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 1. 《ナザレのひとイエスは そのように人間であると同時に キリストと呼ばれる神の子でありかつみづからも神である》という物語――つまり 命題としては論証し得ないドグマ――について問います。

 2. 前提事項として 次を確認します。たとえばこのイエス・キリストが《真理である神を指し示した》というときそれは 

  (あ) 神はじんるいにとって全体としてひとつであり 名は違っても同じ《非経験の場》と想定されるナゾの何ものかであるということを語った。

  (い) すなわちおよそ神ならば どんな名のそれであっても 互いに分け隔てはないということ。

  (う) 真理である神は 経験世界を超えており このナゾを人間がその能力と努力によって知解することは不可能である。

  (え) 言いかえると 《考えるや感じる》世界を超えており それはただその神の名を心に受け容れるということをとおして抱くことになりそう成った心の動態としての信仰をとおしてのみ いわば人間がかかわることのできる存在(または 非存在)である。そのようなわが心なる《非思考の庭》が 信仰である。

  (お) この信仰からヒラメキなどの直感をとおして得た思いや考え これを思想として表現することがあり得る。これは オシエであり それをすでに集団化した者たちの教義とするなら そこに《宗教》が現われる。――この組織宗教は 個人の信仰の言わば蝉の抜け殻である。

  (か) こういったことを語ったと思われる。――この前提事項をもむろんご批判ください。

 3. さて問題は 次です。

  (き) 《人間イエスは 神キリストである》は 思想としてはいわゆるアラヒトガミのことです。

  (く) ただしイエスのばあいは 神そのものが《想定》に成るものですから キリストと呼ばれるようになったことも物語であり 命題としてはドグマです。――このことは 日本における現人神が どう捉えられているか・つまりドグマなのかどうかが分からないので ひとこと触れておくという意味にもなります。

  (け) 日本人のあいだのいわゆる自然宗教――つまり実際にはその集団的宗教の問題ではなく 個人一人ひとりが自然にいだくに到っているそれとしての信仰のことです。つまり これは たとえば《もののあはれを知る》といったかたちで説明されます――をもって 
 もういちど繰り返すなら 個人の自然にいだくおのおの自由な信仰をもって 一般に欧米のクリスチアニズムに相い対するという交通のかたちで 要は足りるか? これがひとつの問いです。

  (こ) むろんこのいま言った自然信仰は じっさいに生活に生きているその動態です。ですから 経済的・政治的また文化的な活動をとおして クリスチャンたちと相い向かい対話を展開するわけですが そのとき 信仰じたいの説明はどうなっているか? という問いが向けられたときには どうするか。こういう背景です。

  (さ) そのときの対話交通においては わたしたちは クリスチャン側の《イエス・キリストなるドグマ》については 話の前提としてみとめた上でということになるのではないか? それとも ドグマなのだから 認めないという判断をすでに持ってのぞむのか?

  (し) なぜドグマであっても 話の前提としてみとめるほうがよいと考えるか? これは 項目を次にあらためます。

 4. 話を 《闇の中にいつづけていたひとが 光を知るにはどうしたらよいか》という問いから入るかたちとします。

  (す) ひとつに衆生縁の慈悲があります。人びとの思いやりです。これをとおして 光を知る入口にまでみちびかれると思います。

  (せ) ひとつに科学のチカラがあります。ものごとの世界の普遍的な認識としての知性的なチカラです。目の治療を例にとっても 光が見出され得ます。

  (そ) 次には 《みづからがさささやかな光となることは出来るか。成るにはどうしたらよいか》という切り口ですが ひとつには 《ひとには 神の霊がやどる》という想定を持つことです。

  (た) これは 必ずしも勝手なドグマではなく 神をナゾの何ものかとして想定したとき ほとんどそのことに付随していることだとも考えられます。

  (ち) その《神の霊》は ブッダター(仏性)ともアートマンともルーアハともプシュケーやプネウマともアニマやスピリトゥスとも たましいとも言われます。〔これは (あ)(い)の前提事項です〕。

  (つ) 問題はここからです。《みづからが光となる》のは その心にやどるブッダターによって人間みづからがその努力(ハカラヒ)によって成すのか? 

