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になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。

当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。
そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。
どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう?
そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう?
結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。
しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。
自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。
そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

A 回答 (6件)

kuwantan さん、こんばんわ。




平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3% …
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD% …

この回答への補足

>実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から
>征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていま
>したが、断りました。

ご説明ありがとうございます!
あげて頂いた二つの説のうち、私は秀吉が自ら断ったのではないかという説の方を有力と見ています。

ご紹介いただいた関白相論を拝見したかぎり、秀吉は右大臣就任を拒否していますよね。しかも次のような理由で

「主君であった信長は右大臣を極官として光秀に殺害されており、右大臣は縁起が悪いので出来るならば右大臣は避けて左大臣への昇進をお願いしたい」

これが事実であるならば、すごいですね。縁起が悪いから左大臣にしてくれなどと、よくも言えたものだと思います。ウィキにもあったとおり、当時、日本国内に秀吉に対抗する存在が最早存在しないことが明らかなことから、態度はへりくだりつつも、その主張は身分を弁えずに信長よりも上の位を要求をしていますよね。(認識に誤りがあったら申し訳ないですが、左大臣の方が右大臣よりも位が上であったと記憶してます。もしくは同等。右大臣の失敗の責任をとらせるための位とも言われていますが、位的には左大臣が高かったと思います。)そう考えると征夷大将軍の位が欲しいなら足利義昭が死んだ後に簡単に身内に任命することもできたんじゃないかなと思ったんです。ただ、豊臣秀次を粛清したことを考えると、謀反をさけるために自らや実子の秀頼に権力を集中させるために結局は空位にすることを選んだのではないかと思います。あと人心を読むことにも長けていたので室町幕府の記憶が残っている時点で征夷大将軍に就いて民衆からなりあがりといわれるのを避けたかったとも思えます。

補足日時:2013/12/22 23:02
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この回答へのお礼

わざわざ二回もご説明をしてくださり、ありがとうございました。
他の皆様にも御礼申し上げます。みなさまにベストアンサーを贈りたいところですが、今回、ithi様から最初に頂いた回答に対して私が誤解してしまったのを、わざわざ時間を割いてもう一度ご説明くださったことに感謝の意を表したいと思います。

お礼日時:2013/12/24 13:56

秀吉は信長の後継者で、信長のやろうとした事をやっただけです。

大坂城や、朝鮮出兵など。・・・後々天皇家を滅ぼして、朝鮮、中国を手に入れるのが信長の野望なので、秀吉も同じです。多分。大日本国、国王が目標なので、征夷大将軍とか、興味ないです。とりあえず、政治のトップの関白でって事です。朝鮮出兵に失敗して、挫折です。
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この回答へのお礼

>後々天皇家を滅ぼして、朝鮮、中国を手に入れるの
>が信長の野望なので、秀吉も同じです。

信長は暗殺されたため、彼の政権構想は謎に包まれていますが、VARMOさんの仰られるとおり、天皇家を滅ぼそうと考えていたのではないかと思ってました。
傀儡政権ではなく、新たな国王として。
秀吉の朝鮮出兵は正直謎でした。諸大名に与える褒賞のためかと思っていましたが、VARMOさんの仰られるとおり、朝鮮を足がかりに日本よりも大きい中国を手中に治めて大陸の王となれば自動的に天皇家の権威は失墜し、その後はゆっくりと出家させるなりして力や反抗心を奪っていき、民衆から忘れ去られるように仕向ければいいわけですものね。
しかし、そう上手くはいかず、福島正則らが東軍につく切っ掛けを作ってしまったとも思えますね。

お礼日時:2013/12/23 08:17

ithiです。




身内を征夷大将軍にするということは幕府を作らせるということです。それはやっと天下を自分の手で統一したのにまた争いの種をまくのと同じことです。だから、ほかの一族や大名を朝廷の官位でまとめたのだと思います。
また、彼自身実力は日本一ですが、出自の問題で権威が足りませんでした。だから、少しでも高い官位をもらって朝廷の権威をもって、日本全国の大名を支配しようと思ったのでしょう。

この回答への補足

ご指摘ありがとうございます!

