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幕末で有名なのは新撰組だと思うのですが、新撰組監察方の山崎丞は、敵を探ったり…密偵のイメージがあります。

新撰組の敵?であった長州藩にもその密偵的な役割の人はいたのでしょうか?

居たとしたら何という方ですか?教えてください

A 回答 (3件)

こんばんは



商人ルートが考えられます。商人は米相場などの連絡のために広範囲の連絡網を持っていました。海運業者や飛脚屋と契約して定期的に通報しあっていました。このルートで各地の風説を交換し合っていたのです。大商人はあちこちの藩の年貢米を扱ったり、掛屋(現在の銀行に相当)をしていたので藩の役人とも親しくかなりシビアな情報まで入手しています。
このルートに関係した人物としては、
高崎善兵衛(薩摩)、白石正一郎(長州)、三宅高幸(備中)、梅田雲浜(京都)、平野国臣などがいますが、当然彼らの取引先は数多くいたわけですから情報の収集力、伝達力は驚異的でした。

#1の方は森寛斎を挙げておられますが、この人は幕末から明治初期に備中下津井にいました。下津井は瀬戸内海航路の重要港で、ここには長州藩の連絡所とでもいうべきものがありました。
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/higeki/shimotsu … にある赤星家には隠し部屋があって長州から来た武士が住んでいました。この”武士”が森寛斎だったかどうかは不明ですが、情報収集や志士の支援をしていたと思われます。

長州奇兵隊に情報をもたらしていた人物に井上文郁(あやか)がいます。前名を植田有年、また上田宗平ともいい、備中倉敷の生れ。讃岐榎井村(金毘羅様の門前)の井上家に養子に入り医者を開業します。近所に住む大親分で高杉晋作を保護したことでも有名な日柳燕石(くさなぎ・えんせき)や讃岐の勤皇家・小橋安蔵一族とも親しくしています。この日柳・小橋グループは松平左近(高松藩主の兄)とも親しくしています。
文郁は元治元年11月、身辺が危うくなったため讃岐を出奔します。以後の足取りは各地の志士の間を往来していたという程度しかわかりません。しかし慶応元年4~5月頃には何度も大坂・京都方面からの情報をもたらせたことが「奇兵隊日記」にあります。第二次長州征伐直前の頃です。日記からは長州はかなり厚遇していた様子が窺えます。また文郁の実兄・植田亮哉は幕府大目付戸川安愛(備中帯江戸川家)に仕えていますから幕府からの情報も入手できた可能性も考えられます。
下津井は倉敷と讃岐を結ぶルート上にありますから森寛斎とも赤星家にいた武士とも接触はあったはずですがその記録はありません。極秘の活動ですからそれは当然というべきでしょう。
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この回答へのお礼

詳しくありがとうございます!
商人ルートがあったのですね!
初めて知りました。
それにこんなに沢山名前をあげてもらえるとは思いませんでした
自分で調べてもなかなかわからなかったので…
調べ足りなかったのかな;笑笑
勉強になりました、ありがとうございます!

お礼日時:2013/07/10 01:17

新撰組の中にも長州の密偵は多数入り込んでいました。



土方は、密偵と知りながらわざと新撰組に入れたままにして、彼らに嘘の情報を流して

長州の反応をみていたようです。
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この回答へのお礼

そうだったんですか!
それは初耳でした。
嘘の情報を流していたなんて(笑)
回答ありがとうございました☆

お礼日時:2013/07/10 01:14

森寛斎という画家は有名です。

文化11年生れですから幕末の慶応頃には50歳過ぎでしょうね。

石田という長州藩士の子でしたが大阪へ出て森徹山という円山派の画家に弟子入りしました。

幕末には長州藩のために活動しています。明治27年まで生きていますが、

絵のほうも後に帝室技芸員になっています。京都画壇の重鎮だったらしいです。

この人のことは神石要という作家が本にしています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました☆
長州藩の密偵を調べたときその画家がヒットしたので「どうして画家が?」と思っていたのですが詳しく調べていなかったのですっきりしました!
ありがとうございます

お礼日時:2013/07/10 01:12

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