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ウィキペディアの「ベトナム8月革命」の項目を見ますと以下の記述があります。


「1945年7月に開かれたポツダム会議でインドシナの処理は決まっていた。北緯16度線を境に北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除し、フランス軍に引き継ぐというものである」

ホーチミンは独立を宣言する前からこのことを知っていたんでしょうか? それとも「なんで、いきなり中華民国とイギリスの軍隊が南北から攻めてくるんだ!?」という寝耳に水という感じだったんでしょうか? ご存知の方、ご教示いただきたく宜しくお願いいたします。

また、こういったインドシナ戦争開戦前夜の状況がわかる良書があればご紹介いただけませんでしょうか。

A 回答 (2件)

  1945年七月、連合軍はポツダム会議で「ベトナムを支配している日本軍を追い出したあとのこと」について話し合った。



 暫定措置としてフランスに代わってイギリスと中華民国の軍隊をインドシナに派遣する。

 ベトナムを北緯16度で分割し、日本軍を武装解除し、連合国捕虜を解放する。


※ポツダムに行かなかった、重慶の蒋介石に派兵要請が、なされた。
このことは、重慶に潜伏していた中国共産党の工作員の手で延安に伝わり、
毛沢東から
ホーチミンに伝わった。ホーチミンは、蒋介石と水面下で接触し、このことを
ベトナム民族自決の確立のために、利用した。


 かつてインドシナ半島を支配していたフランスは結果的には戦勝国とはなったものの実際は、ドイツのヒットラーの軍隊に占領され、亡命政府がイギリスにつくられ、レジスタンスを行って来たような状況で戦闘能力を大きく欠いていた。したがって、日本軍を武装解除して連合軍の捕虜を解放する能力を持ち合わせていなかった。そこで、フランスに代わって二つの外国の軍隊が進駐するという変則な状態が生じた。これはかつての植民地支配者フランスの弱さをインドシナの人々に強く印象づけた。

 ベトナムを分断担当した二つの外国勢力は、自国の思惑により、対応が全く異なった。イギリスは、植民地主義者仲間として連合国フランスに同情的であったので、イギリス東南アジア司令部は全く暫定的なものとして接収統治を行った。  フランスの復帰を期待してその通り実行した。

 一方、中華民国はフランスに同情する理由はどこにもなかった。したがって、ホー・チ・ミンを主席とする全ベトナム民主解放委員会の共産主義勢力を承知の上で協力し、フランスの復帰には消極的であった。そこで、中華民国の同情下にホー・チ・ミン勢力は終戦後の全国民総蜂起、すなわち「八月革命」によって、
勢力を拡大し、九月二日には、ハノイで開かれた大集会で
パオダイ帝のベトナム帝国から、代わる新しい共和国の独立宣言を行った。

 一斉蜂起はハノイのみならずフエ、サイゴンにまでおよんだ。中華民国は、ベトナムの北半分についてもともと中国の藩属国であり、清仏戦争(1884~85)の結果、フランスに強奪された記憶がある。そこでフランスの北部ベトナム統治権返還の要求に対し、1946年2月20日、中仏協定を重慶で結び次の代償を要求し、これを通して北部から撤退した。

 その内容とは「中華民国に対するフランスの一切の治外法権と租界の放棄、

『ハイフォン-昆明鉄道』輸送の中国商品への関税と通過税の免除、同鉄道の中国部分の所有権と経営権の譲渡、ハイフォン港の自由港化、在インドシナ華僑の地位向上など」であった。

 
 
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、ありがとうございました。

具体的なご説明で大変よくわかりました。

お礼日時:2013/09/25 07:40

ベトナム独立の影に日本の力があったことを忘れてはいけません


日本の進駐軍が独立義勇軍を組織したからインドシナは独立できたのです
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、ありがとうございました。

お礼日時:2013/09/25 07:39

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