A 回答 (10件)
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No.10
- 回答日時:
江戸時代の百科事典『和漢三才図会』(正徳2年=1712年成立)の小麦の項に以下の記述があります。
諸国皆有之 而讃州丸亀之産為上
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/wakan/wakan- … (九州大学デジタルアーカイブ)
小麦は諸国どこにもにあるが、讃岐丸亀の産が上級品だ。
(「丸亀」は現在の丸亀市や当時の丸亀城下ではなく、「丸亀藩」を指すと思われます。)
江戸時代に始まり昭和前半まで盛んだった香川県の麦作は夏に米を作る田んぼで冬に小麦を作る二毛作でした。連作による地力の衰えは江戸時代以降に技術と流通網が発達した肥料で補い、たくさんある平地のため池は、麦作で冬に田んぼに水をためられなくなったために造ったようです。米作に匹敵する大規模な麦作ですから藩の財政を支える年貢にならなかったはずがありませんが、慶弔等でたまに食べるご馳走として、同じく藩の財政を支えた塩と併せて讃岐うどんの始まりにつながったのではないでしょうか。
他の地域については、二毛作地域もあったし、麦しか作れない地域もあったでしょう。米は年貢に差し出して自給用の小麦を細々と作った地域もあったと思いますが、江戸や大坂のような大都市は外食産業が発達したので、それぞれ地域環境や身分、経済力等の違いによってうどんが気軽に食べられたか、ハレの日のご馳走だったか、全く食べなかったかの差は大きかったと思います。丸亀城下や金毘羅門前は江戸時代から外食産業が発達していましたが、一生に一度のハレの日である金毘羅参りのときにしか食べられなかった人がいたかもしれません。
ちなみに、小麦粉を挽くための石臼が普及したのは江戸時代ですが、石臼の材料になる花崗岩も香川県産品です。
No.9
- 回答日時:
4、5 世紀に日本に伝えられ、水田が普及するまで、
主要な食糧でした。
消費量はデータが少なくよくは判らない所ですが、幕末
江戸の名主たちが編集した「重宝録」に、安政3年に
江戸に入荷した物資の書上げが記載されているそうです。
それによると、麦は関東地方からだけ入荷し、
大麦は 49万俵、小麦は 37万俵 だそうです。
大麦はご飯、小麦は粉に挽いて、うどん、菓子、すいとん
などにして食べるとあります。
余談ですが、粟もご飯用、餅用など 8万俵入荷です。
蕎麦も16万俵 (山物という信州の高級品、河岸物と
いう関東の安物をあわせ)入荷です。
蕎麦は意外に少ないですね。
うどん、そばは間食と見て一食一合、使うとして毎日
食べると、年およそ一俵になります。
うどんが30万人分、そばが16万人分になりますか。
No.8
- 回答日時:
これは、ご質問とすこし方向が違うかも知れませんが、小麦食品は九州の一般庶民ではあまり古いものではないように思います。
では何を食べていたのか、と言うことになりますが甘藷先生の地元でもあり、サツマイモの切り干しが根源のものが多いです。
まず切り干しですが甘藷を収穫して、3ミリぐらいの薄切りにして天日に干し、白く不透明なものが「ナマガンコロ」、蒸して天日に干し、飴色になったのが「ユデガンコロ」です。次は前者を粉に挽いて作ります。
1。 じんごだんご
かんころの粉を水で練って、直径3~4センチ、厚さ1~1.5センチぐらいにして蒸す。
http://ameblo.jp/nyao0126/entry-10197791572.html
2。 ろくべえ
練ったかんころの粉を、沸騰した湯に入れて、麺にし、だしで食べる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%85%B5% …
3。 ねったくり
下記に作り方があります。
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%8D%E3%8 …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%82%8A% …
そば、は九州では畑に生えているのを「そま」、そば粉は「そまんこ」、麺になったものを「そば」と区別する地域が少なくなく(ちょうど稲と米の違い)こういったことから、蕎麦は歴史が古いとおもわれます。
こんなことから、麺類の原料は他にあり、小麦粉の需要は今ほど無かったのではないかと思います。
No.7
- 回答日時:
うどんよりそばに親近感をお持ちのようですが、関東地方にお住まいでしょうか?
「小麦を作っていたといイメージできない」というのは、麦畑がイメージできないということでしょうか?
