プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。
まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。
論理について何か思うところを書いてください。
参考にします。


お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。
そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。
人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。
それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。
神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。
宗教と言う社会活動はそのような意味がある。
神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。
そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。
いわゆる仏陀の悟りである。
2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。
このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。
世界中見渡しても、同じことをしている。
その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。

お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。
彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。
それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった
無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。
他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。

お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。
彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。
それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。

そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。
お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。
そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。
等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。

すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い)
自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある)


この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。
無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。
それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。
そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。
仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。

お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。
しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。
そういう意味である。

A 回答 (3件)

>論理について何か思うところを書いてください。


>参考にします。

 その親切が存在するのに無を語り、言葉は無いと語る矛盾。
 
 論理について質問し、その矛盾に文句があっかとお礼する論理が 親切 なんですね。

 恐れ入ります。

この回答への補足

君の信仰は神を語っていない無だ。
私の信仰は神を語らない事にある。

どちらにしても無である。
その一切無が釈迦の悟りだ。

しかしだ、釈迦は聖職者として神を明らかにする事を求められていたはずだが、語らない事をあえて語れと無理強いされるばかりでなく、今回の私の動物虐待の様に、積極的に、問う者にこそ「お前の神を明らかにして見せよ」といったかもしれない。
そして、「ほら見ろやはり無ではないか」こういう意地悪をしただろう。
釈迦の無の悟りとは、なんとなく無をひらめいただけの事で、理性的な哲学の完成は、今ここで私が行ったのだ。

補足日時:2013/09/06 21:55
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この回答へのお礼

物は試しに、
お前の神を明らかにして見せよ。

お礼日時:2013/09/04 21:12

導入部→いつの時代でも、人々はそうなのです。


ヒンズー教の源流を司る修行僧→2500年前は、ヒンズー教の黎明期であったという確証はどこにもありません。
釈迦独自の無の信仰であった→釈迦が開いた悟りが信仰であったいう確証はどこにもありません。
お釈迦様の、無の悟りとはこのようである→釈迦が開いた悟りが無の悟りであったいう確証はどこにもありません。
語る言葉に関しては一切ないという...それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。
→「黙して語らず」(実はある)」。これを悟られたのでしょうか。日本にも、釈迦だらけになりすまが。

整えられた文章ですが、ビジネスマンの世界では、こういう言葉があります。「プレゼンは100点だ。○○○○がない」。
ジャータカという美しい詩がありますので、私は、このきれいに整えられた文章は要らないのでと、思います。

この回答への補足

お礼が削除されたので改めるよ。
運営者さん、いつもいつもご心配かけますねー。

レッツチチをもげダンスだ
http://okwave.jp/qa/q7541665.html
確証がないと言っているがね、
俺様は正しい。
したがって俺様の言う事は正しい。
コレが確証だ。

日本中お釈迦様だらけになってもいいんでないかい。
そもそも私の哲学は君達に対する救いの哲学だ。
無の悟りはコレで理解可能だと君は証言しているのだよ。

ところで生産性の発揮と創造性の発揮の分別は付いているかな。
ここで出てくる創造性の発揮は、知性でなく感性と名付けられた心に由来するもので、その心をもって我はあるとすればよい。
ところが君達は時給と勤務時間にしか関心がないね。
その創造性のない無駄な仕事はあり方迷惑な奴隷労働だ。

補足日時:2013/09/06 20:18
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この回答へのお礼

お礼日時:2013/09/04 21:11

>しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。



 あれま、どうして語っちゃったのよ。

この回答への補足

暇なんでつまらん手直しをしたよ。

お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。

お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、彼は無ではなく神と共に確かに存在する。

こうだよ。
私は伝承に語られる弥勒菩薩そのものなんでな。
彼の言葉よりも、私の悟りを語ったつもりが強くて、不親切な言い回しになった。

補足日時:2013/09/04 22:12
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この回答へのお礼

俺のことか。
親切からだよ。
文句あっか。

お礼日時:2013/09/04 02:12

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