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願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ

という歌にとても心惹かれるものがあります。
たしか西行法師の作であったと記憶しております。

この歌に出てくる「花」とは何の花なのでしょうか?
今まで何となく桜だと思っていましたが、桜が日本人にとって最も代表的な花となったのは、もっと後の時代ではないでしょうか。西行法師の時代は「花」と言えば梅だったのではないかと思います。

そこで、月齢と旧暦の日付を調べてみたところ、今年は旧暦の2月の満月の日は新暦4月7日(旧暦2月17日、月齢15.36)でした。
となると、「花」はやはり桜なのでしょうか?

もう一つ、質問です。
「花は桜木、人は武士」という言葉が示すように、潔く散る桜を人の死と結びつける思想は、江戸時代の出てきたものと思っていました。しかし、この歌の「花」が桜であるとすれば、西行法師の時代に、すでに、桜を人の死と結びつける思想の源流があったと考えてよいでしょうか?

A 回答 (7件)

まず、古文で「花」と出てきたら、奈良時代の一時期を除いて、桜のことと考えてよいと思います。



万葉集でいう「はな」が何を指しているかは、詠まれた数の多さから梅である説、あるいは、当時はまだ貴族社会の一部にしかひろまっていなかったため、桜であるという説など諸説あります。

奈良時代に中国から梅が入ってきた梅は、当時の貴族文化の中では主流になったのですが、外来文化の象徴でもあった梅に対し、古来から生活とともにあり、また民間信仰の対象でもあった桜は、平安時代が進むに連れて、ふたたび主流になっていったようです。
そうして947年には宮中の庭の正面に植えられていた「右近の橘左近の梅」の梅が桜に植え替えられたことなどにもあきらかなように、平安後期以降は、花といえば桜をさすようになります。

ご質問の西行の歌は、1190年のものですから、時期的にも桜であることに間違いはありません。

桜は古来から日本の民間信仰と深く結びついていました。
古事記や日本書紀にも登場する木花咲耶姫(このはなさくやひめ)、この神は春の女神で豊穣をもたらすとされたのですが、桜の木はこの神の依り代とされました。

桜の開花に農作業が始まる時期を知り、その年の開花に作柄を占った。
こうして桜は農作業と深く結びつきつつ、信仰の対象でもあったのです。
桜の大木の下は一種の聖域となり、豊穣を祈るためのさまざまな儀礼や宴が、年中行事となっていき、今日に至るまで続いています。

一方で、桜に対する見方も時代によって少しずつ変わります。
平安末期には無常観とも結びついていき、さらに時代が下れば、能や歌舞伎での異世界や狂気にも通じていく。
質問者さんが上げられている、仮名手本忠臣蔵の詞は確かに江戸時代のものですが、桜はそれよりはるかに古来から、人々の生活に結びついており、それゆえに、さまざまに解釈されてきた歴史があります。

ここらへんの見方の推移は『ねじ曲げられた桜 ― 美意識と軍国主義 ―』(大貫美恵子 岩波書店)に詳しいので、もし興味がおありでしたら、ご一読ください。

ただ、西行のこの歌は、やはり西行個人の信仰と無関係にとらえることはできないでしょう。

>その如月の望月のころ

とは、釈尊が涅槃に入った(亡くなられた)とされる二月十五日のことです。

「これは死に臨んでの作ではない。死を目前にして西行がこう歌ったのではない。…しかしおそらく六十歳代の半ばごろ、死もいつかはやって来る、もうそれほど遠くはないかもしれぬと思うにいたった老西行が、おのれの死をこういう言葉で表現し、こういう情景の中に見つめ、希求していたことは間違いなく読みとりうるのである」(『西行』高橋英夫 岩波新書)

この本は、西行の生涯だけでなく、さまざまな西行伝説や、西行と芭蕉の関わりなどにもふれられていて、大変おもしろかったです。

以上、なんらかの参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。ごめんなさい。m(__)m

ある時代までは梅、それ以後は桜、と簡単に分けられるものではないということですね。
そう言われてみれば、なるほどと思います。

如月の望月の頃と言えば、ちょうと今頃なんですね。
この季節に死にたいと詠った西行法師の心の中に、桜の美しさへの思いだけでなく、釈尊の涅槃にあやかりたいという思いがあったというのは、不学にして知りませんでした。