昭和30年代までは、東京の郊外の空き地には沢山麦畑がありました。
稲は水田を必要としますが、麦は通常の畑で栽培することができるのと、秋から春にかけて栽培できることから、畑作作物の裏作として盛んにつくられていました。
江戸時代も年貢の対象外の作物ですから、水田のような大規模な耕作地ではなく、各農家が気楽に開いた土地に作っていたものと思われます。
このために、水田や海外の大規模な小麦栽培の光景からの延長ではイメージがしにくいのかと思います。
蕎麦が現在の麺の形状で食べられるようになったのは、歴史的には非常に新しい食べ方であると言われています。
最も古い文献は1574年(天正2年)のものです。
それ以前には、お湯で練ったいわゆる蕎麦掻やこれを焼いたものでした。
石臼が江戸時代に入ってから普及したのと時を同じくして、麺としての蕎麦も普及していったようです。
但し、なぜ西日本を中心としてうどんが好まれ、江戸を中心とした関東地方では蕎麦が好まれるのかは未だに諸説があって決め手はないようです。
これに対して小麦が麺として食べられた歴史は非常にふるく、奈良時代にはすでにありました。
現在の饂飩や素麺は室町時代には製法が確立していました。
古代中国で発祥した麺が、東へ伝わったのが饂飩で、西へ伝わったのがスパゲッティだといわれています。
また、小麦粉を練って焼いたり煮たり蒸したりして食べる方法も広く普及していました。
日本全国に古くから伝わる饂飩や素麺、ほうとうの類などは今でも各地の名物名産となっています。
千葉県の行徳には頼朝が食べた饂飩屋という判ったようなわからない伝承もあります。
東海道中膝栗毛にも饂飩は登場します。
天麩羅も衣は小麦粉です。江戸時代の天麩羅は屋台で売られていて、今でいうファーストフードでした。
小麦粉の加工品は極めて身近な食べ物だったということです。
又麦わらは、稲わらに比べて硬いことから細工物などに使われました。現在でも各地で民芸品として売られています。
江戸時代には大森の名物としても知られ、江戸名所絵図などの書物にも掲載されています。
プラスチック製のストローが登場する昭和30年前後までは麦わらでした。
江戸時代の子供達も、椋の皮を材料としたいわゆるシャボン玉を楽しんでいました。
饂飩や蕎麦の歴史に関しては、多数のサイトがありますので御覧下さい。
No.6
- 回答日時:
マンガで、しかも戦中の話しですが「はだしのゲン」には麦を育てるシーンがありますよね。
「麦は踏まれて強くなる」は有名なセリフです。んで、日本の農業の場合、原則は「田んぼ」です。ものすごく乱暴にいえば「お米が作れる場所ではお米を作る。お米が作れない場所ではお米以外のものを作る」です。
お米って、これまた乱暴にいえば「それだけ作ってればなんとかなる」ものなんですよ。しかも生産性がすごくいい。種1粒あたりから何粒獲れるかという効率でいうと、麦はだいたい7粒か8粒、つまり7倍か8倍くらいだそうですよ(近世頃のデータです)。ところがお米は30粒くらいの収穫が得られるそうです。さらに、米ぬかには必要なビタミン、ミネラル類が含まれているので、極端な話玄米さえ食べていれば人は栄養不足で死ぬことはないのです。もちろん実際はたんぱく質が足りないのでそこはフォローしなければなりません。大豆はたんぱく質なので、大豆を材料にする食べ物、つまり味噌や豆腐や納豆を食べればよかったのです。かくして、日本人はお米と大豆食品だけ食べて戦後まで来たんですね。「いや、野菜とかも食べただろ」っていうツッコミもあるでしょうが、明治維新後、日本では脚気が国民病として蔓延します。これはビタミン不足でなる病気なのですが、その原因は白米を食べるようになったからです。米ぬかに含まれるビタミンが不足したからです。バランスが良い食事をとっていればならない病気になっていたのですから、当時の日本人がどれだけお米至上主義の偏食をしていたのかって話でもあります。
んで、お米以外の生産地ってのはつまるところ「お米が作れなかった場所」でもあります。青森県や長野県でりんご栽培が盛んなのも、これらの土地はお米栽培に向かなかったからです。静岡のお茶や、愛媛のみかんもそうです。愛媛は山ばかりなので田んぼが作れなかったんですね。全国各地に「そばの名産地」なんてのがありますが、あれはもうはっきりいえば「貧しい場所」で、お米が獲れないから泣く泣くそばを作っていたのです。だいたいどこも土地が痩せていて盆地なんかで水が(日本としては)充分に用意できない場所ですよね。その典型が長野です。長野に山梨と貧しい土地がコンボしていた武田信玄はそりゃーそりゃー苦労していて、あんだけ広い領土を持っていても動員戦力は1万人ちょっと。静岡とグンマーの一部を手に入れた最大版図のときで1.5万人くらいです。一方そのライバルである上杉謙信は新潟1県どころか、実質的に中越地方(と上越の一部。下越地方は年がら年中反乱してました)くらいしか実効支配していなかったのですが、それでもだいたい8千人くらいの兵力動員がありました。しかも謙信は青苧という染料の名産販売で莫大な利益をあげていたのですが、信玄は金山頼み。勝頼の代になると金山が枯渇してきてジリ貧になっています。
ああ話がどえらい脱線した。んで、うどんに関してなのですが、あのうどん県がなぜああもうどんが盛んな理由は私にも分かりません。
No.3
- 回答日時:
No.2
- 回答日時:
日本における小麦の生産はかなり古いのですが、本格的な生産は江戸時代に稲作の裏作として広まったそうです。
以下を参照。http://taniguchiyoshie.com/kojin/hyakka_k01.html
江戸時代でも米の方が圧倒的に生産量は多いのですが、庶民は必ずしも日常的に米を食べられる訳ではなく、雑穀やさつまいもと共に麦も米を補う食品のひとつとなっています。
うどんの他にすいとんとか素麺とかがその食べ方の一つだと思います。
現代で日本の小麦の生産量は少ないのは、価格面でもそうですがもう一つ理由があります。
今の日本では、パン食がかなり多くなっていると思いますが、日本で生産できる小麦でパンに向いた強力粉の元になる小麦が少ないためです。
日本で強力粉になる小麦は北海道の一部で作られている「はるゆたか」とか「キタノカオリ」とか極わずかです。
日本で作られている小麦の多くは、うどん等の適している中力粉が主だと思います。
No.1
- 回答日時:
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