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私はキリスト教のクリスチャンです。神様について教えてください。キリスト教の神様と日本の昔からある神々、太陽神の神様の違いはありますか?分かる方いれば教えてください。

A 回答 (7件)

よく判らない。


特にキリスト教詳しくないからよく判らない。

でも私の感覚での日本の昔からの神様について思う事を参考までに

自分が生まれた時に既にある って事では一緒だと思う。
でも選ぶって事が無いような?
生まれた、住んでる で自動的に神様がある。 信徒になる儀式が無い・・・あ、日本の神様に対しては信者か?氏子?
お宮参りはあっても必ずしもする必要が無い。
自動的にいつの間にか権利?を取得。


苦しい時の神頼み や 神社でのろいをしたり、感謝をしたり・・・
神様に和魂、荒魂と2面がある
神様が自然そのものだから、同じ雨でも恵みをもたらしたり、災害を起こしたりする
人間は一緒に居る・・・違うな、中にいて それで崇めたり、畏れたり、憎んだり、取引をしようとしたり・・・中にいながら一緒に踊ってるような感じと言うか 必ずしも従わないとならない相手とみてないような気がする

もちろん、そんなこと言ったら不敬だよ。
神様の方が偉いんだから
人間にはどうしようもない事が多すぎて、神様だって結構理不尽にみえる。


神主が祝詞を知ってても、一般人は知んない。
祈りの言葉が無い でも、 あ~、今日はいい天気だなぁ とか、そう思って世界を肯定することがそうなのかなぁ?とか思う
理論は必要なく、感じるだけ?


神様と一緒に居る、生きる て時の感覚は違うかも・・・

でも突き詰めると一緒なのかも知んないとも思う。
人間側のスタンスが違うだけ

世界の中で生かせてもらう ただそれだけに対する感謝。
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キリスト者の究極の姿は『神に会って、和解して、神の僕となって神と共に、神の一歩後から歩く事です。

』この意味は『幼子が天国に一番近い存在』という意味を考察する事で分ります。

幼子は、全てを知り尽くしている事を考えて頂く事で理解出来ます。

幼子の『生命維持機能の完全性』は、生まれた時既に全て備わっている事で分ります。人間としての全人格的な構成要素の事です。この全人格的な構成要素を幾つかに分類するなら尚更分りやすいと思いますので三つに分けて書いてみます。

その一は、『身体的な生命維持機能』です、具体的には、生命を維持するために身体全てが反応している事です。心臓から肺から腸や神経系統やホルモン系統等など全ての身体生命維持機能の事です。この機能を働かせている者が『神』という意味です。環境に適応している『生命維持機能』が神という事です。

その二は、『感情や考え』を五感から入る情報を通じて『沸きあがらせている者』としての機能が『神』という意味です。自我意識という心を通しての生命維持機能を働かせている者が神という意味という事です。

その三は、人間の行動を通しての『生命維持機能』を働かせている機能を『神』と呼んでも良いと思います。この行動様式は『咄嗟の場合では、自我意識の認知するスピードではかなわない場合では、自我意識を通さずに、直接手や足などの筋肉を動かす事もあります。この場合を『知らない内に手や足が動いている。』と表現します。ごみが目に入りそうな時等もそうです。自分が瞬きを指令するよりも遥かに速いスピードで処理が行われています。

この三つは一つの機能として全人格的な人間像を作る『元』になっていますので、人間の障害として表れる場合では、単独の障害の場合も、複数の障害として別個に現われる場合も様々なケースとして発症する事になるかも知れません。

この三つを束ねている意識は釈迦が『仏性』と名前をつけたものですが、現代風に表現するなら『命を働かせている機能』という意味です。命あるものには全て仏性が宿っている、という意味は『蜘蛛なら蜘蛛としての働きが備わっている』という意味です。植物とて同じです。同じ種の桜が同じ色で、匂いまでも同じで、咲く時期までも同じという『遺伝情報』とその遺伝情報を再現する『機能』=『働き』=『命の働き』という事を意味します。

幼子が天国に一番近い存在という意味は、『神』を疑う能力が無いという理由からです、『神と一緒になって、見ている自分が一人しかいない』という意味からです。

思春期頃に脳の機能分化が完成するようですので、この頃から『見ている自分に、見られている自分』がもう一人加わるからです。

見られている自分を『意識するようになる』という意味ですので、自分の裸を隠すようになるという『恥ずかしい』感情が沸き上がる事を意味します。

心理学的な表現をするなら、『自分自身に内在する機能に疑いを持ち始める』という意味は『自分自身が何者か?』という答えの出ないような疑問も沸き上がる事を意味します。

この答えの出ないような問題を『意識させられる事』を失楽園と表現しています。もう幼子のような天国には住んでいられなくなった事を意味します。

一つ目の機能を疑う場合では『身体機能』の内『意識した事柄』が症状名になります。腸なら過敏性腸症候群という具合です、ありとあらゆる症状が在るはずです、人間の意識する力で『意識したところに異常感を持つという事から症状が作られているからです。』

