アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

大雪の中、他に交通手段がなく、タクシーの長い列・・・
病院で仲々順番が来ず、延々と待たされて・・・
はたまた電車に揺られて職場などに向かう途中・・・

周りを見渡すと、皆ボーっとしているか、
早く順番が来ないかあっち向いたりこっち向いたり、
携帯の画面とにらめっこしているか、
座っていたら寝ている人ばかり・・・
誰一人として本を読んでいない。
いても30人に一人ぐらい・・・

そりゃ偶にはゆっくりしたい、まったりしたい、考え事をしたい、
携帯で仲間とつながっていたい、・・・
わからないでもありませんが、何で本を読まないの?・・・

大変おおきな、おおおおおきな疑問です。

私は、空間と時代を超えた色んな人の書いた本を読み、
彼らの色んな思いや物語から、楽しみや人生へのヒントをもらうことほど、
ためになることはないと思いますが、そのためには
我々の寿命はあまりにも短すぎる。
だからちょっとでも時間が空いていれば、
一刻を争って、一冊でも多くの本を読みたい、
と思っているのですが・・・

又々、何で、自分の考え方を押し付けるのか?
人に迷惑をかけない限り何をしても自由ではないのか?
・・・とお叱りを受けそうですが、
こうも本を読む人が少ないと、
我々の知識レベルや頭脳レベルは、ドンドン劣化の一途を辿るのではないか?

自分は携帯やスマホやタブレットで、新聞や本を読んでいるし、
メールやSNSやネット検索も、文字を読んでいるのに変わりないから、
立派な「双方向の」読書だという人もいるかもしれませんが、
一過性の情報のやりとりと、それ相応の知識人が、豊富で幅広い研鑽・経験をベースに、自ら学んだ知識・ノウハウや思いを文字にした「本」とは自ずから重みが違うと思うんです。

皆さんは、どう思われますか?

尚、本質問で、私はかなり「上から目線」であることを認めますが、ご容赦下さい。
本当に「不思議」なので・・・。

A 回答 (12件中1~10件)

ああ、それはわかります。

私も活字中毒で、数年前は同じように思ってました。スマホがここまで普及する前は、ケータイばかり眺めているのが社会問題化してましたね。

で、今ももちろん電車などに乗ればたいていは読書です。暇があれば読書。でも、最近は「本」じゃないんです。スマートフォンが出てから、読書といえばスマホになってしまいました。

なにしろ本は重たい。五十をすぎると、特にハードカバーの本は持ち歩くのが苦痛です。スマホなら、読みたい本を何十冊も入れて置けるし、いつでも取り出して読める。

それ相応の知識人が、豊富で幅広い研鑽・経験をベースに、自ら学んだ知識・ノウハウや思いを文字にした「本」も、今は多くがデジタルになっています。例えばちょっと遠出するのに夏目漱石の全集をかばんに入れることは不可能ですが、スマホに入れることは簡単にできます。特に古典は、日本語なら青空文庫、洋書はGoogle Bookでたいていはタダで読めます。

そういう人間もいますから、「スマホ=SNSやゲームばかりやってる」という思い込みはどうだろう?と思いますよ。
それと、話は変わりますが……。


>我々の知識レベルや頭脳レベルは、ドンドン劣化の一途を辿るのではないか?

これ、私も常々感じていました。が、そうですね四十代後半ぐらいから、ちょっと考え方が変わってきたんです。私の時代は、どうやら「知性=知識の総量」と錯覚していたように思います。すなわち、どれだけの知識を暗記しているかが「頭がいい」ということだ、と思い込んでいたようです。

が、四十代後半になり、物覚えもだんだん悪くなり、若い頃に学んだことも忘れかけているようになってきて感じたんですね。確かに知識の総量は低下している。けれど、不思議なことに私自身の「知性」はより高まっている、という確信があるのです。

知識を得ることは、目的ではないはずです。本来の目的は「知性を磨くこと」であるはず。が、そのための手段としての「知識の吸収」が、ある時から「それが目的である」と錯覚して生きてきてしまった。そういうところはありませんか?

