アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

長文失礼します。読みたくないと思ったら、何も言わず去ってください。一々「よくこんな長い文字を私は読んだものです」とかいりません。見てくれたのはとても嬉しいです。ですが、なんでそんないらん一言言うのでしょうか。嫌なら黙って帰ってください。

あと僕は会話が下手です。書くのも言うのも普通に届きません。ですが頑張って書きます。ので、この質問は他の回答者様の意見や、僕のそれに対する補足やお礼などを通じて、徐々に付け足していって補っていく形になります。わからないところがあればご指摘下さい。






僕はアスペルガー、鬱、強迫、記憶が何でも飛ぶ、僕の中に何人も僕がいる、混沌と渦巻く思考、アダルトチルドレンでもあるのでは? とも言われた、精神的に色々とある人です。


僕は人が信じられません。

父親は僕を殴る蹴る馬鹿にする、二人目の父親はそれにギャンブル好きや酒好きが入りました。怖かったです。

母親は二度結婚しました。一人目と別れた後、何人もの男といちゃついて、僕の目の前でベッドに入ることもありました。寄ってくる男たちはどいつもこいつも母を手に入れる為に僕に「笑顔」を見せて来ました。その笑顔、気持ち悪かったです。

あんなに優しかった祖母は、実は古くから性格がねじ曲がっているらしく、鬱なども発覚しました。自己中心で、自惚れの意味で自分可哀想、悲劇のヒロイン気取りだそうです。しかし僕の前ではあまり見せません。時折最近見ましたが。隠してるんだと思います。良い人を気取るために。自分のために良き祖母であろうと理想に縋って。

祖父は何でも買ってくれました。でもそれは僕に金銭感覚を麻痺させる猛毒でした。孫可愛さの部分もあるのでしょうが、しかし最近気づいたのは、今は僕は別居なので何とも言えませんが、僕の弟にも同じことをしているのです。継続中かもしれません。ですが、其処が問題じゃなく、弟は僕よりも騒ぐので、煩いから買い与えてるというものです。僕も同じようなことだったのでした。煩いから、黙らせる為に物で黙らせる。それにものすごい頑固で、話が聞きません。

そして祖母の鬱に対する理解度がかなり適当。乱雑。というか、鬱にかぎらず、他のことも頭がもう回らない余裕がないのです。「日々生きてればいい」を行く者です。「日々生きて色々見て学ぶ」ことをしません。仕事や祖父母の介護、病気、弟の世話、生活費を稼ぐことのみで限界です。自分のことで精一杯なのです。その上で祖母は自分だけ良ければ良い。弟は子供なので他に目が動きません。

そもそも僕が失敗作なんです。生きてて失敗しかしなかった。怖いもの自体にトラウマなので、僕は怖いものが全部怖い。お化け屋敷なんてものじゃなくて、身体が絶不調になります。震えもあるし、頭も回りません。

僕はどこから僕だったのか? 考えれば、僕はアスペルガーだったので、脳の発達は遅れてます。じゃあそこから僕はもうおかしかった。ずっと昔からおかしかった。それは誰のせい? 親の遺伝子だと思います。

遺伝子上の問題だったら、まだ良かった。教育は? 思い出せないのです。僕が傷ついて知ったものは、家族が教えてくれなかったものでした。

教えてもらったけど僕が忘れたという可能性もありますね勿論。でも、思い返せば家族はそんなものでした。家族が未熟すぎる疑いが非常に強いです。

二十歳で駆け落ちして僕を産んだ母親です。二十歳なんて、未熟すぎんでしょ。僕は、人として未熟ナ人間に育てられたんです。ふざけるな。

それでもここまで育てて貰った恩義? えぇ、勿論ありがとうございます。

ですが、法律は知ってますよね? 育児放棄。子供を産んだら義務がある。捨てたら犯罪ですから。

子供を育てるってことは、慎重に、繊細に、熱心に、少しでも愛を持って、社会に生きてていい人間に育てる教育のことです。僕は、傷ついて知りました。

僕が家庭を疑っているだけ? 考え過ぎ? これだけあってもまだ貴方達は僕が悪いって言うのですか?


