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ロマン・ロランは、一次大戦の時に、仏独両国に対して「戦闘中止」を訴えて、戦争というもの全てに反対しました。
ところが二次大戦の時には、反ファシズム運動をしたことは知られていますが、連合国の戦争にも反対したのか?調べているのですが、良く解りません。
一次大戦の時にロランと双方の戦争に反対することで一致したアインシュタインが、「最早、兵役拒否は許されない」と発言したのに対して、痛烈に批判した、という記事を見ましたが、それ以外は良く解りません。

アメリカに対して、戦争を中止すべきと発言した、ということがありましたら、教えてください。

A 回答 (3件)

補足欄、拝見しました。



先の回答で
>「戦争というもの全て」を否定したわけではありません。
と書いたのは、先の回答でも述べたように、『革命によって平和を』などに見られるように、ロシア革命という暴力革命を支持したことなどをふまえています。

1930年代中期のロランの念頭には、革命への指向性がはっきりと見て取れます。たとえばこんなところ。

「私はバートランド・ラッセルのように「戦争に比べればいかなるものも好ましい」とは言いません。私が自著『母と子』の巻頭に掲げ、あなたもよく引用されるスピノザの言葉を思い起こしてください。(※ラテン語略)
(平和とは戦争の存在しないことではなくて、精神の勇気から生まれでる徳である。)」
(p.609-610『ロマン・ロラン全集18』みすず書房 1922-4-13 書簡より)

「平和主義は今にも中立の立場をとれなくなります――圧政に対しては中立者はあり得ないのです。圧政に反対するか味方するかして、その圧政に関与するのです。そのどちらかの立場を選ばねばなりません。「あらゆる戦争に反対する」と宣言するだけのことなら、誰にでもできます。けれどもあなたがたはそう宣言だけをしていて、被圧制者と圧制者を同じ一つの袋に入れていてはならないのです。(中略)
一.資本主義者およびファシストに対するプロレタリアの決定的な闘争、不可欠の革命。
二.被征服民属の必然的な反乱、植民地の武力的独立。
 この二つについて、あなたがたの態度、行動方針はどちらですか」(p.633-634前掲書「8.平和主義と革命」1933-3-15の平和闘士国際連盟の復活祭国民会議への挨拶)


つぎに、当初のご質問は、アインシュタインに対する批判ということだったはずですが、wikipediaの記事は、ロランがラッセルを批判したという内容ですね?
しかも、wikipediaの該当箇所を確認してみたところ、典拠が明示されていません。カギ括弧の発言も、どこからの引用なのか不明です。仕方がないので本を何冊か当たって調べてみました。

『素顔のアインシュタイン』(マイケル・ホワイト/ジョン・グリビン著 仙名紀訳 新潮社)のなかに、以下のような箇所がありました。

アインシュタインが平和主義者として1930年12月に兵役拒否の提言をおこなったことは先の回答で書いたと思いますが、その3年後の33年6月には、スピーチの要請に対してつぎのような回答をおこないます。

「ベルギーがナチス・ドイツに占領されたと想像してください。1914年の第一次世界大戦でも事態は困難をきわめましたが、そのときよりもはるかに事態は悪くなるでしょう。ここで、単刀直入に申し上げます。私が仮にベルギー人であれば、この状況なら兵役に就くことを拒否しないでしょう。それどころか、ヨーロッパ文明の危機を救う一役を担えると信じて、喜んで出征するでしょう。こう言ったからといって、これまで平和主義のために運動してきた私が、その主義を捨てたというのではありません。軍務を拒否することが人類の発展のために有効な手段となる日がふたたびやってくることを、私は切に願っています。」(p.238 前掲書よりの孫引き)

同書には、アインシュタインがこの発言によって多くの平和主義者からの批判にさらされ、彼自身もまた武力解決を支持する決心を固めるまでに苦しんだことが書かれ、このように続いていきます。

「バートランド・ラッセルもアインシュタインの真意を理解し、その意見に同調した。ラッセルが目覚めたことに力を得て、揺れ動いていた多くの知識人やかつての活動家もアインシュタインの意見に従った。」(p.239 前掲書)