例えば禅では、そうした知識の吸収を否定し、ひたすら自分自身に問いかけることで知性を磨く道を説いています。例えばさまざまな分野の一人者と呼ばれる人たちは、一般的な知識は決して高くはないのにとても真似できないような崇高な人間性を具現されている方もいらっしゃいます。

私たちは近代になり、「知識に淫する」ようになってから、本来の「ただ課せられたことを愚直に行い続ける」ということによる人間性の昇華を気づかぬ内に否定してしまったのかもしれない。「知識があれば立派になれる」という錯覚により、それ以外の有り様を見ようとしなくなってきたのかもしれない。朝から晩まで毎日本を読み知識をあさり続ける人間と、夜が明けてから日暮れまで毎日田畑を耕してきた人間と、果たしてどちらが人間として優れているか、私には答えが見いだせません。

電車の中で、ぼーっと社会の風景を眺めている人のほうが、実は人の世というのを深く理解しているのかもしれない。

自分以外の人間のことなど、実はわかっているようでまるでわかっていないものです。私にも、あなたにも。そうでしょう? そう考えつつ世の中をぐるりと見渡せば、電車でスマホをじっと見入っている人も、ぼーっと景色を眺めている人間も、こっくり居眠りしている人間も、「ひょっとしたら自分にはわからない世界を経験しているところなのかも知れない」と思えてくるじゃありませんか。

それじゃあ一つ、こっちもぼんやり景色を眺めてみよう。スマホのページを閉じ、そうすれば、なるほど確かに別の世界が見えてくる。それはずっと文字を追いかけて眺めていては知ることのない世界。知性を磨き人間性を高める道は、「知識を吸収し増やすこと」以外にも実は様々な道がある。自分は、ただ「知識を得る」ことのみしか知らず、知識を得る喜びに中毒となっていただけかもしれない。そう思ったりもします。

どんなことであれ、それに拘りを持ってしまえば、それは「淫す」ことである、老荘はそう説いていました。何事にも拘らない若い世代のほうが、実は人間として達観しているのかも知れませんよ。

この回答への補足

お礼に書いた通り、
・知識よりも知性や知恵の方が生きていく上で重要であり、読書の目的も知識よりもむしろ知性を磨くことにある。
・紙の本に代わり、スマホなどの画面で読書している人も多いのだから、「スマホ=SNSやゲームばかりやってる」という思い込みはどうだろうか?
というご趣旨はよくわかりました。

又、私の好きな禅や老荘の世界まで持ち出して頂き、人間の賢さを生み出す源泉が、読書以外にもあることを示唆して頂き、なるほどと思いました。

最初ご回答を読んだ時は、正直言って、「そのくらいのことはわかっているわい!されど、本を読まないよりも読むほうがよいに決まってるわい!」という気持ちが強かったのですが、禅や老荘の精神にも則り、こだわりを廃し、色々な選択肢を是とするお考えにも共感し、又何よりもご自身が変わらず読書家であられるというお姿に共感し、ベストアンサーを差し上げます。

補足日時:2014/03/01 11:39
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この回答へのお礼

私も、「知識」より、「知恵」や「知性」を重視しています。
前にもお礼文に書きましたが、この内、「知識」はネットなどでも得られると思うのですが、「知恵」や「知性」は豊富な読書や多くの友人や知識人との会話などから得られると感じています。
ですから、読書する目的は、知識を得ることではなく、知恵や知性そして「考える力」を得ることだと思っています。

そして、仏教や老荘の思想では、論語などとは違い、必ずしも、いわゆる知識や知性の豊富かつ社会生活も充実した人になるよりも、もっと大事なことがある、と教えていることも承知しています。

その上で、読書して色んな考えや物語を知り、自分の知的財産にすることにより、多くの思考や行動の選択肢が増えるのではないかと思っています。

今の時代は、紙の本だけでなく、スマホやタブレットでも本が読める・・・それならそれでよいと思います。唯、果たして、そうした画面を見ている人の何割が、読書に励んでいるのか、ややもすると、一過性のゲームやSNSにうつつを抜かしている人が多いのでは? 一体スマホやタブレットで何をやっているのか?・・・それは是非知りたいと思います。

