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日本という国は「変わり者」を貫くのに不向きな環境なのでしょうか?
私は幼少期(物心ついた頃)から変わった物事が好きで、一風変わった個性的な人間でありたいというポリシーを今なお貫いています。
「個性」とは本来、認めるべきでありますが、日本という国は集団において異質なものを排除したがる傾向が強いゆえに、変わった人・物事は忌避されるのが実情です。このように日本社会において変わった人・物事を忌避する傾向にあるのは、かつて「村八分」という制度を施行していた頃の名残なのでしょうか。

私は、よく親から「お前は感受性が普通とズレていることが結構あって、他でそういう様子を見せると叩かれる可能性が高いから、よそでは普通を装え。」と忠告されます。私が叩かれて嫌な思いをしないようにという意味での忠告でしょうから、それはありがたいのですが、はっきり言って私はその必要は無いと認識しています。
人はそれぞれ考え方・感じ方・価値観が違います。どんなに変わった人・物事を忌避する傾向にある日本人だって、実は「一人ひとり違う人間」なのです。このように各々、考え方・感じ方・価値観が違う人間で成り立っている集合体が人間社会なのですから、変わった人・物事が存在するのは当然です。そんな当然のことを四の五の言ったり、変わった人・物事を寄って集って叩いては排除しようとするほうがおかしいと思うのです。
そういえばフィギュアスケートの安藤美姫選手も「日本人は皆と違う人をおかしいと決め付ける!」とぼやいていたっけな。

さて、欧米・ヨーロッパは個性(変わった人・物事)を強めることで皆に認められる傾向にあります。そんな欧米系の国の一つであるニュージーランドでは「人は一人ひとり違う」ということを前提に他人と接するそうです。
文化の違いとはいえ、このように「人は一人ひとり違う」というのは日本人にも言えることなのに、「なぜ日本は集団において異質な物事に対する嫌悪感が強いのだろう…。」と気が沈みました。

日本人だって「一人ひとり違う人間」である分には何ら変わりないのに、変わり者って決まってイジメ・からかいの標的にされるなど忌避されるのがオチです。(だから私の親は、私が変わり者を貫こうとするのをあまりポジティブに思わないのでしょう。)そう考えると、日本って変わり者を貫くのに不向きなのでしょうか?

※私は日本という変わった人・物事が理解されない難しい環境だからこそ、変わり者を貫き通し甲斐があると思いますけどね。

A 回答 (16件中1~10件)

私も変わり者のひとりでしょう。

質問者様と同様の忠告を親から受けたことがあります。
また海外での生活経験もあります。

私自身の経験から言えば日本は「変わり者が住みやすい世界」である、といえます。

「変わり者」が暮らしやすい、という点で言えばアメリカのほうが暮らしやすいということはあります。しかし、アメリカのほとんどは、保守的な田舎であり、そこに共通している価値観はひとつしかないのです。もし、そういう田舎に日本人として住んでいる場合は「マイノリティ」として尊重されるでしょうが「アメリカ人」として暮らそうとしたなら、アジア人種であることが差別を呼び、必ずしも暮らしやすい、ということにはなりません。

じゃあ白人ならいいのか、というとそうでもありません。アメリカの子供向けアニメをみると良く分かるのですが「子供の頃から変わっていて、人となじめない孤独なヤツ」というキャラクターが定番のように出てきます。その成れの果てがバットマンのジョーカーである、といえば分かりやすいかも知れません。

日本においては、そのような子供であっても「同調圧力」が高いため、公共の場(クラス会とか部活動とか)に引き出されることが多くなります。その上で苛められることもあるわけです。

しかし、あめりかにおいては一度「変わっている」と認められ「孤独が好き」と認められると、基本的には誰も相手をしてくれなくなります。
これによって、アメリカのアニメキャラである「孤独を愛する(実は結果的に孤独だった)変人博士」のような人が出来上がるわけです。

ですから、ほっといてくれない日本のほうが変人に対して寛容である、という言い方もできるわけです。

また、もうひとつの理由もあります。それは「他人の理解できない趣味・主義を容認する寛容さ」についてです。
アメリカの場合、階級がある程度固定的であるからなのか、その階級における主義や価値観はかなり大きな影響力をもちます。