ということで、wikipediaの記述は、この1933年6月の出来事を指しているのではないかと思われます。

ロランがアインシュタインに対して
> ロマン・ロラン等から「変節」であると厳しく批判
したかどうか、なのですが、先の回答にも書いたように、そもそもロランは30年のアインシュタインの「兵役拒否」の提言の段階で批判しており、さらに1933年7月の段階では
「戦争に力強く反対して闘おうと思えば、少数のすぐれた良心の持ち主たちが個人的に戦争を拒否するだけでは不十分なのです。…略…
戦争反対の世界的闘争はもっとも緊迫した社会的急務です。誠実で勇敢な人は誰もそれを拒否してはなりません。しかしその闘争は(略)非暴力者と暴力者との協力なくしては、力強く行われ得ないのです。」(『革命によって平和を』三ー7 p.612全集18)
と言っているので、ロランによる「変節」批判というのは、どうも的外れではないかと思います。

ロランがラッセルに対して何らかの批判を行ったかどうかは、当たった本の中では確認できませんでした。ただ、社会主義者であったバーナード・ショーとはちがって、社会主義にもロシア革命にも距離を取っていたラッセルが、第二次世界大戦の勃発とともに平和主義を捨て、ファシズムの壊滅に立ち上がろうとしたことに批判したとは思えません。当のロラン自身が先の回答にも書いたように、当時のフランス首相に対して、支持を表明したことと考え合わせても。


最後にwikipediaの記述ですが、個人的にはこれを「変節」と呼ぶのは、当時の諸情況を一切無視した、あまりに戦後バイアスのかかった見方ではないかと思います。ただ、このことに関してこれ以上自分の意見を述べるつもりはありません。E.H.カーの『危機の二十年』などを読んでいただければその趣旨などはおわかりいただけるかと思いますので、これ以上の回答は控えさせていただきます。
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この回答へのお礼

完璧なお答えをいただき、納得し、感謝します。

お陰さまでロランの考えが、良く解りました。

以下は私の質問の背景の説明です。

私は戦争は全て悪い、という思想を作ろうと思っているのですが、それは本当に困難なことだと思っています。
その一例として、ロランが一次大戦の時に独仏双方に戦争中止を要請した発言を高く評価しました。
しかし二次大戦の時には、ドイツ側を一方的に非難したようなので、私としてはちょっとがっかりして、そのことを質問で確認しようと思ったのです。

そしてお答えのように、私の想像の通りと解りました。

私は個人的には、太平洋戦争について、日本だけに戦争責任があるというのは一方的で、アメリカの責任も追及すべし、という考えを持っています。

世界から戦争を無くすためには、そういう考えが必要だ、と考えるからですが、ロランやラッセルもそうでは無かったことを知り、残念に思っております。

現在の常識では、ロランの態度変更は、肯定的に見られている、ということは理解しています。

負け惜しみになりますが、「戦争は全て悪」という思想を基準にすれば、やはり「ロランは変節した」と表現したいのが私の現在の気持ちです。

本当に有難うございました。

お礼日時:2014/02/13 22:05

ご質問を拝見して、わたしの理解していたところとは異なっていたので、ちょっと調べてみました。



> 仏独両国に対して「戦闘中止」を訴えて、戦争というもの全てに反対しました。

おそらくこれはのちに『戦いを超えて』というタイトルで出版される、いくつかのメッセージや公開状などを含めた本のことですね。ロマン・ロラン全集18巻に所収されていますので、それが出された経緯などがわかると思います。ドイツ-フランスの開戦に湧くドイツやフランスの知識人に対する批判と、その戦争に対する批判はありますし、もちろん戦争そのものも強く批判しているのですが、「戦争というもの全て」を否定したわけではありません。

> 一次大戦の時にロランと双方の戦争に反対することで一致したアインシュタインが、「最早、兵役拒否は許されない」と発言したのに対して、痛烈に批判した、という記事を見ましたが、それ以外は良く解りません。

これが何のことをおっしゃっているのか、ちょっとわかりません。もし典拠がありましたら、ご提示下さい。本で見る限り、逆ではないかと思えるのですが。

前掲書にも所収されている『革命によって平和を』という論文集の三つめに「良心的反対と革命」というものがあります。それにアインシュタインに対する反対が述べられています。

アインシュタインは「地球上の住民の2%が、平和時に戦争拒否を宣言すれば、国際間の紛争は解決できる」と考えました。

> 「最早、兵役拒否は許されない」と発言した

のではなく、兵役拒否をすることこそが、戦争を不可能にする具体的な方法であると提案したのです。それに対するロランの回答は以下のものです。

「戦争を速やかに廃止する具体的な方法としては、戦争を生み出す機関たる社会および政府の現在の組織を廃止する以外にはない。現実的には革命家たちは正しい。社会革命が必要なのである。そしてこの革命は国際的でなければならず、さもなければあってはならない」(p.597 『ロマン・ロラン全集18』みすず書房)

