けたそうです。1983年に95歳で死去。

源田實 海軍大佐:
この人は「特攻の指揮官」ではなく、海軍中央の参謀です。もともと、戦闘機パイロットでした。大西中将が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに赴任する前に、軍令部参謀の源田大佐が、「もはや、飛行機が爆弾を抱いて敵に体当たりするしかない」と全てお膳立てをしていたというのが定説です。源田大佐は、その後、海軍の精鋭を集めた343航空隊司令として防空戦闘を指揮しましたが、この時に部下の飛行長(戦闘機パイロット)と下記の問答をしました。下記は、飛行長の証言によります。ジョークではありません。
源田「ウチの隊も特攻隊を出さねばならないか」
飛行長「分かりました。では、私が特攻隊長となって、海軍兵学校出身の士官搭乗員を引き連れて特攻します。その次は司令が特攻隊長となって残りの者たちを率いて下さい」
源田「・・・慎重に考えよう」
源田は戦後は航空自衛隊に入って航空幕僚長に上り詰め、退官後は参議院議員となり、帝国陸海軍将校として一番幸せな戦後を送った人と言えるでしょうが、「源田さんが、軍令部で特攻を立案したんですね?」という質問には一貫して「ノー」と言い続けました。個人的には、富永と同じくらい卑怯だと思います。

山本栄 海軍大佐:
「最初の特攻」とされる、関行夫大尉の上官(201航空隊司令)。戦後はカソリックに帰依し、伝道生活を送ったが、自分が海軍大佐であったこと、最初の特攻隊を送り出したことは、信者には一切話さなかったそうです。

玉井浅一 海軍大佐:
上記の、201航空隊の副長。のち、航空隊司令として特攻作戦に携わる。戦後は日蓮宗の僧侶になった。特攻隊員の慰霊に尽くしたとされています。

中島正 海軍中佐:
フィリピンや台湾で、航空隊の飛行長、副長として「特攻隊員を選定し、出撃の順番を決める」という、特攻隊員の死ぬ順番を決める仕事に携わる。当時の部下の印象は「軍人と言うより役人のような印象」だったそうです。フィリピンでは、「中島中佐がいる基地には降りるな。降りたら特攻隊にされる」と、搭乗員の間で恐怖を持って騙られたそうです。当時、ある航空基地に着陸した搭乗員は、その航空基地の指揮官の指揮下に入るとされていました。
戦後は航空自衛隊に入り、空将で退官。特攻については何も語らなかったようです。
なお、中島中佐は戦闘機のパイロットであり、太平洋戦争の前半は、「飛行隊長」として、操縦桿を握って数多くの戦闘に参加しています。その頃については、特に悪い評判は聴きません。
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この回答へのお礼

私の父は戦争中のことを口をつぐんでほとんど
話しませんでした。
話したくないとも言ってました。

回答者さんが述べておられるように少尉だったそうです。
飛行予備学生と言う制度があったのですね。
てっきり予科練だと思ってました。
また特攻隊員を選んだのは現地の司令官ではなくて
将校だったんですね。
それも初めて知りました。

父は話したくなく思い出すのも嫌なくらいの戦争だったのに
先の大戦時の苦労を労う内閣総理大臣小泉純一郎
って書いておる賞状をあれほど大切に持っていたのか?
銀河という飛行機は3人乗りでその中に京大出身者がいて
大変優秀な人だったと言っていましたが、一緒に死線を越えた戦友なのに戦後死ぬまで
一度も連絡をとらなかったのは何故か?
戦死した戦友の母親に生きて帰ってきたことを土下座して
謝ったようですが、本当にその母親に謝罪しなければ
ならなかったのは私の父だろうか?
って父の葬儀の後、私の母親と話してました。

お礼日時:2013/06/03 21:55

難しいところですね。

例えば現代にはいわゆるブラック企業というのがあって、若い社員が過労死したり過労自殺したりしています。では、その責任をとって長時間労働を強いたその会社の課長や部長が死んだということがあったかというと、それはないですよね。
しかしその実態は、その会社の管理職といえど「上からいわれていたことを下に強いた」にすぎず、「それをしなければ自分が仕事をさぼっていると厳しい追及を受ける」という現実もあります。

ただ個人的には、「死んだら責任を取った」とする日本の風潮もどうかなと思いますね。ある意味、死ぬって後始末から逃げたともいえるわけですからね。
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この回答へのお礼

そうですね。回答者さんの言われるまさにそのとおりだと
思います。
死んだら責任を取っったと言うのは
どうかとは私も思いますね。
しかし予科練出身で最前線で戦い、まるで鉄砲玉のような
扱いを受けた人が、「苦労をかけた」という賞状を終戦後
50年以上もたってからもらっただけで、
送り出した司令官は恩給を辞退もせずに生涯もらい続け
謝罪もしないと言うのは、やりきれない気持ちになります。

お礼日時:2013/06/02 18:25

昔、日本軍の中にもこの様な畜生同然の糞豚野郎がいた・・!!



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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8% …
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0% …
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(幾つかの戦記物を読んだ中での認識として・・・、自分の中では外道以下の存在である・・!!)

尚、大西海軍中将および宇垣参謀については・・・、
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF% …
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3% …
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(既に確認済みであればご容赦!)
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この回答へのお礼

わかりました。
そうですか。
私の父は戦争体験は言いたくなかったようです。
つらかったようです。
私が父が涙を流したのを見たのは祖父母が亡くなった時と
NHKで特攻隊の特集を見てた時のみです。
戦争が終わって復員した時、戦死した戦友の家族の人から
その時のことを母親に教えてやって欲しいと頼まれたようです。
戦友の母親は八卦見?占い師?から戦友は死んでいない、
南の島で生き残り日本に帰る日を待っていると言われ
戦死を認めないようでした。
終戦近くになると日本の航空基地に対する空襲は
大変激しく、燃料を積んでまさに出撃と言う時に
空襲を受け飛行場は火の海になり、その時戦死したのを
見たと見たとおり伝えると、母親は「なんでそんなデタラメ
を言うのや、もし死んだならなぜお前だけが生きて帰って
来られたんや」って罵倒されたようです。
自分だけが生きて帰ってきたことを土下座して
謝ったようです。
父親は未成年だったのに大学を休学し志願して予科練に入り
前線で国のために命をかけて戦ったと思います。
戦死した母親の前で土下座して謝らなくてはならないのは
父親だったのでしょうか?って思いますよ。

お礼日時:2013/06/02 18:12

回答になりませんが、ご参考に。


私は都内の私立大学に46年間いて、10年前に退職しました。
同窓会の県支部長で野○○さんは特攻隊員が出撃する上空で彼らの動向や結末を見届ける人でした。
特攻の航路の上を濡れ手ぬぐいを口にくわえ(気密性がなにので苦しい)て下方の特攻機の動向をみながら飛行する。
そして帰ってきて命令者の報告する。その特攻命令者のことは存じません。
その話は背筋が寒くなるものでした。
無論、この方は私たちの在職中もご存命でした。
命令者ではありません。まぁこういう役は嫌でしたでしょうが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
嫌だったと思います。

お礼日時:2013/06/02 18:26

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