たとえば学者階級なら外国産のワインなどをたしなんで、部屋の調度品は品良く、スポーツはたしなむ程度に付き合う、という感じであり、肉体を酷使するブルーワーカーなら、ビールはバドワイザー、スポーツはアメフト(またはアイスホッケー)、車はピックアップで仕事帰りは必ずビアバーで仲間とわいわい、という具合です。

日本の学者のように、どてらを着こんでモツ煮を食べながらほっぴーと焼酎を愛し、広島カープを熱烈に応援する、というスタイルだと、他の教員から「あの人は教授にはなれないね」といわれてしまいます。
なぜなら、趣味や趣向が「アカデミック(学術的)」ではない、とされるからです。

これらの価値観から見た場合、アメリカは比較的「変人」を許容しますが、ヨーロッパやその他の国などの歴史ある国になればなるほど、階級差が厳然とあり、変人が許容される雰囲気が減っていきます。
具体的にいえば、学者階級の家族なら強烈な知識欲やこだわり(つまり探究心?)は許容されるものの、貴族階級なら社会適応できない時点でアウトですし、労働者階級ならよほど勉強ができて小学生のうちから大学にいけるぐらい、周りが認めていないと変人扱いだけで終わりです。

その点で言っても日本は「○○が好き」という好みから、本当に「変わり者」であっても、それなりの居場所を見つけることができるといえます。

もちろん生まれ育った場所ですんなり受け入れられるとは限りませんが、不思議なことに日本には、どんな変わり者でも適応できる場所が存在するのです。

もちろん、人によってはMITが居心地がいいとか、インドに行って人生が変わったとか、メキシコが良すぎてもう帰れない、という人もいるでしょう。そういう人はそれでいいでしょうし、そうでない「変わり者」も日本なら居場所があることが多いのです。

ということで、今居る場所がすごくいいとは言いませんが「日本」という広さなら、たぶん世界一「ギーク」を受け入れてくれる場所だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/24 20:47

> 私から見ると、key00001さんも変わり者ですけどね。



たまに言われますヨ。
自分じゃノーマルなつもりですけど。

別に「貫く」なんて気張ってるつもりもないし。
自分の意思を貫くのに、日本が特に不向きな環境などとも思いません。

優れた意思であれば、それを貫けば賛同者が増え、変わり者はリーダーとなり、逆に賛同者が居なければ孤立し、変わり者のまま。
基本的には、それだけのことかと。

私の友人,知人の政治家,経営者や企業幹部など、何らかリーダーシップを発揮している人間は、ほとんどそう言う連中です。

「出る杭は打たれる」は、日本に限らず世界の常識です。
しかし松下幸之助翁の言葉だったと記憶してますが、「出すぎた杭は打たれない」そうですよ。

日本が変わり者を貫くのに不向きと言うより、日本人は協調などを重視する結果、自分の意思は余り表に出さず、フォロワーに回る人が多いだけではないですかね?

ただ、そう言うフォロワーの方が圧倒的多数であって、真の変わり者は、そっちに潜んでます。
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沈没しようとしている船の船長が、日本人を海に飛び込ませる方法。


「みんな飛び込んでいますよ。」と言う。
まさに、沈没船ギャグが日本人を表していると思います。

昔から日本人は、巨人、大鵬、玉子焼きと、皆で同じ物を愛するのが好きなのです。
一般的に多数派にいることが心地良いと感じ、違う人がいると白い目で見がちでした。

しかし、最近は徐々に変化してきていると思います。
特にビジネスにおいて、人と同じことをやっていては勝てないということに、
ようやく気が付いたのでしょう。
個性が求められる仕事では、必要とされるかもしれません。
サラリーマンで一般的な仕事の場合は割り切るしかありませんが、
少数意見を認める人間も増えているので、そういう人と付き合えば良いと思います。
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私も変わり者です(^^)



先ず、ある程度の前提として「日本人相手に正論を言っても意味がない」事は認識しておいた方が今後のためかもしれません。
日本人の生息域エリア内であれば日本人は結構秩序良く頭の良い品のある民族だと思いますが、一歩そこから出れば日本人程頭が悪く下品で無法者はあまり居ません。

