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信長は天下統一を完成したときはどのような地位でもって、どういった体制を作るつもりだったのでしょうか?
信長の後に天下人になった秀吉は関白、家康は将軍となり、信長もこの二つに太政大臣を加えた三職を朝廷から打診されていたようですが、これらのいずれかに就くつもりだったのでしょうか?
それとも信忠を将軍なりにして自らは無官ながら超然とした地位で統治するつもりだったのでしょうか?

A 回答 (5件)

信長の政権構想については確実なことは分かっていません。


昔から研究者や作家がいろいろな推測・創造をしていますが、決定的な論拠があるわけではなく結論は出ていません。
最近の研究では、過大評価された信長を等身大に見直す動きが進んでいます。別に全国統一を目指していたわけじゃなくて、周囲の敵と戦っていたら、自然に領土が拡大した。それに合わせて徐々に組織や体制を改変していったという。
最近の研究成果を取り入れてまとめられている本として池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)がありますので、ご覧ください。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b105563.html
http://www.amazon.co.jp/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF …

ただいえるのは、信長にしろ、秀吉にしろ、家康にしろ当時の権力は地位が先ではなく、実力による支配が先で地位は後付けということです。
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推測に依らざるを得ないですが、安土城に天皇を招く構想が伺われているからには、自分が太政大臣の地位につく意思があったのは濃厚ではないかと思います。


早い段階で信忠に家督を相続させたことから考えると、将軍なり関白なり実務が増える面倒な職務は息子に押し付け、自分は太政大臣として天皇の権威のもとに力を振るう構想だったのではないでしょうか?
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最近の研究では三職推任は朝廷からではなく信長自らが朝廷に打診していた という事がわかっています


つまり 官位など興味ないと思われていた信長か何らかの地位に就こうとしていた と言う事です
あるいは 源平交代思想をぶち壊して 自らが将軍になろうと考えていたのかも?

それを阻止するために朝廷と光秀が組んで消されたという説も…
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 信長の三職推任問題って個人的には本当の事か懐疑的に思っています。



 なぜなら、肝心の三職の権威が釣り合っていません。

 そもそも太政大臣って関白や将軍より遥かに格上(摂政や関白を務めた者あるいは江戸時代の将軍の中から極一部の者が就任する。)です。
 (太政大臣の職務は「天皇の師範で、天下の手本。国家を治め道理を論じ自然の運行を調和させる。」とされ、中国の三師と三公を一身に兼ねる存在とされた。故に唐名は「大相国」)

 秀吉や家康でさえ、自ら関白や将軍を辞めて他者に引き渡しても、太政大臣は死ぬまで自分一人が保持していたのですから…。
 (まあ、家康は病床の身に成ってやっと貰えたのですが…。)

 なので、もし本当に信長に三職の推任の様な事例が有ったとすれば、最初に将軍を提案してもダメだしされ関白でも乗り気がなかったので、ダメ元で太政大臣を提案してみた何てのが実態ではないでしょうか…。

 ちなみに、2月に太政大臣に就任したばかりである近衛前久が5月に辞任していたり、こう言う事に聡い秀吉が信長のことを「大相国」と呼んでいたり(毛利輝元に宛てられた手紙において)、信長の戒名が「総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀」(本人が拒否していたような地位をあえて贈って煽る真似をするほど当時の朝廷は好戦的ではないでしょうし、信長本人も生前には了承していたからこそ贈った可能性が高いのでは…。)、と太政大臣を選んだ可能性を示唆する事例が有ります。
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信長は既存の権益を否定して、新しいものを作るつもりだったと思います。


ですから、時の天皇を配流・追放して、徳川家が三代で築いたシステムを
信長の代に全てやってしまうつもりだったと想像します。
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