当時の彼は、ガンジーの非暴力主義から徐々に距離をおくようになり、「不服従」「非暴力主義」は否定されるべきものではないけれども、現実にはそぐわない、諸悪の根元である資本主義を倒すためには、暴力もまた正しいことを認めなければならない、というふうに考えるようになっています。

ところがロランが傾倒したロシア革命は、次第に彼の理想とかけ離れたものになっていきました。ロラン自身も、反スターリン派と目されて投獄された知人を助けようと手を尽くし、スターリンを含む幹部に手紙を書いたにもかかわらず、黙殺された経験もありました。

社会主義から決定的に離れることになったのが、ドイツのポーランド侵攻と「独ソ不可侵条約」です。第二次世界大戦が開戦したその日、ロランはフランスの首相ダラディエに宛てて公開状を書きます。

「フランス共和国が全ヨーロッパに横溢しようとしているヒットラーの暴虐の道を塞ごうとして立ち上がるこの決定的な瞬間に、平和の老闘士が、危機に瀕したデモクラシー諸国とフランスとの大義に対する全幅の献身を貴下に表明することをお許しください。」(1939-9-3)(p.146 新庄嘉章『ロマン・ロラン』中公新書)

> 連合国の戦争にも反対したのか?

ドイツに宣戦布告して交戦状態に入ったフランスに対して「全幅の献身」を表明したことが、その問いの答えになっていると思います。ファシズムと戦う「フランスとデモクラシー」に対して、はっきりと支持を表明したのです。

全集末尾の佐々木斐夫による「ロランの政治思想」によると、第二次世界大戦期のロランは、レジスタンス運動に精神的には同調しつつも、『ベートーヴェン研究』に献身するとともに、宗教的な熟考の生活に入っていったようです。

> アメリカに対して、戦争を中止すべきと発言した、ということがありましたら

そのような記述は見つかりませんでしたし、晩年に入ってフランスに対する祖国愛が強くなっていたロランがそのような行動を取ったとは考えにくいものがあります。
年譜を見ても、最晩年、パリがレジスタンスと連合軍によってパリが解放されたことを知り、亡くなる数週間前に対独レジスタンス犠牲者追悼集会にメッセージを送ったという記述があります。

この回答への補足

大変詳しい方から、回答をいただき感謝します。
質問文章がちょっと杜撰だったように反省しています。

この質問は、小林啓治著「総力戦とデモクラシー」を読んで考えたことです。

> 仏独両国に対して「戦闘中止」を訴えて、戦争というもの全てに反対しました。

と書いたのですが、
>「戦争というもの全て」を否定したわけではありません。
という回答について、もう少し教えて頂けないでしょうか?
なお次の文章については、
> 「最早、兵役拒否は許されない」と発言した
の典拠は、ラッセルのウィキペディアに下記のようにありました。
「ところが、第二次世界大戦においては、第一次世界大戦に対する反戦の態度とは正反対にナチズムに対抗するために徹底した抗戦を主張するようになった(アインシュタインも彼と同じく、第一次世界大戦の際には徹底的に反戦を主張し、青年に対して兵役拒否をするようにさえ訴えていたにも拘わらず、第二次世界大戦では「最早、兵役拒否は許されない」と発言するなど、変節している)。
第一次大戦における彼の非戦論との違いから、ロマン・ロラン等から「変節」であると厳しく批判された。ラッセルは批判に対して「世界でもっとも重んずべきは平和だと考えているという意味では、私は依然として平和主義者である。けれども、ヒトラーが栄えているかぎり、世界に平和が可能であるとは考えられないのだ」と弁明した。」

補足日時:2014/02/09 21:57
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kobatetu01様、こんにちは。




「9.11」の時に、ありましたよ。
アメリカ議会で。

この回答への補足

質問文章がまずかったようです。

私は戦争をした方両方が悪いという考えです。

一次大戦の時のロマンロランがそうでした。

私としては、ロランは、二次大戦の時も同じ考えで、アメリカに対しても、戦争をするべきでない、と言ってほしいと思ったのです。
しかし現実はどうだったのか?調べてみたのですが、良くわかりませんでしたので、質問しました。
二次大戦の時に、ロランはアメリカの参戦に反対したのでしょうか?という質問です。

補足日時:2014/02/06 19:58
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