>身内を征夷大将軍にするということは幕府を作らせ
>るということです。

仰られるとおり、豊臣家内の勢力を二分することになりますね。それに諸大名に余計な権力を与えるきっかけにもなりますね。
室町幕府や戦国時代の発端となった応仁の乱に関してウィキを読んだのですが、将軍家内のお家騒動に始まり、諸大名の家督争いに発展、その後、権力を持つ有力な勢力がそれぞれ将軍候補を擁立し後見人争いをはじめたことなどを見ると、同じ轍を踏むのを避けたとも思えますね。
足利家は義教暗殺後に徐々に衰退の一途を辿ったけれども、その後も10人の将軍になったことを考えても、一度、政権を築きあげたものから、身内でもないのに権力を奪うというのは、いくら戦国時代でも難しかったんですね。

補足日時:2013/12/23 07:58
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この回答へのお礼

>出自の問題で権威が足りませんでした。だから、少
>しでも高い官位をもらって朝廷の権威をもって、日
>本全国の大名を支配しようと思ったのでしょう。

やはり、出自の問題は避けられないのですね。戦国時代の混乱期であれば、朝廷を屈服させるだけの圧力がかけられたのではないかと思ったのですが…
あの、信長や家康でさえ、平家や源氏を名乗ったぐらいですから、やはり血筋は重要視されたのですね。

お礼日時:2013/12/23 08:04

足利義昭が生きていたからです



ご存知室町15代将軍足利義昭は信長に追放されますが
死んではいません 毛利家の庇護で暮らしていました
秀吉は義昭に征夷大将軍を譲れと迫りますが 農民の出の秀吉にはやらん!と固辞します

そこで仕方なく秀吉は近衛前久の融子(名目上の養子・相続権は無い)になりました
ご存知近衛家は藤原道長直系の子孫で代々摂関家として続いていました
秀吉が農民の出なのはみんな知ってたので家系図をいじる事は不可能 つまり自分は源氏の子孫だとは言えなかったわけです
そして義昭が生きている以上征夷大将軍は空位にはならず秀吉が就任するのは不可能でした
だから関白となったのです

関白・太政大臣は天皇の代わりに政治を行う者で これは貴族の頂点ということです
征夷大将軍は天皇より国の統治を任された武家の棟梁です


秀吉は関白になりたかったわけではなく 関白にしかなれなかったのです(まぁ関白になれたのも凄いけど)
ちなみに家康も源氏の出ではないですね 家系図を改ざんしています



ちなみに源平交代論って知ってますか?
日本は源平が交代で統治することです

最初は平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→北条氏(平氏)→足利氏(源氏)→織田信長(平氏)→
となると信長の次の天下人は源氏の出でなくてはいけません
それで当時最高の実力者だった家康は源氏の出ということにしたのでしょう

この回答への補足

>ちなみに源平交代論って知ってますか?

詳細なご説明、ありがとうございます。一応、源平交代論は存じ上げています。(テレビで見た程度なので正確にはといいがたいですが)
信長や、秀吉、家康が、血筋に重きをおいていたとは思えませんが、いくら武力や勢力があろうと大義名分がなければ、ただの逆賊、成り上がりと民衆に謗られるのは避けられませんよね。人心を得るには源平交代論にならってその血脈であることを証明したほうが、やりやすかったんでしょうね。

補足日時:2013/12/22 21:47
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この回答へのお礼

>足利義昭が生きていたからです

将軍が生きていたからですね!
足利義昭についてウィキを見てみました。
秀吉が関白就任後、2年間は将軍として勤め、その後、辞ししていますね。
こう考えると2年の間に秀吉は政治勢力を強め、穏便に足利義昭から将軍職を辞しさせ(義昭が年だったのもあったんでしょうが、その息子 足利義尋が既に信長によって出家させられており、その息子も義尋自身が出家させていたことから、足利家は政権交代を納得し、家の存続を選ばせたようにも思えます。結局、嫡流は絶えてしまうわけですが)、将軍職を家康が任ぜられるまで空位とすることで政権を維持しようとしていたのかもしれませんね。

お礼日時:2013/12/22 21:38

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%81%B7% …

日本史では
三職推任問題

というのがあります。

朝廷からのオファーとして平氏を自称している信長に対して

征夷大将軍でも
関白でも
太政大臣でも

お好きなモノを選んでくださいというもの。

信長何を目指したかはいろんな説があるがあるが、明確なくのは
「どれでもお好きなモノを選んでください」と朝廷側からオファーがあった(あるいは朝廷側にオファーを出させた)