僕は失敗作ながらに学校を通い、そしていじめなり、家庭も周囲の世界からの攻撃で鬱になり、暴力陰口、そういった人の在り方等がトラウマとなったりと、色々経験してます。そして家族のそういった現状と過去があって人が怖くなり、信じられなくなりました。僕は一人です。

それでもいのちの電話とかケースワーカーさん、病院の医者さんなどがいます。でも、その人達ってあんまり会えないんですよ。時間とか合わせて会うんです。当然ですよね。

彼らは味方だと思います。でも仕事なんですよ。仕事でも僕の味方になってくれるのは嬉しいです。
でも、僕が欲しいのは仕事としての味方じゃないんです。我儘って言われるだろうけどあえて書くと、愛が欲しかった。

僕に友達も彼女も居ません。自分も信じられなくて大嫌いです。だから、僕は一人に限りなく近い存在です。

そんな中でですよ? 「これまで学校通わせてくれたり、飯喰わせてくれたりした家族がいるじゃないか。何言ってんだ」って言われたらどうします?

こんな家族の何を見ろと? 

そしてこんな家族を理解したところで、何があるのだと?


家族がいるから一人じゃないって言い分、論破したいです。どう言えばいいですか?

A 回答 (17件中1~10件)

No.15です。


もうこの辺で失礼しようと本気で思っていたのですが、どうしてもこの言葉が気になって…

>というか、ここに答えってありました? まだ僕は見るのが怖い。苦しい。

このご質問は真剣に書いたものですよね。
でしたら、ここに寄せられた回答をもう一度よく読んでください。
私の回答を指して言っているのならば残念ですが、みなさんに向かって言っているのなら、もっと残念で…。
怒っているのとは違うんです。そんな単純な感情じゃなくて、ただ寂しいなと思うんです。

私は、みなさん真剣に回答していらっしゃると思いますよ。
冷やかしで書いている方は誰もいらっしゃいません。
私も真面目に書いています。
ご質問者からのご返信も、いつもちゃんと読んでいます。
そっけなくても、グッサリでも、読む前から気が重くなっていても…。
自分が言葉を発した以上は受け止めなくてはと思うからです。
だから、ちゃんと読んでくださいね。

ここに寄せられた回答の一つ一つを単なる文字の羅列じゃなくて、言葉として心として受け止めてください。
一度にじゃなくて良いので、ゆっくり、噛みしめながら読んでください。



詩人の金子みすずさんの詩「わたしと小鳥と鈴と」にもありますよ。
“みんな違って みんないい” って。
http://mandalaya.com/misuzu.html

ここに詩を全文載せたいのですが、著作権の関係上 引用することが出来ません。
でも、詩は優しい温かい言葉で書かれていますから、怖がらないでちゃんと読んでください。素直な心で、そのままに読んでください。


生きていれば、辛いこと悲しいことはあるけれど、自分一人でも苦しいのに、いろんな人の言動が胸に刺さったり、こちらが傷つけてしまうこともあるけれど、それを昇華できるまでに高めることが出来れば、平穏な心で過ごせます。

傷付いて、悲しんで、怒って、人を恨んだり自己嫌悪になったり…。
そういう感情は辛いことだけれど、これを一通り経験しないと慈悲にも慈愛にも辿り着けないんです。
慈悲も慈愛も自分を憎んでいては、決して生まれない感情なんです。
自分を許すこと(愛すること)が出来て初めて相手を許すことができるんです。

私はクリスチャンではないけれど、確信を持って言います。
「汝の敵を愛せよ」とは、「汝の敵を赦(ゆる)せ」であり、「自分を赦せ」ということなんです。
いつまでも魂を茨の牢獄に縛りつけていないで、解放しなさいってことなんです。
自分を許すというのは自惚れではなくて、もう充分に苦しんだんだって自分を認めることなんです。
そして自分を苦しめた人の言動を、もうそれ以上責めないということなのです。

更新なさったご質問と関連があるので。こちらに書かせていただきます。
心が豊かになるということは、それぞれの違いを存在を認めて、自分の中で調和して行くことが出来る心のことです。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。心がざわついて見れない時があるのです。見れたとしても、どの答え良いのか、判断に迷う時もあります。