お礼日時:2014/02/23 19:12

うーむ。

考えが浅いですね。
私も読書に熱した時期がありました。およそ10年間ほどですが。それを諌めるように大人しく読書する体になった今現在ですが、なぜそのようになったか、と言うと、知識は本だけから得る必要もなく、また他の方が書かれていらっしゃいますが、知性が知識の豊富さと結びつく訳ではないと気付いたからです。
教養というと知識量と勘違いされている方が多々見られるのですが、教養とは知情意のバランスです。
もっと言えば知情意から生まれる深い洞察です。これには知識量は関係しません。
古代人は夜空の星々を深く見ていました。恐らく現代人の我々の方が星々の知識は豊富でしょう。しかし、古代人のように見えているでしょうか。
質問者様が誇る知識も、狩猟採集の生活をする文字の読めない人間の動物や植物に対する洞察力の前には曇ってしまう事でしょう。
質問者様が不思議に思われる方々には何て事ないことでも、質問者様にはできない技能などもあることでしょう。
他人の持つ教養、頭脳を侮らないことです。
知ったふりをしているのが最も教養がないことなのですから。
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この回答へのお礼

質問文に「知識」と言う言葉を使ったため、前回答に続いて、「知識」より「知性」が大事なのではとのご意見のようですが、私も前回答へのお礼に書いた通り、全く同感です。
勿論、沢山読書をすれば「知識」も当然沢山手に入りますが、もっと大事なのは「知性」が得られることです。

そして、その知性は、読書以外の手段、例えば、多くの人との会話、社会の実体験、例えば仕事やバイトや家事、趣味やスポーツなどへの精進や訓練など、色んなものからも手に入るのはわかりますが、読書はお金と手間の最もかからない絶好の手段の一つだということは否定できないと思います。

他人の持つ教養、頭脳を侮ってはいけませんが、読書をしないよりもした方が良いという信念はいささかも揺るぎません。

お礼日時:2014/02/23 19:28

質問者様がなぜ読書に向かないシチュエーションばかり例に挙げるのかが、



私にとっては「不思議」です。

誰がどこで読書してようが、そんなの個人の自由でしょう?

質問者様の見えない所(あるいは見ようとしない所)で読書している人もいる事を

お忘れなく。

この回答への補足

批判に聞こえ、申し訳ありません。
私にとっては「理解不能」という意味ですが、気に障ったら、お許しください。

補足日時:2014/02/23 17:32
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この回答へのお礼

確かに、人によって、読書をするシチュエーションは様々であり、
例えば、
1.家でくつろいでいる、休日の昼下がり、だとか
2.トイレの中、だとか
3.寝る前か起床後とか、
・・・色々あるんだと思いますが、
私にとっては、何と言っても<待ち時間>、
具体的には、質問文に挙げた通勤途上や順番待ちの時間・・・が一番です。
 
なぜなら、自宅や会社では、それぞれ、スケジュールに沿ってやることが多いからです。

そして、そうした待ち時間や空き時間に読まない人は、
それこそ冒頭の1~3の時にもほとんど読んでいないのではないかと思います。

なぜなら、私にとっては「最も読書に向くシチュエーション」であると思われる「待ち時間」や「空き時間」にも読まない人は、その他でもほとんど読まないと思えるからです。
あなたの考えこそ大いに「不思議」で、理解が困難です。

>誰がどこで読書してようが、そんなの個人の自由でしょう?
に関しては、そう言われる方が多いのでは、と質問文に書いておきました。

お礼日時:2014/02/23 17:28

私もしばらく読書から離れていました。



読書癖は、どんどんとエスカレートするものだと思います。読めば読むほど読みたくなるし、面白い本が見つからないなぁ、と感じると、どんどん離れてゆきます。

私は、”人間模様”のうまくかけている本が好きなので、余計です。好きな本は、どうしても長編になってしまいますから、エンジンがうまくかからないと、取り掛かれません。

今回、久しぶりに読み始めたのは、”戦争と平和”です。これも長丁場です。

オリンピックの開会式で、ロシア革命の直前、貴族の優雅な踊りがあって、ボリショイ・バレエのプリマ・バレリーナが二人の年寄り風と絡んで、紆余曲折の末、せっかく青年将校と結ばれたのに、最後には、革命で、倒されてしまいます。

