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社会の歴史の近世についての問題でわからないところがあります。
たくさんあるので、、、どれか1つでもいいので教えてください。
お願いします。

Q、 日本へヨーロッパ人がやってきた背景にはどのような出来事があったのか?

Q、 信長や秀吉による全国統一の結果、どのような社会の土台がつくられたのか?

Q、江戸幕府による国内支配や外国との貿易は、どのようなしくみになっていたか?

Q、大きな戦乱のない世の中になり、人々の生活や文化にはどのような発展があったか?

Q、幕府は社会の変化や財政難に対し、どのような政策を行ったか?

A 回答 (5件)

最後の質問に対する回答



幕府というのは武士階級の政権ですから経済の発展に取り残され困窮する武士階級を
救済しなければなりません。また幕府自身の財政難にも対策しなければなりませんでした。

最初にとられた政策は幕府の財政難に対するもので、
貨幣の改鋳です。つまり金貨や銀貨の品質を低下させその分貨幣の数量を増やすことで
名目上増加した貨幣を幕府の収入にしようとするものです。
その結果物価は高騰し武士階級の困窮はますますひどくなりました。

これを何とかしようとした8代将軍吉宗は改革に乗り出します。いわゆる享保の改革です。
まず質素倹約を命令し高価な商品の流通を抑えました。

また家柄で評価される武士階級から実力のある者を登用するための制度を整備しました。
武士階級も努力すれば収入が増えるという仕組みですね。

品質が悪化した貨幣も元の品質に戻しました。またそれまでは物価高騰の原因になるということで
禁止されていた商人の組合(株仲間)を公認し、特権を認める代わりに
冥加金という一種の税金を取る制度も作りました。

このような改革で有名なのは享保の改革、寛政の改革。天保の改革です。
これらは江戸時代の三大改革と呼ばれています。
共通するのは贅沢を禁止し商人の活動を抑制することで物価を引き下げ
支出の増大に苦しむ武士階級を救済するという発想です。
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この回答へのお礼

そうなんですかー!!

疑問が晴れました!ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/15 11:02

4番目の回答



世界中どこでもそうですが、平和な世の中になると次第に人々は豊かになっていきます。
江戸時代も最初のうちは戦国時代の名残で質素な暮らしでしたが
農村では次第に荒れ地を開拓し灌漑施設を整えることで食料の生産も増加しました。

また質の良い国産の通貨が大量に流通し江戸や大坂といった都市部では商業が栄えます。
商業が栄えると町人が豊かになり、豊かになった町人相手の娯楽や衣食住も発展し
都市文化が栄えます。最初に花開いたのは元禄文化でした。

元禄文化では歌舞伎が勃興し木版印刷による庶民向け書籍の大量出版が始まりました。
さらに商品経済が都市部から農村にまで広がりました。

農村では米以外の特産物を栽培する余力が生まれます。
木綿の生産が増大し養蚕も広がり紅花や藍、菜種、茶といった商品作物の栽培が盛んになります。
山間部では紙や蝋の生産も増えていきました。

豊かになった人々の購買意欲を満たすため手工業も次第に大規模化していきます。
このような経済の発達を一方で支えたのは百姓や町人への教育です。
寺子屋が普及し人々の識字率は世界的にも珍しいほど高いレベルに達しました。

問題は米による年貢以外に収入のない武士階級でした。生活は豊かになり出費も増えるのですが
収入は相変わらず年貢米だけ。武士階級は次第に借金まみれの生活に陥り、
その権威を低下させていきました。
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この回答へのお礼

全部の回答をしていただき、ありがとうございます!!

しかもわかりやすくてほんとに助かりました。


ありがとうございました。

お礼日時:2013/06/15 11:10

3番目の質問に対する回答



おっとその前に2番目の回答について、一言捕捉しますと
平和になって花開いた文化が安土桃山文化です。

では3番目、、、
江戸幕府の国内支配では全国に200以上の藩を置き、統治は各藩に委ねました。
徳川幕府は直接民衆を支配するのではなく、
藩を統治することで間接的に統治する仕組みです。
この仕組みを幕藩体制といいます。

もちろん幕府直轄の領地もあり天領と呼ばれていましたが、そこでは代官が任命されて
直接統治を行いました。
また重要な鉱山や都市は直轄地として奉行などを任命して統治しました。
長崎奉行や佐渡の金山奉行、大坂町奉行などです。

