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サンデルのトロッコ問題についてですが、多数を見捨てて一人を助けるのが善=『義務論』
一人を犠牲にして多数を助けるのが善=『功利主義』ですよね?

ならば、私のように『事故なのだから(原因は自分ではないから)どちらの判断も正しい』と考える場合はどういう立場なのでしょうか?

A 回答 (9件)

正しいの担保

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正しい、という言葉は、排他的概念が中心です。



これが正しい、だからそれ以外は誤り。

では、正しいとは何か。

それを定義しないと話は容易く転倒する。
殺人は許されざる悪だと定義されるが、
戦争では完全にそれが逆になる。

誰にとっての利益なのか、ということが
正義と言うものの正体です。

暴君に殺されずに生き延びる、という利益を
得るために、暴君を皆で殺すことは殺されそうに
なっている人達、或いは大切なものを暴君に
殺された人たちにとっては神が祝福する正義、と
なりますし、暴君の幼子も今は子供でも、成長して
復讐せんとするだろう、我々がそうしているように。
だから、子供でも殺してしまえ。

それも、彼らにとっては正義であり、暴君の圧政に
苦しまぬものの意見が、軽重を問われずに当事者と
同じに扱われることも理に反している。

「正義」も「真実」も、哲学的な意味として考えれば
名詞ではなく、動詞です。

動詞は文を形成する。

動詞があることで初めて名詞は他の名詞と結ばれ、
意味を成し、空間の広がりと時間軸を持つ物語として
動き出す。

正義、という動詞。

だから、主語があって初めて意味を成す。

そして、正義とは雌雄を決すること、すなわち負けた方を
悪と断罪し破滅させることを必然的に内包することでもある。
肉体を破滅させずとも、相手の考えを相手に棄てさせることは
その思考や意思を破滅させることそのものだ。
それを、支配、と呼ぶ。

正義、とは勝負、と言い換えられるものです。

真実、とはその勝負の根源的なルールを指す。

一人でも多くやっつけて点数を競うのか、最後の一人に
なるまで殺し合いをするのか、それらは全て勝負という
ものを成立させている、根元的なルールです。

そのように、正義にしても真実にしても、不変の価値尺度と
してではなく、誰がどこで何を争うのかという単語を並べて
始めて文章になるものだと考えれば、文脈から切り離されて
単独でポツリと置かれた動詞には、最早意味自体が無い、と
言うことも出来るでしょう。

多くの宗教が、哲学が、絶対的真理という考えに取りつかれて
怪しい蒙昧を積み重ねるのは、全ての世界で共通のルールと
して、一つの正義、一つの真実を確立、或いは強制させることで
最もリスクなく、世界を支配できるという夢想に追い立てられて
いるからでしょう。

設問には、正しい、という動詞を運用するのに必須である主語も
述語も抜け落ちています。

海に沈もうとしているのがあなたの愛する人なら、あなたは
他人を海に落してもその人を救おうとするでしょうし、あなたが
憎んでも憎み切れない人が溺れかけていて、その人を無視して
他の人々を救ったとしても、いずれもあなたは確固たる気持ちで
それらを成し、そしてどちらの場合も心の中が完全にすっきりは
しないでしょう。 誰かを見殺しにしたことを、完全に忘却することは
出来ないでしょう、ということです。

この問題は、主語も述語も無しで、動詞単体を一意に使おうという
パラドックスに他なりません。

ある究極の小説が書かれた。

それ以降の全ての小説は必ず含まれ、或いは否定されるために
全て無意味となる小説。

そんなものがあり得ないのと同じことなのに、どうしても人間は
「本当の」とか「究極の」とかの言葉に縋ってしまう。

何もかもが移ろいゆく、絶対などと言うものが存在しないのが
世界の実相でしょう。

その余りの不安から逃れようと、藁をも縋る想いで神を思い描き、
虚空に向かって祈り、議論し、争い、闘い、殺し合う。

原罪、とは確かに言い得て妙な表現です。

正しい、とはその「海に漂う一片の藁くず」のことです。

だから、設問の答えとしては「お前が危なければ私は助けたい」

若しくは

「見殺しにしてやりたい」

という、あなたの価値尺度の表明。

それで良いのだと思います。

普遍的な存在ではなく、「自分」として、答えを出す姿勢。
その背筋が伸びていれば、それがあなたにとって正しいと
いえることだと思います。
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>私のように『事故なのだから(原因は自分ではないから)どちらの判断も正しい』と考える場合はどういう立場なのでしょうか?