ただ、私も外国暮らしの経験がありますが、外国も先進国ならそれほど日本と大差はないという印象です。
アメリカ人はさすが人種のるつぼだけあって変わった人にも寛容ですが、寛容である事と根から受け入れている事とは別ですし、欧州の方に行けばそれこそ頭の固い人も沢山居ます。

要するに先進国国民は守りに入っている傾向が強くなりがちでその分現在の社会秩序に反するものに排他的になってしまうのは低レベルな人間として仕方が無い事だと思います。
赤ちゃんに素数の話しをしても全く理解を示さないのと同じです。

あなたが言っている事は内容を知らないので断言はしませんが、少なくともこの質問文内では全うな意見です。
多くの日本人もそれを理解しますが、自らの利害関係の都合でそれを認めない人も居るでしょう。

ですから、あなたは空気を読みつつ敵を作らない様に人と接しないと「暮らしにくい」という事になります。
最後に改めて言いますが、「日本人に正論を言っても意味がありません。諸外国もそうだと思いますが、特にこういう分野に関して日本民族はそんなに賢くありません」。
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違います。

日本全体が「変」なんです。

個性、革新といったようなことが言われて余韻で今度はそのアンチテーゼのような状態に思えます。

何か硬くて同一でないと許せない。しかもその方向がどちらかいえば、間違っている。

非常に不自由な社会です。

統制もいいといわれましたし、変ならばより統制で社会を維持しないといけないということになって。

感情的なんですが、正論(正しいかは別で)を唱えている。

個性はもっていて当然。あなたは自由なだけです。

自由とは例えば「積極的自由」とか「消極的自由」などですね。

「自由」というのは政治学の重要テーマに思えるのですが、リベラルは善くないという風潮まで登場しました。

「伝統」も軽視しますね。積み上げた習慣も大事なんです。日本は西洋ではないのでキリスト教の倫理観を行ってみても、積み上げもありません。犯罪などは普遍に悪なんですから!
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質問の"変わり者"は具体性に欠けるし、変わり者って言ってもピンキリでしょう。

ある意味誰にでも当て嵌まる事じゃないですか?
遠慮や配慮のない人間を変わり者と称し、それを許容しない価値観をネガティブに捉えるのって、何か変です。

欧米にだってタブーは山ほどあるし、タブーを犯せば攻撃されるか爪弾きされる。差別やイジメだって日本なんて比べものにならないくらい溢れかえっていると訊きますよ。

外国と比べたら日本(日本人)は他人に関して寛容な国だと思いますけどね。質問者さんの欧米への憧れはたぶん幻想じゃないでしょうか。
と言うことで、答えは単純明快。"人間社会"は「変わり者」を貫くのに不向きな環境です。
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No.2です。



love_pet2さんおコメントを読みました。
love_pet2さんの云いたいことはよく分かりますよ。
そのように率直に書かれればよく理解できます。
書かれていることはおかしくありません。
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それ・・「天然キャラ」と同じでしょう。


ホンモノの「天然」では無いのですよ。

変わり者も、環境によって、貫いたりやめたりするモンじゃありませんし、出来るモンでもありません。

質問者さんは、「個性的であろうと努力する人」でしょ?
変わり者ってのは、努力も意識も何もせず、変わってるのですよ・・。

「変わり者キャラ」を貫くかどうか?と言うことです。
言わば「芸風」みたいなモノですから、「お好きになさって下さい」としか、言い様が無いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私から見ると、key00001さんも変わり者ですけどね。

お礼日時:2013/12/24 20:48

私は学生の頃から「変わってるね」といわれていました。

んで、この「変わってるね」にどう答えるかでその人が変わってるかどうかが分かると思うんです。
「変わってるね」といわれて「そうでしょ?俺ってちょっと変わったヤツなんですよ」という人に変わった人がいた試しがない。だいたいが「変わった人を演じている人」です。
変わってる人は、だいたいそういわれるとみな不満そうな顔をして、「よくそういわれるんですが、私は何も変わってない人です。ただ、世間が変わってるんだと思います。私はフツーです」といいます。私もそう思ってました・笑。自分はおかしくない。世間の価値観の方がおかしい。そう思っていました。