逆馬の故事で知られる熊谷次郎直実(蓮生房)などもそうですが、西行にも仏道への一途な思いが感じられます。武士を捨てて出家した彼らのほうが、むしろ武士以上に武士らしかったと言えるのではないでしょうか。

ご紹介くださった文献、ぜひ読んでみたいと思います。
詳しいご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2004/04/17 01:54

宮中南庭に植えられていた梅がいつ桜になったかは諸説あるようですが、遅くとも西暦961年のこと。

このことで象徴されるように、平安後期以降は「花」といえば「さくら」のこと、さくらといえば「山桜」のこと、と見なしていいようです。

したがって平安末~鎌倉期の西行のころは山桜、と言い切りたいところですが、当時は「しだれざくら」が愛でられていたらしく、なんとも言えなく、悩ましいところです。ただ、西行の歌が群生する桜ではなく、一本の老桜こそふさわしいとは言えそうですね。

このように桜と死とは結びつきやすいと想像しがちだけれども、案外これは近代の産物。
桜の樹の下に屍体は埋まっていないし、いても凄絶に咲き狂う桜花の木下闇から現れる桜鬼くらい。

桜は美しいからこそ貴族に受け入れられたのであり、その生命のかがやきが女性の比喩ともなったのです。かくして木花開耶姫(このはなさくやひめ)も衣通姫(そとおりひめ)も桜の精だったということになり、また、当の女性たちもみずからを桜と一体となって生きたに違いありません。ここには死のイメージはありません。

もちろん、桜を見て死別した肉親を思う歌は作られましたが、これは触発された死のイメージというよりは人の情というもの。さくらはこぞことしを思いやすい属性があります。

「花は桜木、人は武士」は『仮名手本忠臣蔵』のせりふ。桜はまず文芸に、それから絵巻物に、そして陶芸や染物のあと、演劇に効果的に取り入れられました。けれどもここでも死は意匠であり効果であり、演劇上のあしらいであると言えると思います。
たとえば今でもドラマや映画などで浅野内匠頭の切腹の場面では、なぜか必ず桜がはらはら舞うことになってますが、壮絶な死というよりは物語の美的な発端という役割。

死が思想として捉えられるようになったのはやはり明治以降と判断せざるを得ません。いさぎよさ、男の美学、それらは皆さくらがイデオロギーの花と化してからです。それまでの伝統とは相容れない性質のものです。
たぶんそれは本居宣長の「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」あたりが淵源となっているのでしょう。この江戸期の巨大な国学者は詩心の欠如ということでも突出していたのではないかと思われますが、それはさておき、文明開化後の富国強兵、排外主義、国粋化のよりどころとされたようです。国家に奉仕するものとしての死。その称揚。ヒロイズム。エロス。死の美学。

「夜/さくらは天にむかつて散つていく」と詩人(片岡文雄)は歌います。観念でなく、実際に見ているからこんなに美しく歌えるのです。内面の情念や甘美な死を桜に託した文芸家の活動は、この国家の意図とはまったく別のものです。彼らは近代の表現法の獲得者という栄誉を担う人々です。どうかいっしょくたになさいませんように。

以上、近刊『桜の文学史』(小川和佑著:文春新書)に寄りかかって回答しました。委曲が尽くせず抜けも多く、土俗信仰や民俗にも触れていません。
美しいものを花という。けれども、桜は花であることを超えた何かです。

追記:われわれが普通にイメージする桜は今では「染井吉野」ですが、これは江戸末期に現れた新種。偶然が作り出したいわゆる里桜です。これが若葉の芽立ちより先に開花するのにひきかえ、山桜は花と赤みを帯びた葉が一緒に出ます。

この回答への補足

締め切りにあたり、回答を下さった皆様に改めてお礼申し上げます。
一部の方へのお礼と締め切りが大変遅くなり、失礼いたしました。
「桜」の一言だけでも答えになるような質問だったにも関わらず、参考サイト・文献のご紹介や、皆様の深い学識・文化観に裏打ちされたご解説をいただき、大変参考になりました。
ありがとうございました。

補足日時:2004/04/30 16:33
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなってしまいました。ごめんなさい。