出典がなにか、わからなかったので、長女にきいたところ、”戦争と平和“だという。それがきっかけでした。

以前も、一度読み始めたことがあって、そのときには、会話のフランス語の部分が、訳されていなくて、私の初級フランス語では、なにがなんだかわからず、挫折したのですが、今回調べてみると、そこもきちんと訳されているので、嬉しくなって、読み始めました。

あとは、海外の小説を読んでみると、訳が残念なことも、たまにあります。そうすると、その作家の二作目までは読みたいとは、思えなくなってしまいます。
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この回答へのお礼

”人間模様”のうまくかけている本は、それだけ「タフ」で、長編であることが多いので、読みこなすには、時間と労力を要しますね。
日本の現代作家の書いたものでも、芥川賞や直木賞受賞作品の中には、いくつかそうした「力作」がありますね。私が今読んでいる朝井まかて『恋歌』http://bookclub.kodansha.co.jp/books/topics/renka/などもその代表でしょうね。

トルストイ『戦争と平和』も新潮文庫版で2巻まで読みましたが、その先はまだですし、漱石も、『こころ』に続いて、同時期の『彼岸過ぎ迄』で引っかかっており、聖書に至っては、『出エジプト記』で中断中です。
しかし、いずれも、どこかで、いつかは突破したいと思います。

特に、海外の小説については、訳が残念なこと・・・・というか文化が違うので、訳することに限界があるものが多いのは事実だと思います。

『レ・ミゼラブル』に至っては、本筋から脱線すること甚だしいので、頭に来てしまいました!
→『レ・ミゼラブル』に見る「名作」の冗長さ http://okwave.jp/qa/q7976479.html

お礼日時:2014/02/23 17:15

そもそも、騒音だらけの外で読書なんてしようと思わないんですが…。


よくあんなうるさい環境で読書に没頭出来るなぁ…と思いますよ。頭入ってるんでしょうか。

あと、「読書するぞ!」と思って本を開いても活字を見ると眠くなります。
友人からとある小説(200ページ程度の文庫?)を借りましたが、2ヶ月たった今で10ページも進んでません(笑)
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この回答へのお礼

私は、騒音だらけの外でも、全然平気です。私を呼ぶ声などははっきり聴き分けられますが、関係のない雑音は無視して、読書に没頭出来、頭にも入って行きます。

活字を見ると眠くなる? どこかで読書の方法でも教えてもらったらいかがですか?
前にも書きましたが、「速読法」を学ぶと、集中力や判断力など、人間の基本能力の多くも同時に向上出来るようですよ。

お礼日時:2014/02/22 17:38

仰るとおりですが、読みたい本がないんです



小説・伝記モノはNGで、専門分野はエッセイ

その分、新聞は読むように心がけています

それに今は本を買わなくても電子書籍という方法がありますね

下向いて画面とにらめっこしている人でも、読書中かもしれませんよ?
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この回答へのお礼

読みたい本がない? そんなアホな!
タレント本なり、エッセイなり、世の中に本は、砂浜の砂ほど沢山あり、「よりどりみどり」だと思いますが・・・。
例えば、土曜日の朝9:30からTBSテレビの「王様のブランチ」の冒頭部分で文芸書の「ブック・ランキング」をやっており、大変参考になりますが・・・。
それに本とは紙の本のことと思っておられるようですが、当然電子書籍も入ると思いますし・・・。
ただ、あなたの言うように、果たして皆、読書中なのか?私は疑問に思います。ほとんどはゲームやメールではないの?それに、どの程度の本が電子書籍化されているのか?まだまだカバー率は低いのでは?