社会に出ると、そりゃもう要らんトラブルばかりです。というか、アタシがトラブルメーカーになってしまうわけですな。
昔、アップルがシンク・ディファレントというCMをやっていて、そこで「クレイジーな人たちがいる」というCMがありました。その中の言葉で「丸い穴に四角く入る」という表現があり、私は妙に納得しました。若いときの私は、丸い穴に四角く入ろうとしていたのです。そりゃ世間様と軋轢を生むわけだ。
それでときにはうつ病を患うほど世間と折り合いが合わず、今は「フツー(人と同じ)が一番なんじゃないのかなあ」と思っています。だってさ、人と同じは嫌だからといって手で歩き始めたら、世間はこいつは頭がおかしくなったと思うじゃないですか。そうすると個性なるものもしょせんは半歩どころかつま先分だけ前にいるに過ぎないわけで(それ以上前に進んじゃうと丸い穴に四角く入ることになる)、そしたらその程度の個性の違いなんてのは些細なことにすぎず、それなら社会と折り合いがつくフツーが一番なんじゃないかと思うのですよ。よっぽどクリエイティブな能力を求められる仕事に就くなら話は別でしょうけどね。

私も若い頃は「俺は普通にしているだけなのに、周囲が叩く。なんと暮らしづらい社会だ」と思ったこともありますけど、今にして思えば「だいたいは俺に責任がある」ことばかりです。「俺は普通に道を歩いているだけだ」といっても、幹線道路の真ん中を歩いたら迷惑じゃないですか。排除されるんじゃないんです。むしろこっちがいられなくなっちゃうんですね。「ここは俺の居られる場所ではない」という、自分自身が感じる違和感です。テレビなんかでバッシングをされる人たちも、なんだかんだでなんか余計なことを言ったりやったりしているわけじゃないですか。大人しくしていれば叩かれることはない。「雉も鳴かずば撃たれまい」ってやつです。だから世間から叩かれたりスポイルされたりするのは、言わんでええことを口にしているか、やらんでええことをやっているか、その両方です。自分で世間を敵に回すようなことをやって「俺は叩かれる。世間は個性を認めてくれない」っていうんですから、そりゃ叩かれて当たり前だろ、と過去の自分自身に対して思いますね。

たぶん、あと20年くらいしたら私の言葉の意味が分かってくるかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/24 20:44

これは文化の違いですね。



欧米のキリスト教文化圏では、個人は一人一人が神と
対峙します。
神との約束さえ守れば、他人にどう思われようと
関係無い、という傾向が強いのです。
これが、欧米流の個人主義の淵源です。

しかし、日本ではキリスト教のような神様はいません。
だから、お互いに牽制し合うような文化が
発達したのです。
お互いに牽制し合うことによって、社会の秩序を
維持しようとしているのです。

こんな日本で、欧米流の個人主義を導入したら
自己中の社会になってしまいます。
だって、個人個人の行動に規範という枠が無くなって
しまうからです。

欧米はキリスト教という神との約束、という枠が
ありますが、その代わりを果たしているのが、日本では
世間であり、皆と同じでないと、という規範なのです。

こういう日本では、質問者さんの指摘通り、変わり者は
排除されがちになります。
その代わり協調性が醸成され、団結力が発揮できます。

欧米の個人主義では、変わり者の存在は当然のこととして
認知されやすいですが、反面、協調性が乏しくなります。

そういうことで、これは良し悪しの問題ではなく
文化の違いなのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>世間であり、皆と同じでないと、という規範なのです。
日本人の死刑好きとも関係あるかもしれませんね。#5さんが “ネズミのように笛吹の音に乗って皆で集団自殺する”と言っていましたが、日本人は自滅的な道に進んでいるのかもしれません。 命を命で償う考えを徹底させたら 極端な話 民族の集団自殺ですよ。それで 日本では 大半の人が みんな 笛吹の音に踊らされて 死刑のシュプレヒコールを上げています。 でも、ヨーロッパ人は 笛吹の音に踊らされない人が多いので ベラルシーシを除くすべての国で 死刑が廃止出来たのだと思います。

お礼日時:2013/12/24 21:56

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