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源平藤橘と言えば格式の高い4家を表します

源平は言うまでもなく天皇の末裔であり平清盛や源頼朝を輩出した武士の名門
藤原氏も摂関政治を独占し隆盛を極めた家柄です
しかし橘家はどうしたのでしょう?

橘諸兄や奈良麻呂と言うあたりの名前は歴史でも出てきますが
決してその後出世して名門の家系になったとは聞きません
格式高い4家の一角をなす家柄にもかかわらずです。

橘家に何があったのでしょうか?

A 回答 (3件)

>格式高い4家の一角をなす家柄にもかかわらず



その通りで、一時は「藤原一族よりも、繁栄」していました。

>橘家に何があったのでしょうか?

政敵である藤原一族の陰謀で、「地方役人として飛ばされた」のです。
飛ばされた橘一族は、土着。都に残った一族は「下級とまでは言わないまでも、中級公家」として生き残ります。
もう、藤原家に対抗する力はありませんね。
唯一記録に残るのは、土着した一族ですかね。
楠木正成は、橘一族の末裔だと伝わっています。
親鸞上人・橘逸勢・和泉式部・清少納も、橘一族の流れをくむ様です。
歴史は、勝者が作ります。
日本書紀は、藤原一族の物語。^^;
本当の事は、誰にも分かりません・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/01/25 07:29

私も、ANo.1 さんに同感。



橘氏を除く源平藤は裾野が広い。

だから、第一人者の家が絶えても一族からのし上ってくる者がそのうちに出てきます。例えば源(頼朝)家→足利家など。個々の家として見ると栄枯盛衰があっても、氏族としては権威・利権を保ってるように見えます。

源平と言えば清和源氏と桓武平氏に代表されますが、他の天皇の子孫からも源氏・平氏が多数出ており、地方に出て土着しています。たまたま清和源氏と桓武平氏から武家の棟梁が生まれただけのこと。もし、源頼朝や平清盛の先祖が武家の棟梁としてのし上がれなくても、他の系統の源平藤から武家の棟梁が出たでしょうね。

藤原氏は信じられないほどの子たくさんの一族で、系図を見ていると眩暈がします。鎌倉以降は摂関家だけでも5家。公家の過半数が藤原氏。
その摂関家は藤原北家の嫡流で公家社会の頂点を独占する特権的身分ですが、藤原氏の権力は鎌足から道長へとストレートに世襲していた訳ではなく、初期には南家・式家が優勢だった時期もありました。もし藤原4兄弟がいなくて武智麻呂(南家)だけだったら、武智麻呂の子孫の没落?後、皇室の姻族・摂関家の地位は他氏族の手に渡っていたのかもしれませんね。

一方の橘氏ですが、初代橘諸兄は失脚、二代目奈良麻呂も謀反。最初から躓いており、これではちょっと‥
躓くのが4代目とかだったら、諸兄や奈良麻呂の兄弟の子孫が増えていて、その中から名家橘氏の復興を果たす傑物が出たかもしれませんね。

蛇足ですが、没落?してからの橘氏は、結構子孫が増えていたりもしてます。

ついでに。
源平橘藤というのは、天皇制が確立した奈良・平安以後に皇室から枝分かれした氏族ということでの「格式」で、源平藤橘そのものに特権的身分などの意味合いはありません。なお、藤原氏ですが、当時から不比等の天智天皇ご落胤説が囁かれていました。

源氏の長者(総本家)は足利氏に簒奪されるまでは公家の久我家など村上源氏の一族であり、源頼朝の先祖が代々源氏の総本家を継承していた訳ではありません。平清盛も同様。たまたま源頼朝や平清盛の先祖が武家の棟梁としてのし上っただけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/01/25 07:29

源平と比較すれば、「再生産されなかった」この差だと。



飛鳥時代末、県犬養三千代が元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜った[2]ことに始まる。その子・葛城王が橘諸兄へ改名した後、諸兄の子孫は橘氏を称した。

WIKIPEDIAより引用。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F
いろんな源氏が、発生した

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F
いろんな平氏が、発生した

人数の補給が足りなければ、勝てん
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/25 07:28

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