二つ目の機能『感情や考え』を沸きあがらせている機能を疑う事を意味しますので、『沸き上がる感情』を疑問にして疑う場合では『感情障害』と表現出来ると思います、感情面の起伏に従う事を拒否する事を意味します。従って躁の気分や鬱の気分の浮き沈みを否定感(疑い)で対処する事を意味します。又『沸き上がる考え』に疑いを差し挟む場合では、沸き上がる考えの所有者を疑うという意味もありますので、沸き上がる考えそのものでさえ誰の者であるのかが分らなくなる場合もあると考えられます。

三つ目の人間の行動を通しての『生命維持機能』を働かせている機能を疑う場合では、本来的な人間の体の自在性に機能的な制約が掛けられる場合があります、この場合では『行動の自在性に制限が掛かっています。』生物学的な表現をするなら『神経症』が是に当たります。

この三つの障害は、根元には同じ原因が含まれていますので、意識の根底での圧迫感には共通点があります、その共通点は『漠然とした不安感や恐怖感』と形容出来ます。絶えず自分が圧迫を受けているような感覚です。身体の検査でも脳の検査でも『異常なし』の検査結果ですが、健常者との違いは『絶えず訴えている症状』つまり【意識に上がって来る、異常感』です。

こう言った異常感は心理学的な表現で説明するなら【意識(心)の停滞】がもたらせている事柄です、或いは【意識する力がもたらせている事柄】という言い方も可能です。

五感から入ってくる情報を『命の働き=自分の生命維持機能』が、脳梁を通じて言葉以外の情報として送って来ていますが、この情報の解読ミスか?この情報の受け取り拒否が原因になっています。

今の言葉を違う表現にするなら、『一念』VS『二念』の対立や矛盾や分裂という言い方も可能です。或いは『意識する自分』VS『意識していない自分』の対立や矛盾や分裂という言い方も可能です。

もっとはっきりと書くなら『心の対立や矛盾や分裂』という構図です。

是は人間の脳の機能分化と関係ありますので、科学的な証拠をウイキぺデアから紹介して置きます。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”


左脳に存在する意識は『自我意識』=『顕在意識』ですが、右脳に存在する意識は『神や仏性=生命維持機能』に当たります。

或いは自我意識は五感から入る情報を『自我』という『分別するフェルター』を通して沸き上がる『感情や考え』が沸きあがっています。

人間の悩みや苦しみはこの二つの機能上の誤解に苦しむという意味があります。何故なら『自我意識』は分別する機能=有限で出来ているからです。反対に右脳の人格は、現実をそのままにしておいて、ありのままの現実の情報を脳梁から直接自我に届けているからです。

命の働きは『現実の真実の世界をそのまま直接』自我に届けている事です。

命の働きは、物事を『分別する事無しで』働いています、分別する機能が備わっていない事は、或いは言葉を持っていないという意味は『無限』を意味します。無限の良き理解者という意味は『永遠の存在』という意味があります。

自我があらゆるフェルターを取り払って、五感から入る情報と一つになれる時、『神と和解しています』

先に書いた三つの障害ならば『完治している』という意味があります。先の三つの障害が完治しているという意味は『自我が自分自身の働きの後から付いてゆく』という意味になります。

これらの三つの障害という意味は、自我が『自分の命の働きの前に歩こうとしているだけ』という意味になるからです。

日本の昔からある神々、太陽神の神様の違いはありますか、という答えは『脳科学の見地から説明するなら』同じという答えになります。その理由は五感から入る情報を『そのままにして受け取る』という意味においてです。

脳の障害によって左右の脳の機能を詳しく説明している動画を紹介して置きます。


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専門家ではないので全部受け売りの知識ですが・・・




キリスト教やイスラム教は一神教と定義される事が普通です。

日本の神々は神道の神々で、多神教と呼ばれます。

太陽神というのは何処の特定の神を指しているのか判りませんが、古代エジプト等でしたら、これも多神教です。

多神教はアミニズムと深い関連があるかと思います。

他にはゾロアスター教の二神教でしょうか?