>平安後期以降は「花」といえば「さくら」のこと、さくらといえば「山桜」のこと、と見なしていいようです
>当時は「しだれざくら」が愛でられていたらしく、なんとも言えなく、悩ましいところです

やっぱり桜ですね。桜と言うと、現在人はどうしても染井吉野を思い浮かべてしまいますが、当時は桜と言えば山桜だったんですね。
しかも、しだれ桜の可能性もあるということで、さらに新しい疑問が出てきてしまいました。

>死が思想として捉えられるようになったのはやはり明治以降と判断せざるを得ません。いさぎよさ、男の美学、それらは皆さくらがイデオロギーの花と化してからです。それまでの伝統とは相容れない性質のものです。

この点はたしかに見落としがちですね。この質問をしてから、西行や桜についての文献を何冊か読んでみて、そう感じました。桜の美しさをイデオロギーに利用することは不純なことであるけれど、しかしまた、それに騙されやすいこともたしかなようです。
西行の桜への思いは、もっと純粋なものだったんですね。
イデオロギー化されていないからこそ、西行の桜への憧憬には、かえって鎌倉武士らしい一途さを感じます。

とても参考になりました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/04/30 16:26

読んだのがはるかな昔で記憶があやふやなので(^_^;)、今ひとつ確実性はないかもしれませんが、おおざっぱにいって万葉時代は花と言えば梅、古今、新古今の時代はおおむね桜、というのを読んだことがあります。


尤もこれは絶対にそうだったというわけじゃなくて、万葉集でも桜を詠んだ歌はありますし、古今集、新古今でも「花」で梅を指している歌はあります。梅好みから桜好みへの変化はゆったりしたもので、あまり線引きにこだわらない方がいいのではないでしょうか。正確なところは歌毎の個別対応が安全でしょう。

それを踏まえて、梅→桜のおおざっぱなところの移行は、私見ですが、おそらく国風文化隆盛あたりが時期的に合うんじゃないでしょうかねえ。
梅がもてはやされたのはその清冽な香りもさることながら、当時の”カッコイイ”外国であるところの中国の匂いがしていたからでしょう。その梅の良さは良さとして、昔から見慣れた桜もいいな、と気付き始めたというのは平仄が合うんじゃないでしょうかね?遣唐使廃止後のいわゆる”和風”の時代の感覚として。

さて西行さんですが、この歌の「花」は桜です。彼は桜が大好きだったんですよ。
梅の花ももちろん詠んでいますが、桜にべたぼれです。ご存知かと思いますが、桜の名所である吉野に庵を結んでしまったくらいです。けっこうな山の中で、わたしは「こんなところでは暮らせん!」と思いました(^_^;)。
山家集には、桜の歌が山ほどあります。

たぐいなき花をし枝に咲かすれば櫻にならぶ木ぞなかりける

花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら櫻の咎にはありける

これが名歌!だとは思いませんが、桜賛美はよくわかりますね。
(上記は平仮名を漢字に変えた部分があります)

山家集、もうお読みかもしれませんが、他にも良い歌が沢山あります。まだ未読でしたら是非どうぞ。

>西行法師の時代に、すでに、桜を人の死と結びつける思想の源流があったと考えてよいでしょうか?
ここですけれど……これは言い方によってどちらも言えると思います。
「花は桜木、人は武士」と言っちゃうと、ちょっと違うような気がします。「潔さ」がこの言葉ではクローズアップされていますよね?
平安の昔からたしかに散り際の美しさが桜の美の大きなポイントでしたが、その華やかな散り方を愛でられると共に、クローズアップされていたのは「惜しさ(愛おしさ)」なのではないでしょうか。(「潔さ」を全く含まないものではないとは思いますが)
なので、やっぱり平安と江戸の意識はかなり違うだろうと思わざるを得ない。
しかし武士を引き合いに出さずに「人の死と結びつける」ということで言えば、散る桜と人の死が心情的に結びつくのは容易だと思います。

深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染めに咲け
               (古今集・上野岑雄)