  (て) 言いかえると 《人間が人間であると同時に神である》というまぼろしの想定は 要るか要らないかです。要るというのは 人間がみづからのチカラによっては 心の燈心をともすことは出来ないという人間の限界をみる見方です。

  (と) 思いやりなる光のようなものは 人間がその知性などのチカラで持ち得ます。ところが 心の燈心に火をともすことは 人間に出来るか? という問いです。(言わば永遠の火ですね。ロシアでは聖火が消えたそうですが)。

  (な) 出来ないという見方に立つなら キリスト神話のドグマを話の前提としてみとめて 欧米人と話をしなければならない。と考えられます。

  (に) 果たしてそうかという問いからご見解をもとめます。

  (ぬ) 質問者は そうである(ドグマを認めざるを得ない)という見方に立っています。人間だと限界を見てしまうことがある。からという理由です。

A 回答 (2件)

こんにちは。




☆ それとも 《光がある・光を見る》と思っているなら――そういう信仰の動態過程にあるなら―― その光ないしブッダターは おのづからハタラキを持つ。と見ていますか?
◇わたくし、キリスト教に詳しくないのでよくは分からないのですけれど、
キリスト教においては、
《信・psitis》〔のチカラ・ハタラキ〕によって、
真理が認識される、もしくは、真理が黙示されるのだとか・・・。

ということで、この《信・pistis》を例にとり、考えてみることにします。
《信》は、
タネとして最初から万人に内在しているのか?
それとも、
後天的に外からもたらされるのか?

《信》が本来的にわれわれに内在しているのならば、これ以上の議論は必要ないでしょう。

外来的なものであるとするならば、
(I) 神さまの気まぐれ(人間にはその理由がわからず、結果、気まぐれに見えるという意味)
(II) 行為などの報奨として《信》は与えられる
のいずれかなのでしょう。
(I)は、その理由が人知を越えているので、議論をしてもしょうがいない、ということで、
(II)の場合を考えます。

行為ですから、意志が先んじていることになります。
であるならば、
意志や理性による判断などの結果として、
《信》が生じたとなるのでしょう。
意志や理性によって、キリスト教でいう《信・pistis》が生じるものなのか?
であるならば、
《信じる》ために《知》らなければならない!!
《信》に《知》や《理性》なるものが先行していることになりはしまいか。

意志や理性を抜きにしても、
《行為義認》になるのでは?
という疑いが浮上します。
神は結果こそを愛でたもう・・・。

ということで、
はじめからある、
備わっている、
と考えるのがよろしいのでは。



☆《言葉の肉化》は どうして要らないのか?
◇《言葉の肉化》?
これは、《ロゴスの現象化》という意味にとらえることにして、
これは預言者とされる人たちが言葉化されたものですよね。
そこには、預言者たちの解釈、理解、誤解なども混入しているでしょうから、
これを鵜呑みに信じるのは、危険なのでしょう。
言葉ですから、おのずと、そこには限界もあります。
たとえ、イエスの言葉であったとしてもです。
───イエスは、受肉化し、しかも、《限界》のある言葉でもって語らざるを得なかったので。あるいは行動という形で示すしかなかったので───

キリスト者の皆さんは、
一人一人、神さまと直接対峙し、神さまにその意味をお尋ねになる、
あるいは、
《信・pistis》のチカラ・ハタラキによって、真理もしくは正義を、神さまから黙示していただき、
自分で考えるべきなのでしょう。

キリスト者の方は限界のあるヒトを頼ってはいけない。
信仰のチカラによって局面を打開しなければならないのでは。



☆ でも まじめなクリスチャンなら それでは《限界》が文字どおりあることにならないかと問い返して来ると思われます。
 非思考の庭にあって ヒラメキは《限界なき光》に通じているのではないかと。
◇まじめなクリスチャンの方なら。
でも、
ヒラメキは、思考の域に止まることになるでしょう。
ヒラメキが《非思考の庭》にあったとしても、
それ自体では意味を持たないと思います。
《限界》がある言葉によって、人は、考えざるを得ないので。。。
このことを知ることが大切なのではと・・・。
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この回答へのお礼

 ねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《信》は、
 タネとして最初から万人に内在しているのか?
 それとも、
 後天的に外からもたらされるのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの捉え方になりますが こうです。

 1. 神の霊がひとにやどっている。

 2. 或る日或る時 ナゾの何ものかがワタシをおとづれる。(主観の問題としてです)。

 3. これを受け容れるとき わが心に《非思考の庭》が――思考の緑野や感性の原野のほかに――成る。これが 信仰である。信仰という動態の始まりである。

 4. この信仰の成ることは 聖霊のはたらきによると捉えられている。



 5.◇ 《信》が本来的にわれわれに内在しているのならば、これ以上の議論は必要ないでしょう。 
 ☆ わづかに《神の名を受け容れる》というワタシの意志行為がはたらくことから 信仰が動態として始まると考えられています。

