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福岡の沖ノ島にある祭祀遺跡はいつ誰がなんのために持ち込んだのですか?
邪馬台国と関係あるのですか?

A 回答 (3件)

弥生時代以前の遺跡もあるようですが、祭祀遺跡なのか漁業拠点としての生活跡なのか…


一般的に言われる祭祀遺跡は4~10世紀のもの、ヤマト王権が持ち込んだものです。
沖ノ島が重要だったのは、北九州から対馬を経る大陸への航路の変わりに、山口あたりから沖ノ島を経て大陸へと、対馬や北九州を経由せずに大陸に行くことができるものだったため、と考えられています。これは当時の九州が必ずしもヤマト王権に協力的ではなかった事実ともよく合います。

邪馬台国は、記録に残っているように対馬や壱岐は自分たちの領域だったので、沖ノ島を重視する必要性は低かったでしょう。

沖ノ島は縄文時代の遺跡もあるように古くから知っていた人もいたようですが、離れ小島なので交易拠点などには決してなっていないところです。また上記のように4世紀以降はヤマト王権が重要視し存在を口外しないようにさせていたらしく、一般の人々には存在を知られていない(そのために昔の遺跡物が残っていた)ものだったようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/11/15 21:35

福岡県の沖ノ島は宗像大社の一部で、陸の辺津宮(いちきしまひめ)、大島の中津宮(たきつひめ)、沖ノ島の沖津宮(たきりびめ)と宗像三女神が祀られています。


「日本書紀」には、須佐之男命(スサノヲノミコト)の剣から宗像三女神が生まれたとされていますので、昔から信仰されていたと思われます。
また、沖ノ島は九州と朝鮮半島の中間にあるため、交易の重要な場所であったことは確かでしょう。そのため大陸との航海の安全の守護神として宗像三女神を祀り、祭祀を行っていたのではないでしょうか。

出土品は4世紀から9世紀が中心のようなので、邪馬台国の2~3世紀とはズレがあります。

宗像三女神は厳島神社でも祀られており、重要な航海の神様として昔から崇められていたことがうかがえます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/11/15 21:36

 沖ノ島に古代遺跡が多いのは、島の領有権を巡って古代から歴史的背景があったからでしょう。



 縄文時代や弥生時代からの遺物が多数出土しているのを考えても、古代から漁民にとって重要な海の拠点だったようです。

 現在の価値基準で考えると、大昔から無人島に超高層ビルが林立しているような場所で、大陸と日本との間で、経済や貿易の重要拠点だったのは間違い無いようです。中国の香港島のような場所だったのかもしれません。

 日本と朝鮮半島との間で島の領有権を巡る争いが多かったのかもしれませんが、沖ノ島が日本と大陸を分ける接点だったのかもしれませんね。

 志賀島で古代王朝の金印が発見されているのを考えても、この近海が外交上、敏感な地域だったのは事実だろうと思います。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E% …
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/11/15 21:37

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