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右大臣で藤原氏のライバルとは言え彼には政治的な野心もなく
確かに娘を入内をさせてはいましたが その子供の皇子は皇太子でも無く
道真が藤原氏のような朝廷と結びつく権力者になる事は考えにくかったのに…

宇多天皇のお気に入りだったのが気に入らなかったんですか?
まぁ道真を追放したせいで藤原家は散々な目に遭うんですが(笑)

A 回答 (3件)

私は良く知らないのですが、菅原道真は妻子をほっぽって学問に没頭したと言われるくらい、まぁ頭は良いのだけど的な人だったんです。

だから他の貴族にも、ろくに学問もせず親の七光りで出世しやがって、みたいな態度がにじみ出て、周りから鼻持ちならない奴と嫌われていたのでしょう。
権力者(の子供)からしてみれば、自分が権力を持っていて当たり前、せっかく取り立ててやったのに、という感じだったのではないでしょうか。


いや本当のところはどうだったのか知らないのですが。


今は学問の神などとあがめられているけど、「合格させてください」なんて祈っても、「くだらぬ事を言わずに勉学に励め!」などと言われているんですよ、きっとw
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/27 07:48

azuki-7 さん、こんばんわ。



大臣で藤原氏のライバルとは言え彼には政治的な野心もなく
確かに娘を入内をさせてはいましたが その子供の皇子は皇太子でも無く
道真が藤原氏のような朝廷と結びつく権力者になる事は考えにくかったのに…


実はとても親任していた宇多天皇によって道真は藤原時平の対抗馬にされていたのです。それは彼の一族の中で彼がとても高い地位に付いたことでもうかがえます。彼にその野心がなくても時平はそう考えていたのだと思います。
宇多天皇はとても重用しましたが、飽きっぽく、とうとう道半ばで息子の醍醐天皇に譲位します。
最初は醍醐天皇の時代でも昇進しましたが、しかし、とうとう失脚して九州の大宰府に流されてしまいます。その理由は一説によると彼の昇進による妬みや進める政治改革が彼の出身である中流貴族の家格に応じたそれなりの生活維持を考える心に不安の原因になったと考えられ、それが時平の耳に入り、彼の左遷の遠因になったとされています。また、自分の娘と宇多天皇との間に生まれた斎世親王を天皇に着けようとたくらんだという説もあります。また、宇多天皇と醍醐天皇の親子の対立に巻き込まれたのだという説もあります。
彼の性格は漢詩はとても上手ですが、和歌は得意ではなかったようです。つまり、頭脳は優秀ですが、融通の利かない頑固で世渡り下手だったようです。




詳細は下記のURLを参照ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F% …
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/01/27 07:48

>道真を追放したせいで藤原家は散々な目に遭うんですが(笑)


はたしてそうでしょうか。確かに彼を都から追放した張本人である藤原時平は病死しますが、当時は天皇親政だった醍醐、村上天皇を最後にして、次第に政治の実権は藤原氏に移行し、道長の全盛へと至ります。その間に源高明など道真同様に左遷された人物もいます。藤原氏は他の氏族を没落させることで、実権を握ります。
当時、怨霊信仰があって、みじめな最期を送った人物はたたりをするということで、物語などで、張本人の時平がみじめに病死する様を克明に描いた物語が後に残っていると言うにすぎないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/27 07:48

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