 6. あるいは無神論のひとの場合は 世の中に信仰というものがあるらしい。おれは そんなものには目もくれない。と思ったとき その人にも《非思考の庭》が成って 《無い神》を受け容れたかたちでの信仰が始まる。こう見ます。

 7. 自然本性にすでに神の霊はやどっていますが これについて自覚するかたちを 一般に 採るものと思います。

 8. だからと言って 《神》とか《信》とかをまったく知らなかったという場合が仮りにあったとすれば それでも《やどっている聖霊》ははたらくと考えてよいと思います。自覚のない状態において。

 9. もっとも・ただし 一般にひとは 生まれたときの自然本性そのままに成長するものではないわけですから――多かれ少なかれ ウソをつきヘソを曲げるわけですから―― 自覚のない状態で信仰がすなおにはたらくとも言えないのではないかという疑いがあります。

 10. よって信仰は 有る神にせよ無い神にせよ いちどその自覚とともに出発するものと考えます。無い神の場合は 神や信仰などを打っちゃってしまったそのときのことです。


 
 11. ◇ 意志や理性による判断などの結果として、《信》が生じたとなるのでしょう。
 ☆ これは あり得ません。

 親鸞に言わせれば 信仰の成立にかんしては 《義無きをもって義とす》だそうです。非思考であり 無根拠です。

 ただ いづれかの神の名を受け容れるのは ワタシの意志行為です。その神の名ないし神じたいをうっちゃってしまった場合――つまりそのように無い神を受け容れた場合――も ワタシの意志行為です。




 12.◇ 《言葉の肉化》? / これは、《ロゴスの現象化》という意味にとらえることにして
 ☆ ええ。乱暴な言い方になってしまっていました。
 これは 法身仏の応身化です。



 13.☆☆ 非思考の庭にあって ヒラメキは《限界なき光》に通じているのではないかと。
 ☆ これはですね。すでに心にやどる神の霊が 信仰の自覚なくはたらく場合や また《法身仏が 応身仏となった》というテーゼをかかげずに信仰がはたらく場合には 《非思考の庭》から得られるヒラメキが あいまいなものになるのではないか。つまり そういう意味で限界があるのではないかと考えられる。という意味です。
 テーゼをかかかげれば 《限界なき》さまになると思います。


 14. たとえば子なる神が 人間存在にも成ったというふうにして《人間である神 神である人間》という《限界の無さ》を規定しておくと――これは 思考のほうにもかかわっていて信仰だけだとは言い難い問題になってもいますが―― ヒラメキを得てそれの解釈が 限界を知らないかたちで みちびかれるかと思うからです。


 15. 《人間=神》といっためちゃくちゃな想定において 《限界の無さ》という規定をしておくことによって ヒラメキの解釈の自由度を増すといったかたちです。
 




 16.◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 キリスト者の皆さんは、
 一人一人、神さまと直接対峙し、神さまにその意味をお尋ねになる、
 あるいは、
 《信・pistis》のチカラ・ハタラキによって、真理もしくは正義を、神さまから黙示していただき、
 自分で考えるべきなのでしょう。

 キリスト者の方は限界のあるヒトを頼ってはいけない。
 信仰のチカラによって局面を打開しなければならないのでは。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは いわゆるクリスチャンの場合にはあるかも知れません。わたしにはありません。

 17. たとえば
 ◇ 神さまにその意味をお尋ねになる
 ☆ ときの場合については その尋ねようと思ったそのときに すでに神はそのわたしの疑問や質問のことを知っていると思うからには 特別なにもありません。


 18. ◇ 神さまから黙示していただき
 ☆ これは これが ヒラメキです。その内容はむしろこの経験世界における日常生活じょうの問題にかんするものです。


 19. ◇ 限界のあるヒトを頼ってはいけない。
 ☆ キリスト者にもし《戒律》があるとすれば 《神を愛し なんぢの隣人を愛せよ》です。これが 信仰にかかわって持つ唯一のオシエと言えばオシエです。

