プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

南モンゴルへの漢民族の入植について

ある掲示板の書き込み
「清国のモンゴル統治時代には、北モンゴルへの漢族の入域が規制されていたのに対して、南モンゴルは比較的、楽に入域できました。」

Wikipedia
「中華人民共和国建国以来60年間にわたる漢民族移入によって漢民族が人口の80%以上を占めるにいたっており」

つまり、清の時代に南モンゴルへの漢民族の入植が始まり、
やがて、中華人民共和国の政策によってその量が急増し、漢民族が大多数を占めるに至った、ということです。

清時代に南モンゴルへ入植することによって、
結果的に現在の漢民族はモンゴルの半分弱を手にしているわけですが、

清時代の南モンゴルへの移住は、漢民族の意図によるものでは無かったのでしょうか?
それともモンゴルと漢民族が、清(満州族)という同じ統治下に置かれたことによる、当然の成り行きなのでしょうか?

A 回答 (3件)

清時代の南モンゴルへの移住は、漢民族の意図によるものでは無かったのでしょうか?




清國政府の方針

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3% …

20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。
以上引用


モンゴル部と満州はそれぞれモンゴル八旗、満州八旗の「放牧地」として漢人の入植や農地化が禁じられていた。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

結論から言うと、南モンゴルへの移住は漢民族の(南モンゴルを奪おうとする)企てではなかったようです。
清の歴史270年のうち、入植があったのは最後の10年だけで、しかもロシア帝国の侵略を防ぐという目的があった。

余談ですが、中華民国時代を含めて、1915年までの15年という短い期間でかなりの漢民族の移住があり、これが現在の中国による南モンゴル支配の原因になっているのですね。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/08 18:50

No2です



そもそもの理解の元ネタは

http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_vie …

中国の歴史(10) ラストエンペラーと近代中国
清末 中華民国

http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_vie …

興亡の世界史
ダイシンテイコクトチュウカノコンメイ
大清帝国と中華の混迷
興亡の世界史(17)
著者: 平野聡

のどっちかで、主な説明範囲は「中国東北部」

満州に関して、清朝政府の方針は満州八旗の放牧地として農耕禁止であったが、こっそり農民を移民させて農耕に従事させたほうが、儲かるので、政府が農耕民移民を許可する前の段階で、こっそり移民させていたらしい。
この際の主体は、満州族貴族である満州八旗ということになります。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2% …

1875 → 1900で(満州・内モンゴル)
10,000→ 20,000
一千万人から二千万人に倍増

36,000→45,000
同時期の日本の増加率と比べても大きい。つまり自然増加よりも社会増加(移民)があったことが伺わせる。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

清朝末期に明らかに南モンゴルの人口が急増していて、清朝経済の悪化と南モンゴルの開拓が連動しているようです。
南モンゴルで漢民族が多数派を占めるようになるまでの期間は、15年間ではなく、50年間といったところでしょうか。

回答ありがとうございます

お礼日時:2014/02/09 13:01

余り詳しくはないのですが・・・・・


中国が積極的に圏外進出を進めた時期は、極めて限られています。
むしろ、圏外からの侵攻に悩まされた歴史の方が多いようです。
秦の始皇帝は、中夏中原を侵攻して中華を創出し、自ら五族の覇者となりました。
漢代などには西域制覇を試みましたが、必ずしも成功したとは言えません。むしろ、西戎・北狄に冒されないために、万里の長城が必要でした。
モンゴルに征服されたのは宋の時代です。清国は東北の圏外氏族によって建国されましたが、むしろ守るに汲々とし、モンゴルに進出したものがあったとしても、逃亡者の類いかと。
あと、中原に根拠を構えた漢族は、南蛮と蔑称した楚や越を従え、雲南までも呑み込みました。つまり、黄河流域から進出して長江流域を支配下に置きました。上海と北京では、言葉も通じないのに。
また、隋は高句麗を攻めようとして長大な運河まで掘削しましたが、結局は新羅によって追い出されています。蜀は雲南を従属させましたが、道教などの異文化を呼び込んでも居ます。
特徴的なのは「馬」姓に見られるような、イスラム系の中国進出です。陸路から来たものも海路によるものも居るようです。
総じて、古代から見れば支配領土は拡大したものの、守るに汲々としてきたのが中国史の流れで、その流れは今に続いており、年間数万件という暴動の鎮圧に手を焼いています。
モンゴル族は一時的に支配下に置かれたとしても、固有の文化と伝統まで捨て去っては居ません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

清では圧倒的多数の漢民族を少数の満州族が統治することに手一杯だったということで、
大陸である中国の王朝はそれを統一するのに精一杯で、領土拡大まで手が回らないようです。

>むしろ守るに汲々とし、モンゴルに進出したものがあったとしても、逃亡者の類いかと。

清は一応モンゴルを支配していたようですが、漢民族にとって、当時の南モンゴルは積極的に進出すべき土地では無かったということでしょうか。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/08 15:48

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!