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伊達正宗に就いてです。朝鮮出兵で、岩出山城から京都の伊達屋敷に向かい、そして、京都留守部隊以外は、名護屋城に行ったと思うのですが、移動手段はどのようなものだったのでしょうか?陸路だけだったのでしょうか?海路を使った場合、どこからどこまで使ったのか教えて下さい。

A 回答 (3件)

伊達政宗の移動についての資料を見つけることはできませんでしたが


おそらく大部分の兵員は陸路を通って移動したものと思います。

と言いますのは、当時豊臣家は各大名に船を作らせ水夫を供出させていますし、
有力な海運業者や海賊衆からも船と水夫を供出させています。そういう記録は沢山あるんです。

ところがそういった海賊衆や海運業者に対して兵糧米や武器を運ばせたとの記述は多いのですが
名護屋まで兵員を運ばせたという記録は少ないのです。

私自身が塩飽衆の末裔になるんですが、兵糧米の輸送に従事したとは聞いていますが
具体的に兵員を輸送したといった話はあまり聞いていません。

どうやら当時瀬戸内海の海運は米などの物資輸送が主であって人の輸送は少なかったようです。

江戸時代でも瀬戸内海航路の船は夜間は入港するか沖で停泊していますから
当時肥前まで船で行こうとすると、やはり10日位かかったことでしょう。

10日間かけて兵員を大量輸送しようとすると、ある程度船内で生活できるだけの設備を備えた
兵員輸送用の船が必要になりますが、そういう兵員輸送用の船は多くなかったのものと思います。

村上水軍などの使った船の種類を見ても兵員や兵糧や物資の輸送に使ったという船は
単に「荷船」となっているのみで、特に兵員輸送用の船を使ったとは聞いておりません。

兵員輸送用の船があったとしても少数だろうと思いますし、
荷船に兵員を乗せたとしても短時日の輸送が限界でしょう。

実際名護屋から朝鮮半島へ兵員を送り込む方が(朝鮮沿海部は別にして)暗礁や潮流変化の激しい
瀬戸内海航路より話が早かっただろうと思います。

この回答への補足

なるほど、「船内で10日ほど生活できる設備を持った船」ですか。戦闘員の移動に使えるのは、一部の船舶だけだったんですね。

補足日時:2013/07/18 03:07
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伊達政宗は何人位派兵したんでしょうか?


余りにも清正公が有名で政宗公は軍出してたとはチットモ恥ずかしい限りです。

で独眼竜政宗の独眼に新設が有るんですが―、一般には幼少時に怪我か何かで片目潰したが定説では有るかと思いますが現実には両目何処も悪く無い説で時の絶対権力者や敵対大名等の為に片目と偽って隠してた説が有ります。

政宗は本妻の長子では無く外国人妾腹説で多い目の外国人とのハーフで片目が黒目でみーもう片目がブルーの目として生を受けた説が有力で正式の場に出る時は片目を塞いで独眼竜にして身内.親しい家来等の前では眼帯外してリラックスしてた文献が見られる用なんですがーーー。

ハーフで目の色が左右違って生まれて来るは私は知りませんが確立では10万分の一位で生を受ける様な統計が有るようたですね、猫何かは案外左右の色が違う猫が直ぐ見つかる様ですね。
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陸路だと思いますが、


正宗ではなく『政宗』です。
『正宗』は名刀の名前です。
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