 そして 神を愛することと隣人を愛することとは ふたつにして一つであると言われます。

 隣人とのあいだであやまちを犯し諍いが生じているときには 神のことは放っておいて まづ隣人のところへ行き 誤解を解いたりあやまちを詫びたりしなさいと言われます。




 問題は 《法身=応身》なる存在を想定することは 意義がないか? だと思います。

お礼日時:2013/10/31 21:21

こんばんは。




そして、
いきなり、漢訳マイナー経典
─────────
以佛眼觀一切衆生。貪欲恚癡諸煩惱中。有如來智如來眼如來身。結加趺坐儼然不動。
善男子。一切衆生。雖在諸趣煩惱身中。有如來藏常無染汚。徳相備足如我無異。
又善男子。譬如天眼之人。
「觀未敷花見諸花内有如來身結加趺坐。除去萎花便得顯現」

(如来蔵経)
─────────

未だ敷(さ)いていないお花(蓮華)を観(み)ると、
そのお花の中に如来身(如来蔵)が結跏趺坐していた。
萎(しぼ)んでいる花を除去すると、
如来身がたちまち顕現した。

これでよろしいのでは。

これを《アートマン》と呼ぼうが、《神の霊》と呼ぼうが、《仏性・dharma-dhatu》と呼ぼうが、
それは名称の相違にすぎない。
まっ、わたしは、《自性清浄心》や《如来蔵》という言葉の方が好きなのですが・・・。


☆(つ) 問題はここからです。《みづからが光となる》のは その心にやどるブッダターによって人間みづからがその努力(ハカラヒ)によって成すのか? 
◇もなにも、はじめから《光》なんじゃないですかね~。
でも、サングラスか何かをかけていて、その《光》はなかなか見えない。
わたしは、
このサングラスをハズすのは《自分で》だと思いますが、
それが《神さま》や《阿弥陀さま》のお力添えであっても構わない、
と考えています。
結局、同じことですから。


☆(と) 思いやりなる光のようなものは 人間がその知性などのチカラで持ち得ます。ところが 心の燈心に火をともすことは 人間に出来るか? という問いです。(言わば永遠の火ですね。ロシアでは聖火が消えたそうですが)。
◇最初から、灯っているのでは・・・。
この炎は消えることはない!!



☆(な) 出来ないという見方に立つなら キリスト神話のドグマを話の前提としてみとめて 欧米人と話をしなければならない。と考えられます。
◇キリスト教のドグマ・教義やキリスト与太話は聞き流して、
《神の霊の宿り》の一点にのみスポットライトを当てればいいのでは。

イエスの正体なんざ~、どうでもいいこと。
そこいらにいるタダの酔っ払いのオッサンでもいい!!
(個人的には、こちらの方が、キリスト教はより完璧になると思うのですが・・・。)

─────────
8:27さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
8:28彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
8:29そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
8:30するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。

マルコ・8章
─────────

この部分の解釈については、
bragelonneさんとわたしは、まったく異なっているようですが・・・。



☆(ぬ) 質問者は そうである(ドグマを認めざるを得ない)という見方に立っています。人間だと限界を見てしまうことがある。からという理由です。
◇「人間だと限界を見てしまう」の主語は?
イエスがタダの人間?
それとも、
わたしたちが人間?

わたしは、
イエスが、キリスト教で言うところの《神の子》、三位一体説の《子なる神》とも思っていません。
そんな与太話は、そろそろ、お止めになっては、と常々思っております。
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この回答へのお礼

 ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 この質問は 信仰の問題として 片や《仏性がやどる》と見ているのと 片や《その仏性(ないし法身)がそのまま人間となった》とまで言っているのとの違いについて問うています。

 これは 特にはいわゆる自然神をいだく信仰の徒としての日本人が 《神のことばの肉化》を想定している欧米のクリスチャンに では《神とは何か? また 信仰とは何か?》をめぐってどこまで互いの主観を共同化しうるかを問うています。 

 《イエスがキリストである》なる命題は 《法身がそのまま応身となること》として捉えます。

 自然神の信仰者として日本人は 人間に《ブッダターがやどる》と見ているといちおう前提しています。


 こういう出で立ちです。






 その中で 神は・またはその霊は 名前が違っても 同じ《非経験の場(なるチカラ)》だと見ていること これは すでに解決済みではないかと思います。

 すなわち
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 これを《アートマン》と呼ぼうが、《神の霊》と呼ぼうが、《仏性・dharma-dhatu》と呼ぼうが、それは名称の相違にすぎない。
 まっ、わたしは、《自性清浄心》や《如来蔵》という言葉の方が好きなのですが・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このことは すでに共通の了解事項とします。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 未だ敷(さ)いていないお花(蓮華)を観(み)ると、
 そのお花の中に如来身(如来蔵)が結跏趺坐していた。
 萎(しぼ)んでいる花を除去すると、
 如来身がたちまち顕現した。