お礼日時:2014/02/22 17:33

たぶん周りの人の動向が気になる人は、なかなか本などに集中できないんじゃないでしょうか。

自分もそういうタイプです。

このサイトももう疲れたのでそろそろこの辺で失礼します。
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この回答へのお礼

私が、質問文で、周りの人のことを言ったからでしょうか?
しかし、私は、いつも周りのことなど気にせず、待ち時間には、誰が何をしてようが、ひたすら本を読んでいますよ。正直「なんで読まないのか?」とは思っているので、この質問になった訳ですが・・・。

お礼日時:2014/02/22 17:21

 学生時代は雑誌や文庫本を多く読んでいたように思いますが、インターネットが始まってから急に読まなくなりましたね。

理由は、いくつかあります。

1.本に書き込まれている情報量がインターネットに比べると遥かに少ないこと。インターネットでは大量の情報を即座に集めて熟読出来るのに対して、本では著者の情報収集能力の限界を超えられない。
2.本は文章量やコスト面が原因で、写真、図面、イラストなどを節約しなければならず、白黒でサイズが小さく、画質が悪いのを我慢しなければならないが、インターネットはフルカラー、高画質、大画像であり、文章量に制限が無く閲覧出来るので勝負にならない。
3.本は検索やリンクを貼って他のサイトの情報を閲覧する機能が無く、インターネットに慣れてしまった人間には扱いにくい情報源である為。
4.本は著者の情報操作を見破りにくいが、インターネットでは情報操作を見破るのは比較的容易である為。
5.本を読むと眠くなるが、インターネットを読んでも眠くならないという脳の集中力の持続性の問題もある。(紙面の反射光と液晶表示の光源の違いが原因か。)

 液晶表示に慣れると、本を読まなくなるという傾向があるのかもしれませんね。画面が動いていないと眠くなるのが原因かもしれません。
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この回答へのお礼

インターネットをやると、本を読まなくなる。
インターネットには、本にないメリットが沢山ある。
だから本の時代は終わり、インターネットの時代がやってきている。
(つまり、本は古く、ダサく、インターネットがナウである。)
・・・という考えに、私は、全面的に異を唱える立場です。

最初に書かれているように、本は、紙である以上は、検索機能はないというのはその通りですが、これからは、本もネットで提供出来る訳ですから、本の中のキーワードをクリックすると、その意味や参考情報にもアクセスできるようになる訳ですし、画像やイラストも容量を気にせず、沢山提供できるようになる訳です。

それから、ネットでは情報操作を見破りにくいとのことですが、私は、本の方が、発行に際し、編集者や査読者のチェックを経て発行されていることが多いのに対し、ネットは自由にアップできるので、ネットの方がはるかに情報操作の可能性が高く、信頼も置けないと感じています。

又、液晶画面の方が眠くならないとのことですが、液晶画面をずっと見ていると「ドライアイ」になる危険性も高く、又、赤外線の影響も受けるので、紙の方が、目には優しいし、長い目で見て健康に良いと思います。

お礼日時:2014/02/22 17:18

待ち時間にどうして本を読まないか。


本に集中しすぎて、呼ばれても気づかないからです。

本と言いましても小説です。
主人は本が大好きなので、主人が読み終えて面白かったと感じたものを借りて読んでいます。
前のページに戻ったり、読んですぐ最初から読み直したりの私は、一冊を読み終えるのに三か月くらい掛かります。

趣味の一つですから知識や頭脳レベルの向上を目的にしていません。
しっとりと、落ち着いた幸せな時間を与えてくれるのが本だと思っています。
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この回答へのお礼

まあ、確かに、私も本を読んでいて、あまりにも感動してしまい、電車で乗り越したことが何回かあります。でも、大抵は、周りの音もよく聞こえていますので、呼ばれて気づかないことはまずありません。

それから、私は読書のことを「趣味」とは思っていません。「趣味」よりもっと上の、「食事」や「排便」や「家族との会話」や「仕事」などと同じく、日常の最低限の「構成要素」と思っています。普段、私たちは、生活するために、上記のような最低限の「構成要素」をこなしている訳ですが、読書は、全く違った別の人の人生をもうひとつ生きている(追体験している)ようなものであり、私たちは、本を読めば読むだけ、それを書いた人や登場人物たちの人生をも同時に生きることがかなうのだと思います。

