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ヘーゲルが国家公務員の集団を擬似神学的な仕方で神聖化したのには多少の誇張があるにせよ、…

という記述をとある哲学書の中で見つけ、ちょっとキモチ悪いと思いました。

ヘーゲルが国家を社会の最高の価値を体現するもの~みたいに見なしていた、ということは聞いたことがありましたが、言いかえると上記のような考え方になるんですかね?

国家公務員の集団を神聖化、とは個人的にはキモいですね~

最近、萱野さんなどが国家論で述べているように、国家なんてある見方からすれば単なる暴力装置ですよね?

暴力装置=神なんて大そうな転倒、パラドックスじゃないか?と思ったのですが、その辺、ヘーゲルは自説には何の疑問も抱かず、こういう思想を展開し続けたのでしょうか?

ていうかヘーゲルにはある意味ミーハーというか、力のあるものは良いんだ!みたいなニーチェ的?な発想があったんでしょうか?

その辺、ヘーゲルはどういう思想の持ち主だったんでしょうか?

A 回答 (3件)

ヘーゲルはプロイセン絶対主義の御用学者なんて言われることがあるけど、1820年の「法の哲学」を刊行する際、1819年のプロイセン反動化に対して「法の哲学」の市民社会と国家の章を書き直し検閲に備えたといわれます。


「法の哲学」刊行以前の3回の講義においては立憲君主制ないし議会民主制による近代国家体制を念頭において立論していましたが、1819年の「カールスバート決議」によって、デマゴーグ狩りが開始され、それを恐れたヘーゲルは著作の公刊に当たって、絶対王政に寄った立論に書き換えたといいます。
これを「イルティング・テーゼ」といい、本来のヘーゲルは国家主義者ではなく、リベラルだったというもの。
しかし、近年この「イルティング・テーゼ」に対して批判も出ています。
私が、都合7回行われた「法哲学講義」のうち、第6回講義を翻訳したものを読む限り、「法哲学要綱」のテキストの解説であるヘーゲルの肉声を読んでいると、結構リベラルという感じがしました。
公刊著作である「法の哲学」はさすがに堅苦しい感じですが、「講義録」は結構ヘーゲルの本音が出ていて、面白いです。
何よりもヘーゲルがイギリスのアダム・スミスをよく研究していることです。
ヘーゲルの絶対者というのはスミスの「見えざる手」からヒントを得て考え付いたことだということが良く分かります。
スミスは個人がそれぞれ利己的に行動していても全体としては公共性と調和が実現される、それを「見えざる手」といったわけですが、ヘーゲルはそれを「理性の狡知」といい、個別的な人間が自己の利益を追求して他者を否定する市民社会が止揚されて国家を実現するといったのもアダム・スミスの流用という感じです。
ヘーゲルはあの時代としては驚くくらい資本主義の到来を熟知していて、市民社会では富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる、そして貧富の格差は人倫の喪失であること、つまり資本主義の下では人間の友愛や共同体感情が失われてゆくことを良く知っていました。
このことは現在の私たちを省みれば、驚くべき先見の明です。
ヘーゲルの「法哲学講義」を読んでいると、これはまったくマルクスではないかと錯覚します。
おそらく、マルクスはヘーゲルの「法の哲学」を下敷きに「資本論」を書いたのだと思います。