回答として反則、という立場です。また、「神風特攻隊は間違っていない」という立場です。
そもそも、回答として、多数を見捨てて一人を助けるようが、人を犠牲にして多数を助けるようが、
その人の価値判断でありどっちでもよいけれど、そういう場所に出会ったならのがどちらかの判断を
せざるを得ない、というのが、当該問題のシチュエーションなので。
「あなたはどちらの反応をするか」という問いに対し、回答していません。ゆえに、反則回答です。
なお、わからない、というのも回答なのでしょうが、ソレより性質が悪い回答(あたなの行動がわからない。迷うかどうかすらわからない)、なんだろうね。
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こんにちは。




>「一人を犠牲にして多数を助けるのが善=『功利主義』ですよね?」

違います。「功利主義」とは、そのような「誰かを犠牲にする」というものではありません。
(そんなものに「援用」しないで、ということか)


>「ならば、私のように『事故なのだから(原因は自分ではないから)どちらの判断も正しい』と考える場合はどういう立場なのでしょうか? 」

どちらの判断も客観的に捉え得る、ということでしょうか。
「どちらの判断も「正しい」という立場」は?「原因は自分ではないから」?
「原因は自分ではない」ということから、「正しい」という結論を導くのは、どうなのでしょうか。
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>『事故なのだから(原因は自分ではないから)どちらの判断も正しい』



 結果で判断するというご都合主義。

 どちらも正しいとかどちらでもいいならこの問題の意味なし。 
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NO3の付け足し。



Wikipediaの功利主義という項目で、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9F%E5%88%A9% …
快楽計算というものがどのようなもので、
そして、
わたしたちの生活の中で、この考え方がいかされていることを知ることができます。

福祉政策や公共事業などで、
ベンサムの快楽計算(功利計算)的な手法が使われ、
政策決定がなされていたりするのであった。
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こんばんは。



まず、
NO2の回答の
 ☆サンデル氏は、そうした認識が不足しているのではないか?
に対して。

サンデルは、
ベンサムの功利主義に対する講義で、
このような感じのことを述べています。
考えうるすべての諸因子のもとで、
快楽計算(功利計算)はなされ、
その値の大小関係によって、
善悪が定まる・・・。

功利主義においては、
 目の前の一人を選んで多数を助けるか、
 目の前の多数を選び一人を助けるか、
その助ける人の数だけで善悪が決まる、
とは述べていない。

なので、
 ☆一人を犠牲にして多数を助けるのが善=『功利主義』ですよね?
は、
正確には、
正しくない。
MHKで放送された「白熱教室」では、
《帰結主義》とは言っていますが、
《功利主義》とは言っていません。
そして、
《帰結主義》の代表として、
《功利主義》が紹介され、取り扱われる。

ひょっとして、轢き殺した一人が、こののち、多くの人々に、社会に多大な快楽をもたらす存在であったのであれば、
功利主義的な観点からすると、
大勢を助けたという選択が誤りになる。

このあたりの話は、
「白熱教室」では、
《ミニョネット号事件》
で扱われていたと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B% …



☆サンデルのトロッコ問題についてですが、多数を見捨てて一人を助けるのが善=『義務論』
◇《義務論》ではなく、《正義論》ですね(ニコニコ)。
テーマは、《JUSTICE・正義》です。




☆ならば、私のように『事故なのだから(原因は自分ではないから)どちらの判断も正しい』と考える場合はどういう立場なのでしょうか?
◇これだけから、どういう立場でしょうか?と質問され、
答えを求められると、
困ってしまう。

たまたまそのような場面に遭遇しただけと考えれば、《運命論》や《決定論》とも言えるし…。

正当防衛のようなもの、緊急避難と考えることもできる。
───このとき、質問者は、人間として扱われない。意志を持たないモノとして扱われる。意志を持たないモノだから、《善・悪》の対象外となる。モノだから、法的な責任は問われない───


まぁ、
NO1さんのおっしゃるとおり、
無責任と言えば無責任だわな~。
《どちらの選択もしない》という《選択》をしているので。
行為主体であることを放棄しちゃっているんで・・・。


そもそも、
サンデルの質問は、
 どちらを選択するべきなのか?
 それは正義・JUSTICEなのか?
 正義であるとすれば、それはどうして正義・JUSTICEとされるのか?
なんでね~。

 ☆『事故なのだから(原因は自分ではないから)どちらの判断も正しい』
これでは、答えになっていない。
また、
 どうして、事故だと、どちらの判断・選択も正しい、
となるのかの説明もしていないしね~。

たとえば、
毒が混入しているお菓子を人にあげて、それを食べた人が死んだとする。
そして、
質問者さんは、お菓子に毒が入っていることを知らなかったとする。
しかも、お菓子を人にあげたことは善意からであったとする。
毒とお菓子に毒が入っていたことは、質問者さんがやったことではない。

この場合、
質問者さんの論理にしたがうとすると、
「毒を作ったのは自分ではないし、
毒を入れたのも自分ではない。
お菓子に毒が入っていたことも知らなかった。
であるゆえに、
わたしが、結果的に毒入りのお菓子で人を殺したとしても、わたしには何の責任もない。
わたしの選択は正義であったし、やったことは、正義であった」
となってしまいますけれども、
それでヨロシイですか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

白熱教室をきちんと見たことがないので
今度はよく見てみます。

お礼日時:2013/11/11 20:50

この問題には、決定的な情報が不足している。


ある個人と、その他の複数の人間のどちらの方の命をとるか、
という問題には、それ以外の社会全体に、どちらの選択が
貢献するか、その選択の過程がその社会のルールやモラル
に即しているか、という環境条件が決定的要因なのに、
サンデル氏は、そうした認識が不足しているのではないか?
(西欧人は宗教や先天的な善悪の問題にしたがるものだ)
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自ら決断を下さないという、無責任主義という立場になります。

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