京都は天皇や公家が住んでいますから、幕府に反抗する勢力が朝廷を動かすことのないよう
京都所司代を任命して公家対策に当たらせました。

さて各藩を統治するための仕組みとして参勤交代制度は重要です。
この制度は各藩の藩主の妻や跡継ぎを半ば人質として江戸に住まわせ
藩主は自分の領地と江戸を1年置きに行き来させるものです。
往復の費用、江戸の屋敷の費用など出費を強制して反乱の資金をなくさせる狙いがありました。

各藩が軍資金を溜め込むことの無いよう、いろいろな工事を命令して
経費を負担させることもよくありました。国替えを命令されたり、
幕府に反抗的な藩は取りつぶされることもありました。

外国との交易は長崎だけに限定しました。日本人の外国への渡航も禁止しました。
これを鎖国といいます。西欧との貿易は特に厳重に行われ
出島という人工の小さな扇型の島を長崎に築きオランダに限って貿易を許可しました。
貿易の重要品目は銀や銅の輸出と江戸時代前期の中国からの生糸の輸入でしたが、
生糸の輸入には糸割符仲間という組合組織を認可して価格決定権を与え
価格高騰を防止させています。

簡単ですが、このくらいでどうでしょう?
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2番目の質問への回答


信長秀吉による天下統一の結果何が起きたかというと、

まず勝手に戦いを仕掛けて領土を広げることができなくなりました。
つまり領土は奪い取るものではなく、
信長や秀吉といった天下人からもらうものになったわけです。
勝手なことをしたら天下人に反逆することになりますね。
平和な時代が訪れて文化が発展することになりました。

次に国内での交易が容易になりました。
銭の交換比率が全国で統一されましたし、
重さや長さ広さ体積といった度量衡も日本中で統一されたためです。
また勝手に通行税を取られることもなくなりました。

さらに身分が固定化されました。戦争に行く兵士と戦争に行かなくてよい農民とを
分けることを兵農分離といいますが信長はそういった仕組みを推し進めましたし
秀吉はさらに刀狩といって戦う必要のない農民から武器を取り上げることで
身分を分けました。このあと明治維新まで身分制度が続くことになりました。

簡単にいうとこのくらいだろうと思います。
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最初の質問への回答



ヨーロッパ人が日本というかアジアまでやってきた理由はいろいろあるんですが
一番大きな理由はアジアの香辛料を獲得するためです。

ヨーロッパ人は肉料理が好きです。肉料理というと胡椒やナッツメグといった
香辛料がつきものです。こういう香辛料はほとんどがアジア原産なんです。

ところが世界地図を見ると今もそうですがアジアとヨーロッパの間にあるのは
イスラムの国々でしょう。イスラムのお世話にならないと香辛料が手に入らないんです。

おまけにイスラム教徒とキリスト教徒は昔から仲が悪い。
というわけでイスラムの商人は高い値段を吹っ掛けるんです。
胡椒1グラムが金1グラムなんて無茶なことを言い出します。

そんな無茶をいうんだったらイスラムの国々を通らずに直接アジアへ行って香辛料を
買ったほうが良いですよね。

そうしてとうとうヨーロッパ人はアフリカの南を回れば
アジアへ行けることを発見したんです。
やがてバスコ・ダ・ガマがインドへの航路を見つけます。

アジアとの貿易は儲かることがわかるとヨーロッパ人、
特にポルトガル人ははどんどんアジアへ進出してきました。

そうなると次にはイエズス会の布教が始まります。
イエズス会はカトリック教会に属していますが、
当時カトリック教会は宗教改革の後、新教徒に圧迫され
負けてしまいそうな有様でした。

イエズス会はアフリカやアジアに
布教して信徒を増やし、形勢を挽回しようとしました。
特に中国は昔から人口が多かったし豊かでしたから
何とか布教しようと頑張ったみたいですよ。
フランシスコ・ザビエルも最終目的は中国への布教だったらしいです。

イエズス会の布教が進むと
今度は本国の国王はもっと利益を得ようとして
布教の進んだ地域を植民地として獲得しようとします。

以上のような段階を踏んでヨーロッパ人はアジアに進出してきました。
日本へやってきたのも、アジアへの進出の一環ということになりますね。
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この回答へのお礼

すごくわかりやすいです。

ありがとうございます!!

お礼日時:2013/06/15 11:05

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