 これでよろしいのでは。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これでは まだよろしくありません。《ひとには 如来蔵がある(仏性がやどる)》と言ったまでですから。
 その信仰個条に対して 《如来身が 非経験の場としても 経験世界における現実の人間としても あった》というドグマとの関係を問います。




 (つ) 《みづからが光となる》のは その心にやどるブッダターによって人間みづからがその努力(ハカラヒ)によって成すのか? 
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 もなにも、はじめから《光》なんじゃないですかね~。
 でも、サングラスか何かをかけていて、その《光》はなかなか見えない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶんまだ問いには答えていないと思います。《光がある》と思う・あるいは《光を見る》と想定しているのと それに対して その光にみづからが成ることとは まだ違いがあると思われるからです。

 それとも 《光がある・光を見る》と思っているなら――そういう信仰の動態過程にあるなら―― その光ないしブッダターは おのづからハタラキを持つ。と見ていますか?

 そういう場合もありましょうが ここは クリスチャンの信仰個条との比較を目指しています。
 微妙になって来ますが 《光があると見て その光はおのづからハタラキを持つ》という説明と それに対して《光は わが心の燈心が灯されてハタラキを発揮する》という説明との違いです。

 後者は 《神の肉化》なるドグマを経ないと かなわないという議論です。(すでに 経験思考の議論になっているのではありますが)。




 言いかえると 次の点で 違いが生じて来ているようです。
 ◇ 最初から、灯っているのでは・・・。 / この炎は消えることはない!!
 ☆ 光の点灯ということ それの以前と以後は あるか? こういう問いに代えられるかと思われます。

 たぶんですが 自然神の信仰にあっては 《最初から灯っている》のだと思われます。ただしそれだけですと 言わばその光ないし火に限界があるという見方を クリスチャンはするものと考えられます。

 人間の思惟や行為に限界があることは 信仰が軌道に乗ったとしても 変わらない。のですが その前提にあっても 非思考の庭の中身としては 《限界のない光 ないし 火。ないしあるいは 汲めども尽きない泉から湧き出る水》といったタトエで もう一段先へと視野を推し進めていると考えられます。


 ということは 問いとしては そういう推し進めは もはや要らない。つまり マチガイであるといった批判があれば それを明らかにするのが 欧米人とのまともな=ふつうの 対話交通になろうかと見られます。


 すなわち
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 キリスト教のドグマ・教義やキリスト与太話は聞き流して、
 《神の霊の宿り》の一点にのみスポットライトを当てればいいのでは。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という信仰個条の内容を どのように《そこまででじゅうぶんだ》と説明して 互いの主観を共同化しうるか? です。


 《言葉の肉化》は どうして要らないのか?
  ドグマだからでしょうか? 

 でも まじめなクリスチャンなら それでは《限界》が文字どおりあることにならないかと問い返して来ると思われます。
 非思考の庭にあって ヒラメキは《限界なき光》に通じているのではないかと。





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスの正体なんざ~、どうでもいいこと。
 そこいらにいるタダの酔っ払いのオッサンでもいい!!
 (個人的には、こちらの方が、キリスト教はより完璧になると思うのですが・・・。)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは そのままそのとおりですよ。問題は そのおっさんであるイエスが 《神の子でありみづからも神であるキリストであった》というもうひとつの貌(かお)が 添えられているのです。



 ▲ (マルコ8:29) ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
 ☆ これは まだイエスがハリツケに遭っていないときですから 弟子たちは たとえ《キリストです》と言っても このキリストは 政治的な指導者だと思っていたかも知れないですし あるいはいわゆる救世主だと思っていたとしても それはあくまで《預言者レベル》の人間存在だと思っていたはずです。十字架から去って行ったあと 弟子たちは イエスが神の子なるキリストだと受け取りました。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは、
 イエスが、キリスト教で言うところの《神の子》、三位一体説の《子なる神》とも思っていません。
 そんな与太話は、そろそろ、お止めになっては、と常々思っております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 《法身の如来が そのまま応身として人間となった》という与太話です。三身常住の問題です。

 もっと卑近なかたちで アラヒトガミの問題です。ただただあり得ないという拒否の一点張りでしょうか?
 欧米人との対話を前提としてみてください。
 
 
 


 




 

お礼日時:2013/10/30 18:50

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