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英文の和訳で困っています 和訳を教えていただきたいです よろしくお願いします!!

The dedication of a new labrum in the Forum Baths, dated to AD 3/4, may have been one consequence of it.

The building of the Suburban Baths outside the Porta Marina may have been another.
The reign of Augustus was a seminal phase in the history of Pompeii’s public landscape, but it merely marked the beginning of a development that continued under Augustus’s successors.

Sometimes it is difficult to know whether buildings should be dated to the Augustan or Julio-Claudian periods.

On the east side of the forum, for instance, the Building of Eumachia, whose precise function is uncertain but was certainly in some sense commercial, contained references to Augustan propaganda, including replicas of the statues of Aeneas and Romulus from the Forum Augustum in Rome, but its dedicatory inscriptions, which record that Eumachia constructed the building in her own name and that of her son, M. Numistrius Fronto, and dedicated it to Concordia Augusta and Pietas, fit a period early in the reign of Tiberius, and especially the years AD 22-24, when there was emphasis on the close relations between the emperor and his mother Livia, and concepts such as concord and filial devotion (pietas) would have been in fashion.

A 回答 (2件)

市民浴場の新しい唇形浴槽の公開供用は、紀元3,4年に始まるのだが、それ(水道が敷設されたこと)がもたらす1つの成果であったのかもしれない。



ポルタ・マリーナの外にある近郊浴場の建物が、もう一つの成果であったのかも知れない。アウグストゥスの治世は、ポンペイの公共景観の歴史における発芽期であったが、それはただ、アウグストゥスの後継者の下で続けられた発展の始まりを示すに過ぎない。

時々、建築物がアウグストゥス治下の時期に始まったものとすべきか、ユリウス・クラウディウス治下の時期に始まったものとすべきか、識別困難なことがある。

例えば、市民広場の東側にあるエウマシアの建物は、その正確な役割は不明確だが、ある意味それは確かに商業用で、ローマのアウグストゥス広場にあるアエネアスとロムルスの像の複製を含んでいて、アウグストゥスの宣伝活動との関連性を含んでいた。しかし、その奉納碑銘には、エウマシアが、彼女自身と息子M.ヌミストリウス・フロントの名においてその建物を建設し、コンコルディア・アウグスタとピエタスにそれを献じたと記されている。それ(碑銘の記録)はティベリウス治下の初期時代、特に紀元22~24年にぴったり当てはまる。このころ、皇帝とその母親リヴィアとの間の親密な関係が強調され、和合や子供の献身(孝行・敬愛)といった概念が時流となっていたのであろう。
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この回答へのお礼

とても長い文もわかりやすく訳していただき、ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/12 00:50

大公衆浴場の新しい丸い浴槽【注1】の竣工は、西暦3~4年にさかのぼりますが、それ(水道が利用できるようになったこと)の1つの結果であったのかもしれません。



ポルタ・マリーナの外の郊外浴場の建物が、もう一つの結果であったのかもしれません。
アウグストゥス帝の治世は、ポンペイの公共の景観の歴史において独創性に富んだ時期でした、しかし、それは、アウグストゥス帝の後継者の下で続けられた発展の始まりを示す物に過ぎませんでした。

建築物が、アウグスツス朝の時代のものか、ユリウス・クラウディウス朝の時代のものか区別が困難な時があります。

例えば、フォーラム(広場)の東側にある、ユーマシアの建物【注2】は、その正確な機能が、不確かですが、確かにある意味では商業的で、ローマのアウグスツス広場【注3】のアイネアスとロムルスの像の複製を含めて、アウグスツス帝の政治宣伝への意味合いを含んでいました、しかし、その奉納の銘は、ユーマシアが、彼女自身の名と彼女の息子M.ヌミストリウスの名において、その建物を建設し、コンコルディア・オーガスタとピエタスにそれを捧げたと記していますが、チベリウスの治世の初期の時代、特に起源22年~24年の時代に当たります、このころ、皇帝とその母のリビアの親密な関係が強調され、調和や子供の献身(敬意)といった考え方が、流行していたのでしょう。

【注1】
* カルダリウムの項目を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3% …
* 画像
https://www.google.co.jp/search?q=labrum+in+the+ …

【注2】
* Building of Eumachia
https://sites.google.com/site/ad79eruption/pompe …
* Eumachia
http://en.wikipedia.org/wiki/Eumachia

【注3】
* Forum of Augustus
http://en.wikipedia.org/wiki/Forum_of_Augustus
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この回答へのお礼

とても丁寧に訳していただき、ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/12 00:51

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