なので、源氏でないと征夷大将軍になれないとか、藤原氏でないと関白になれないというのは、結果として信長なっていないだけであって、なんら信長が任官することを妨げるものではない。


秀吉の関白任官に対しては、朝廷の官位による組織づくりという面で朝廷での頂点に自分がなる必要があったと思われます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% …

武家官位というもの。

豊臣政権で、五大老と言いますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7% …

その呼称
の部分にあるように、武家社会では「おとな=老」は主人の代行を行えるのに対して、奉行は命令を受けて実行するという認識がありました。
そのために、
「関ヶ原の戦いの折、前田玄以・増田長盛・長束正家の三人は、家康弾劾状「内府ちかひの条々」を諸大名に発したが、その文中でも家康らを「御奉行衆」、自分たちを「年寄共」[6]としている。だが家康に与した大名や徳川家臣団は、玄以らを「奉行」[7]と呼び、けっして彼らを「豊臣家年寄」とみなしてはいなかった。」以上引用
というような、呼称へのこだわりが生じます。

このことを別の視点で言えば豊臣政権における武家由来の役職名は未確定であったということです。

そのために秀吉が使ったのが武家官位となります。
武家官位を活用するには秀吉本人が官位の上で最上位に立つ必要があるわけです。



一方、家康の場合、1603年の段階で「関白」つまり秀吉の後継者であると宣言することは、関白子飼いの大名が多く生存している段階ではあまりに危険です。
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この回答へのお礼

>一方、家康の場合、1603年の段階で「関白」つまり
>秀吉の後継者であると宣言することは、関白子飼い
>の大名が多く生存している段階ではあまりに危険です。

ああ、確かに仰られるとおりですね!
そもそも関が原の戦いはあくまで秀頼様の御為という豊臣家の家臣同士の内紛にすぎなかったわけですから、大阪夏の陣で豊臣家を完膚なきまでに滅ぼしたとしても、その後に自分が関白に就いては、関白子飼いの大名から反感を買いますし、民衆からは逆賊といわれる危険性もありますよね。
特に豊臣秀吉は、民衆からの人気が高かったと聞きます。
角川書店『日本史探訪10』によると次のような話があります。

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慶長9年8月、秀吉の七回忌。亡き太閤秀吉への親しみと、新しく誕生した徳川幕府への反撥が民衆を駆り立て、老若男女あげての華やかな報告祭が、京の街に繰り広げられた。
---

秀吉が神格化されるのを家康が恐れた理由もわかる気がします。だからあえて関白にはならなかったのかもしれないですね。
関白だろうが、征夷大将軍だろうが、当時は武家の勢力が圧倒的だったのでなんとでも朝廷を牛耳ることができたわけですから。

お礼日時:2013/12/23 00:05

武家の最高権威である征夷大将軍は、源氏しかなれないというルールがあり、


家康は、源氏を名乗り征夷大将軍に。公式文書には徳川**ではなく源**という表記がされたものもあります。

一方、秀吉は家系図にどんな細工をしても、源氏であるという証明ができず、朝廷も問題外と任命拒否回答。武家のトップがだめなら、公家のトップ狙いで、豊臣という新しい姓を造り関白へ。
 若干、武家として家柄の良い武将たちへの対抗心から、武家たちは無縁の公家の身分に着眼した部分があるかもしれません。
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この回答へのお礼

>若干、武家として家柄の良い武将たちへの対抗心か
>ら、武家たちは無縁の公家の身分に着眼した部分が
>あるかもしれません。

ご説明ありがとうございます!!
実は、それも考えていました。一説では秀吉は、血筋に対するコンプレックスを抱えていたと聞きます。
だから、天下統一を成し遂げた後、古典文学、連歌、茶道、禅、儒学、能楽と教養を高めようとしていますよね。もともとの頭の良さと嗜好もあったのでしょうが、貴族としての嗜みに憧れたのもあるのではないかと考えています。
時代によりますが、当時を考えると身分的には武家よりも公家の方が格式があり位も高かったと考えています。(ただし、武家を統制するような権力は全くありませんでしたが)そういったことからも公家の身分を賜ることに重きを置いた可能性が高いですよね。

お礼日時:2013/12/22 23:43

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