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大阪冬の陣の直前 秀頼の要請を受けた真田幸村一行は蟄居先の紀州九度山を脱出して大阪城に馳せ参じました。
紀州は当時浅野左京太夫幸長が治めていた領地で
浅野家は九度山の幸村一行の監視も担っていました。
関ヶ原で敗れ蟄居中だった真田幸村は罪人です。
当然幸村に逃げられたとなれば浅野家は取り潰し物の大失態ですが
浅野家が処分される事はありませんでした(後年芸州広島・播州赤穂に国替えになりますがこの事とは無関係ですし)

何故お咎め無しだったのでしょうか?

A 回答 (7件)

浅野長晟が大阪の陣で大きな武功を立てているので、それでチャラにしたのではないでしょうか?

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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/07 14:35

わざわざ指摘してもらいましたが、長宗我部が大坂の陣の時に大名とはどこにも書いてないんですが・・・


長宗我部が浪人だったから罪人じゃないという論理でしょうか?
改易された上に京都所司代の監視下にある以上、長宗我部も配流・蟄居させられた信繁と罪人という面で変わりありません。お礼では言及されていない毛利勝永も同様です。
板倉も山内もその逃亡を許しても特に処分を受けた様子はないので、信繁の逃亡もその程度ということです。

この回答への補足

質問が大阪の陣のことなので
長宗我部が大名だった=大阪の陣の時

という意味で解釈したのですが?

補足日時:2014/01/05 17:34
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この回答へのお礼

え?
あなたの回答に書いてましたよ「土佐一国の大名だった長宗我部を逃した」って

真田は要するに脱獄と同じこと
毛利や長宗我部は板倉が撃ち逃したって事

ぜんぜん違うことです

お礼日時:2014/01/05 17:33

○取り潰すほどの失態ではなかった。


この程度で改易させていたら、毛利勝永を逃した山内家や長宗我部盛親を逃した板倉勝重も改易させなければならなくなります。小大名の真田の次男よりも土佐一国の大名だった長宗我部を逃がした方が大きな失態ですから。
○大坂の陣では、それを補ってあまりある軍忠を尽くした。
この二つが理由でしょう。
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この回答へのお礼

幸村は当時罪人扱い
それの逃亡を許したって事ですよ浅野は

しかも大阪の陣のとき長宗我部は大名ではなく浪人です

お礼日時:2014/01/05 15:12

当時家康が警戒していたのが父親の安房守昌幸でしたし、なにより関が原以後の取り潰された大名家の


家臣達(とりわけ反徳川)浪人衆の問題のありました。
それらをまとめて処分する口実もあったでしょうね。

ですから功までたてた浅野家を取り潰すには失態としては弱かったのかもしれません。

また大阪の陣でも家康は真田日本一の兵と評しましたが、それも実戦経験者の少なくなった旗本等の
失態を糊塗する狙いもあったでしょうから後年の講談程の評価はしていなかったかも。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/03/16 09:08

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic31.html
家康は大阪入りしたのは親か子かと聞き、子であって安心したとかしないとか。
親が死んでる事も知らない。忘れ去られていた現実。
家臣もろくにいない、どーでも良い浪人。
大坂城内からは、兄の真田信之が東軍なのだから、スパイと言われる始末。
http://sengoku.gflag.biz/?eid=1547270
歯の抜けた白髪ひげジジイが、まさかの予想外の活躍で、実際の戦場では浅野家は東軍で活躍していますから、責任問題にはならなかったのでしょう。

秀忠的には幸村の活躍は、関ヶ原遅参の恥をかき消す材料になって好都合だったり。
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この回答へのお礼

sありがとう

お礼日時:2014/01/07 14:34

>何故お咎め無しだったのでしょうか?



浅野と言えば、有名な豊臣恩顧の大大名ですよね。
真田幸村(本名:真田信繁)は、九度山でも比較的自由な生活を送っています。
直接監視していたのは、高野山傘下の九度山衆と対岸の橋本住民です。
九度山も橋本住民も、幸村に同情的だった様です。
幸村の子息である大助も、川で自由に泳いでいたとの逸話も残っていますしね。
で、脱出ですが・・・。
九度山も橋本住民も、見て見ぬ振りをしたようです。
結果、監視を命じた浅野としても強く叱責を行っていません。
徳川としても、浅野の勢力を恐れていました。
大阪の陣で、浅野が寝返れば豊臣恩顧の武将が一気に寝返る可能性があります。
下手に「幸村脱出の責任を問えば、やぶ蛇」になる可能性がありますよ。
※古文書では、「浅野が裏切った!」というデマが戦場に流れています。
家康としては、「はらわたが煮えきる程の怒り」を覚えたでしようが(豊臣恩顧の勢力を考えると)軽い罰で終えるしかありません。
関が原で大勝しても、未だ豊臣恩顧の勢力は無視出来ません。
関が原でも大阪の陣でも、「豊臣の馬印が戦場に掲げられる事」を家康は恐れていましたからね。
鳥羽伏見の戦いでも、錦の御旗を掲げられると優勢だった徳川軍は戦力を喪失していますよね。
話が逸れましたが、こんな情勢で浅野の罪を問える訳はありません。
また、「裏切った!」という風説を無くす為にも浅野軍も奮闘しています。
結果、プラスマイナスゼロという事でしよう。
完全に豊臣が滅亡してからは、豊臣恩顧の大名を処分しています。
余談ですが・・・。
近所に、「真田幸村伝説」が残っています。
燃え盛る大坂城から脱出した幸村・大助親子及び秀頼一行は讃岐に逃れます。
※当時の讃岐は、五大老と五奉行の仲裁役として豊臣政権下に置かれた3中老の一人である生駒家の領地。
軽症の大助と無傷の秀頼は、ここで休息後に薩摩に向かいます。
重症だった幸村は、ここで療養。同時に、世話をした地主の娘と一男をもうけます。
この子供に家紋と真田姓を与えて、傷が癒えた幸村は(大助・秀頼を追って)薩摩に向かいます。
この地の子孫は、未だ健在です。^^;
全国各地にある「判官贔屓伝説」の一種でした。
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この回答へのお礼

浅野寝返り の流言は後世の作り話ですね

お礼日時:2014/01/05 08:16

もう少し勉強した方が良いでしょう。


徳川家康は陰湿かつ最高権力者ではありますが浅野家は豊臣家に近いお家柄。
徳川は浅野を潰すよりは豊臣家を潰すのは元豊臣家旧臣と言う体にしたかったから浅野家を潰さなかった
それは大戦後も同じです。
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この回答へのお礼

違うな

お礼日時:2014/01/07 14:35

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