ですから、世の中に存在する本を一冊でも多く読むことにより、多くの時代と空間を超えた人間の人生を、追体験出来る訳であり、一刻も無駄に出来ない、しかし、日中、家や会社にいる時間帯は他に自分に課せられた家事や仕事をやるのに精一杯→だから、通勤時や待ち時間は、読書に宛てる絶好の機会・・・・と思う訳です。

お礼日時:2014/02/22 16:49

ネットの普及していない頃は本を読みあさってましたね


まさに異常なほど・・・。
 小学生~中学生の頃は芥川と太宰、あと武者小路実篤など有名どころは大体読みました。
この頃はいわゆる小説を読んでました

 高校になって江戸の落語~科学書から伝記などそれことは文字があれば何でも読みました
いわゆる乱読家って奴ですね。

 しかし有るとき一つの疑問が浮かびました。きっかけはある戦国時代ものですね。
戦国時代のいわゆる伝記は多くの小説家が出してます。
 しかし同一人物・・例えば有名どころである『織田信長』を題材にした小説は多くの作家が出してます。でも明らかに内容が異なる?
 山岡荘八を始め、司馬遼太郎など多くの方が出してます。自分は手に入る範囲内ですべての本を読みました。同じ人物を描いたものなのにあまりにも違いすぎます
 どうしてそうも内容が違うのか?

 なので実際の信長研究の一等資料『信長公記』を片っ端からよみました。他にも巻末にある参考にしたと思われる資料を読みました。
 後は各地の自治体による発掘作業の報告書など(自分の近くには岐阜城があり、その資料館に行き発掘の資料など読みました)
 結果として思ったのは伝記物といえども多くの作家は実際にあった歴史書なんかあまり参考にしてない。真実を伝えるのではなく、面白くなるように書いているだ・・と

 そしたらなぜ自分は本を読んでいるんだと疑問にぶち当たりました。
 確かに読書は楽しいというのも目的なのですが、自分の読書欲は自分の知識を満たされる喜びが基本であったからです。
 もしその知識の多くが嘘であったなら・・・と自分の行動に疑問を感じたのです。

 今回は歴史書を参考にしましたが、これは歴史書に限りません。経済学や子育て、又は心理学など・・・。結果思ったのは本は嘘だらけの産物であり、本というのは作者の一方通行の意見であり検証作業がなされてない情報に価値はないんじゃないか。。と

 結果自分は全く本は読みません。自分にとって本とは自分にない知識欲を満足させてくれるものであり、それが真実であると検証作業がなされてない時点で不十分であると感じてからは魅力がなくなりました。
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この回答へのお礼

歴史小説に正確性を求めるのは、本来の読み方ではないと思います。
作家によって、同じ人物でも描き方が異なるから、その人物の色んな面や見方に対して、「想像力」が働くんだと思うんです。今、歴史的人物を、同時代に生きて、そのままのその人物を見てきた人がいないから、それでもいいんだと思います。正確性を期したいというなら、小説でなく、歴史資料を見ればいいんだと思います。

「本は嘘だらけの産物」であり、「作者の一方通行の意見であり検証作業がなされてない情報に価値はないんじゃないか」とおっしゃいますが、本の役割には色々あって、正確性を要求すべきものと、正確性よりも人々のイマジネーション(想像力・発想力)を刺激し、愉快にさせたり、元気にさせたり、色んなアイディアを呼び起こすためのものがあるんだと思います。
科学や学術の本は前者であり、小説は後者だと思います。
又、「知識」を学ぶためには、前者の本を読む必要がありますが、「知恵」や「アイディア」を得るには、後者の本も有益だと思います。
それに「嘘」や「想像」はいけないことなのでしょうか? 例えば、「サンタクロース」はいないんだから、「嘘」ということになるのでしょうか? 「神様」や「仏様」や「天使」のように目に見えないものも、「科学的」でないから、皆「嘘」だ、という人が多いかもしれません。しかし、目に見えないからと言って「嘘」とは言い切れませんし、何が正確か、なんて、結局だれもわからないんではないでしょうか?

正確性が保証されないから、本を読まない、なんて、何と勿体ないことなのかと、私は思いますね。

お礼日時:2014/02/22 16:32

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