このあたりからも繋がるものを感じることが出来るような……。やっぱりここには散る桜の風景が浮かんで来ると思いませんか。

以上のようなところで失礼します。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。ごめんなさい。

前の方へのお礼にも書きましたが、ある時代までは梅、それ以後は桜、という考えに、こだわりすぎていたようです。
やはり桜を愛でる風習も、古くからあったのですね。

>しかし武士を引き合いに出さずに「人の死と結びつける」ということで言えば、散る桜と人の死が心情的に結びつくのは容易だと思います

ここがポイントですね。西行さんの時代にも、桜は死と結びつけて意識されていた、しかし、それは江戸時代のように武士道と結びついたものではない、ということでしょうか。

桜の潔い散り際を愛でる心は、教条化された武士道を叩き込まれた江戸時代の武士たちよりも、墨染めを纏った西行法師のほうが、むしろ純粋で、激しいものがあったようにも思えます。

この時代の人で、もう一人気になる人が、逆馬の故事で知られる熊谷次郎直実、改め蓮生房です。
関東下向の際、西方浄土に背を向けてはいけないと、後ろ向きに馬に乗ったという人です。
鎌倉武士の気骨を、仏門に入ってもそのままに、いやむしろいっそう激しくもち続けたという点で、西行法師と連生房には、一脈通ずるものを感じます。

たくさんの歌をご紹介いただきました。恥ずかしながら、どの歌も知らなかったものばかりでした。
山家集は、後でゆっくり読んでみたいと思います。
いつもながらalcheraさんの博識ぶりに、感嘆しております。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/04/19 18:32

こんばんは。



桜であれば、山桜ですね。
私たちがお弁当を持って見に行くのはほとんどが染井吉野(ソメイヨシノ)という品種で、わりあい近年になって大量に植樹された物です。

昔は桜とは山桜でした。
染井吉野より1週間から十日ほど遅く開花します。また、染井吉野と違って、花と葉が同時に出ます。
染井吉野とは一味違う、わずかな渋さがあります。うちの近所に大木があるのですが、美しいんですよ。
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この回答へのお礼

山桜ですか!
染井吉野と山桜の違いは、考えもしませんでした。
今は桜と言えば染井吉野が代表種になってしまっていますが、これは意外にも新しい種類なんですね。
山桜と染井吉野は、色合いも咲く時期も、微妙に違うんですね。桜と聞くと、つい染井吉野を想像してしまいますが、西行法師の「桜」は山桜だった・・・そう思ってこの歌を読んでみると、また違った味わいがありますね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/04/10 01:50

桜で正解だと思います。



http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/shisoro/ …
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この回答へのお礼

ご紹介くださったサイト、とても興味深く読ませていただきましt。
西行法師は、歌に詠んだ通りのことを実行したのですね! これは知りませんでした。すごいことですね。
きっと、満足な最期だったでしょうね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/04/10 01:39

この歌の花は桜です。


たしかに「花見」といえば最初のころは梅をさしたようですが、桜を愛でる風俗がなかったわけではありません。
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(在原業平)
「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」(紀友則)
など、桜を歌った歌も、古くからあります。
香りを楽しむ梅とはまたちがった風情を楽しんでいたのでしょう。

桜の散り際を武士の潔さと結びつけたのは江戸時代になってからのようですが、西行のこれは、べつに武士らしい心得を歌ったものではありません。
桜の散る風情を純粋に美しいと賛美し、風雅の極みを追求しようとしているのでしょう。
ただし、散り際を愛でるという意味で、いくぶん死の匂いがあることは確かかもしれませんね。
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この回答へのお礼

やはり桜なんですね。

引用してくださった在原業平と紀友則の歌、たしかに高校の教科書に出ていましたね。はるか昔のことで、すっかり忘れていました。

>西行のこれは、べつに武士らしい心得を歌ったものではありません。

そうですね。しかし、西行という人は、武士を捨てて仏門に入った人でありながら、武士よりも武士らしい一面があったように思えてならないのです。
純粋に風雅の極みを求める心に、ほんの少しだけ死への憧れが垣間見えるところに、この歌の妙味があるような気がします。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/04/10 01:32

やはり桜であるとおもいます。


「西行桜」という言葉もありますし。
京都には西行の庵「桜元庵」跡がありますし。
答えになってませんね。
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この回答へのお礼

>答えになってませんね

とんでもありません。答えになっています!
やはり桜ですか。桜が日本人にとって代表的な花になったのは、意外に古いんですね。
「桜元庵」跡という所があるのですね。機会があったら行ってみたいと思います。
早速のご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2004/04/08 19:56

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