ただ、ヘーゲルはプラトン以来の近代最後の「実在論者(リアリズム)」ですから、個別的なものは仮象に過ぎず、真の実在は概念だと考えていたことは事実でしょう。
ヘーゲルにとって個人と言うのは全体的なものに比べたら、実在性の低いもの、全体性の否定的媒介としか考えていなかった、と思います。
ヘーゲルは「法の哲学」の序文で、「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」という有名なスローガンを述べていますが、ヘーゲルにとって理性的とは全体的なものであり、全体的なものこそ真の実在であり、現実であったわけです。それに比べたら個人など仮象でしかない。
ヘーゲルは「法の哲学」を著す前にイギリスの近代自然法を論じた「自然法論文」を実にたくさん書いています。
ヘーゲルにとって、彼の哲学に敵対するものはイギリスの個人主義的な、個人の自然権に立脚する近代自然法国家論です。
彼らによれば、真の実在は個人であり、個人の自然権です。
国家というものはその個人が相互に契約することで作り上げているものに過ぎないから、もしその国家が人民の意志に反したことをすれば直ちに革命によって転覆することができる。
そのイギリスの近代自然法国家論は、プラトンの「実在論(リアリズム)」を批判したアリストテレスの「唯名論(ノミナリズム)」の再来です。
アリストテレスにとって真の実在は個別的・特殊的な個物・個人であって、概念ではありませんでした。
なぜ、ヘーゲルがイギリスの近代自然法国家論に敵対したか、それはイギリスとドイツ、まだ統一するには半世紀後を待たねばならなかった領邦国家ドイツとの違いでしょう。
後にドイツは1870年にプロイセンによって統一されることになりますが、ドイツにとって必要だったのは個人の自立ではなく、統一した中央集権的な国家の実現です。
ヘーゲル哲学はもっぱらその目的のために唱えられたものでした。
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、大変充実したご解説をいただき、ありがとうございました!「法の哲学」と「法哲学講義」でそんな違いがあるんですね!「法の哲学」の方が読みやすいのかな~と思っていましたがイメージが変わりました。ともかく、どちらも読んでいないので、早いうち手をつけてみたいです。ヘーゲルにリベラルな側面、自由主義・個人主義の思想を取り入れた側面があった、という話は大変興味深かったです。ヘーゲルに対するイメージが膨らみました。勉強になりました、ありがとうございました!

お礼日時:2014/02/10 07:55

ヘーゲルの国家論を語るなどとてもできません、具体的にどう言っているかを示せませんが、ちょっと一言。


ヘーゲルをキモいと見るのは、同感です。しかし、
>「ヘーゲルは自説には何の疑問も抱かず、こういう思想を展開し続けた」
という見方は、まずいと思います。彼の論理は、現状の肯定とも読むことが出来るとしても、現状の否定をしないと見るのは、片手落ちで、皮相ではないか、と思います。
ヘーゲルの言う「個々人の最高の義務は国家の成員であること」を、国家=暴力装置論で返して、通じる者も居るとしても、それでは済まないのではないか。最近のように、他民族をけなし、「アホー」と言い、更には「殺せ」と叫んでデモをするような人々が登場する日本では、ことに。

「神格化」という側面は、日本で言えば「天皇」が神に祭り上げられた話になるわけですが、キリスト教の神は、イエスが現人神だったという形になるとしても、民族主義の象徴とは趣が異なりますね。天皇を神に祭り上げて、自分たち、軍人・官僚は神の意向だと言って好きにしたわけですが、ヘーゲルの神は自らが築き上げた「理性的」神ですから、非合理性をそのままに認めるものではなかっただろうと思います。

ちょうど日本では、国家官僚と政治家がぐるになって、自分たちの秘密を探ぐり、それを人々に知らせるということに厳罰を科すという法律を成立させようとしていますね。国家官僚たちが自分の裁量で指定した秘密情報を、市民が取得しようとすることも処罰の対象とする。あるいは、アメリカ軍がテロリストと認定したら、いつでも殺して構わないとテレビゲームのように無人機で人殺しをやるのも「許される」のですね。両者どちらも彼らの言い分は一つ、「お国のため」ですね。こういう側面は、「法律は守らなければないけない」という染みついた、あるいは染みつけられたモノ「規範・当為・etc」が、人間の社会生活で必要ということと不可分に結びついているでしょう。それは、官僚・政治家・軍人側においてだけではなく、選挙民の側も何らかの合理化をして己のモノとして受け入れたということでもあるのですね。こういった一種矛盾的事態を理性的に把握してみせることこそ、ヘーゲルの得意なのではないか、と思います。つまり単純に一方のみを見るという思想の持ち主ではなかった、と思います。
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kgat0769様、こんばんは。




>「社会の最高の価値を体現するもの」

それは個人(一人ひとり)でしょう。
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