他の方も述べられておられる様に、キリスト教での神とは「創造主」の事を指し、ヤハウェやヤーベ、亦はエホバ等と一般に呼ばれますが、実は正確な名は伝えられておりません。

名を呼ぶ事は(確か)不敬であると言う事で呼べない・書けない為、伝わっていないらしいです。

神と呼ぶのも正確には禁忌なのでは無いでしょうか?(これは事実かどうか確認出来てませんが)


しかし面白いもので人々の眼前に奇跡を現す為に使いとして様々なものがキリスト教では出てきます。

これはハッキリ言って多神教と同じになってきます。

旅を司る天使、恋を見守る聖人、病を癒す精霊達・・・・

ここまで来ると実は全ての宗教で同じ形が見えてきます。

宗教によって神と呼んだり、精霊と呼んだり、仏と呼んだりしていますが、司る内容は全く同じですので人間の思考パターンは普遍なのでしょう。


キリスト教で何故神を知る事を禁忌としているかの根源は、人間は知恵の実を食べてエデンを追放された事に一つの根源を見る事が出来ます。

つまり知る為の行動は『小賢しい』罪なのです。

『知る』事よりも『理解しようとする心』が望まれます。

故に盲目の信仰を求めがちになります。



ちなみに創造・創世神話は大なり小なり世界中にあり、内容も幾つかのパターンに大概が入ります。(創造神が居なくなってしまうパターンも他に見られます)

そしてそのそれぞれに皆、神が関わっています。(神話だから当たり前ですねw)


つまり要約するとキリスト教の神は全く他の宗教の神と同等なのですが、教義上の違いからそこの研究が進まないのです。
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キリスト教の神様=一神教の聖書の神様で


日本語で表記すると「ヤハウエ」と言うお名前です。
一神教では「創造主」のこの方しか神様として認めません。

日本の多神教の概念ではヤハウエの神様も含めて多くの神々がいると考えます。
創造主を八百万の神様の総親神と見ればつじつまが合います。
強引に関連付けると神道の神様で言うと天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
が一神教のヤハウエの神様とみなすことが出来ます。
(同一神かどうかは私には判りませんが)

ちなみに戦国時代に日本にキリスト教が入って来た時には宇宙の真理を
神格化した大日如来をハヤウエ(ゼウス)と訳した様でありんす。
(後で「ん、なんか違うぞ?」と気付いたようですが・・・。)
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キリスト教は一神教、神道は多神教とされていますね。

でも実際はちょっと違うんですよ。

キリスト教は世界を創造したとする神、創造主を唯一の神と呼んでいます。つまり宇宙は神が創ったものです。
コレに対し神道は「天地が分かれたときになりませる神」としています。つまり神が世界を創ったというよりも、世界が出来た時に神が宿ったと考えるのです。
同様に神道の神は森羅万象に「宿る」神であり、さらに人間の始祖、例えば藤原氏の始祖、秦氏の始祖というように祖先も神としています。

元々神という語句の意味は、人知を超えた存在という意味ですから、その意味を当てはめるとキリスト教も創造主だけではなく、天使、使途、聖人、悪魔までも「神」の範疇に入るんです。
なので少なくともカトリックでは神とは呼ばず、創造主とか主と呼びます。神という場合にも「父なる神」「全知全能の神」などと創造主であることを特定するのです。つまり日常「神」と呼んでいるのはそれらの省略形と考えてください。(私はカトリックなので、カトリック以外は知りません)
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キリスト教の神様は全知全能の創造神で一人


しかいない一神教です。
これに対し、日本の神様は八百万神々と言われるように
森羅万象に存在します。
山も河も神様になります。

だから教祖など存在しませんし、殉教もありません。
キリスト教のような体系も、教典も聖書もありません。
教義らしい教義もありません。
ただ、自然と祖先を敬う、というだけです。

又、日本の神様は全知全能の創造神なんてすごい神様
はいません。
トイレにも神様がいます。
下駄でも傘でも旧くなれば神が宿ります。
偉い人も神になります。
豊臣秀吉も、徳川家康も神様として祀られて
います。
サッカーの現役選手でさえ神様になります。
群馬県では中曽根康弘は神様として神棚に祀られています。
神、自然、人間が渾然一体となるのが日本の神です。

キリスト教では洗礼をしますが、神道ではそんなものは
ありません。
無いどころではありません。
信者であるという認識すら不要の宗教です。
文科省によると、日本の神道の信者は1億1千万
ですが殆どの人は、信者であるとの自覚は持っていません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます(^^)v

お礼日時:2013/09/25 02:56

違いでしたら、聖書の存在です




神教にも仏教にも、なんでも教えてくれるような辞書のようなモノはありません

※ある種の神教や仏教に教義(本)は存在しますが、書いた人がわかっていますが、著者を信仰の対象にしている場合は、質問にある神様とは違うと思います
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