お礼日時:2014/03/19 13:24

No.15です。


誤字を訂正します。

誤:何度も突き合せて申し訳なかったですけれど
正:何度も付き合わせて申し訳なかったですけれど

誤字のままだとまるで “ど突き合い” ですね。
笑えないけれど、そちらの方が近かったかもしれないですね。

最後まで誤字の多い投稿だったので、申し訳なかったなと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

わかりました。

お礼日時:2014/03/17 23:16

No.14です。

ご返信ありがとうございます。

>今になって思ったけど。
>僕はどの僕でこの回答達を見ればいいのだろうかと感じた。

ぶれた回答ということでしょうかね。
私も誰に向かって回答してるのか、ときどき解らなくなります。
ご返信の印象が、その度に違って感じられるので、聞きたかったことと違っていたのかなと何度も思いました。

年相応の印象のご質問者、自己否定感が強くなっているご質問者、批判心で一杯になっているご質問者、他者理解をしようとしているご質問者、泣くのを我慢している子供みたいなご質問者、荒ぶるご質問者。

いろんな面をここで見て来たので、一体、誰に対して答えているのか解らなくなって、自分でも何を書いているのか、何を伝えたかったのか解らなくなっているときがあります。


>でも回答をくれたことは、どの僕も良いようには思えてる。感謝してるのか、それとも攻撃ができるからなのか知らないけど。

近頃は、私が書いたことで、たくさん傷付いたし腹を立てたり、混乱したのだろうと思います。
でも、私に向かって怒りたくても、何度も我慢して来たんだろうなとも思います。
ともかく、読むのが辛いんだなって解釈しています。
きっと私は触れてはいけない部分に何度も触れてしまったのだろうから。


コメントの再度の引用すみませんが、
>そもそも僕は知能指数が低い部分がある。だから誰かへの配慮とかできないんだって今日、発達障害センターで知りました。

正直な話、ご返信の内容で、グサッと来たことはありますけれど、でも配慮していてくれていたんだろうなって、私は思っています。
他の方に向かって荒れているところを見たこともあるけれど、でも、本当はもっと怒りたくても、我慢しているんだろうなって思ったことがあります。

ご質問も、ご返信も意味が解らないと思ったことはないし、知性が低いと感じたこともないです。そう書くとご機嫌取りと思われるのかもしれませんが。
知性が低いとは思わないけれど、ご質問者は時折、子供に返ってしまっているのだなと、読んでいて思えたことがあります。


私には心の中はきちんと見えていなかったかもしれませんが、少なくともご質問者が書くものは、文章としての意味は通じていました。
質問の意味が解らなければ参加は出来ません。
回答をして、返信中に意味不明な問いがあったら、困りますので。

そういうのはスルーすることでやり過ごすのが大人のやり方なのでしょうけれど、それが出来ない質なので、読解不能であればそのまま通り過ぎて、参加することもなかったです。

何度も突き合せて申し訳なかったですけれど、ちゃんとした回答がもうここには出ていますし、他のご質問でもそうですし、私の役目は何もないなと思っています。

 それでは、失礼いたします。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

また何かあれば質問します。そしたら答えてやってください。

というか、ここに答えってありました? まだ僕は見るのが怖い。苦しい。


そして、解離してる僕を纏めてくださってありがとう。そういった自分もいるんだなぁと思いました。

お礼日時:2014/03/17 23:16

No.13です。

お礼、拝読しました。

>貴方の真相は真相ではないかもしれません。

そうですね、書いてる私も相手に期待しすぎな表現だったなと思います。
「真相」というのは当事者(質問文中に登場する、ご質問者の話し相手)にしかわからないですからね。
けれども、「相手に、こんな風に悪く思われた、拒絶された」と悩んでも、それはやはり推測であり「真相は相手しか解らない」のです。

自分としては相手の言動から受けた印象で悩み、苦しんでいるけれど、「相手の本当の心は見えない」のです。本当に悪意や攻撃心だけだったのかは解らないんです。
けれども、自分が相手に持ったイメージで苦しめられているということ、これだけはハッキリしています。

ですから、見えないこと、解らないことで悩むくらいなら、直接問う方が確実なんです。現実には、その場では更に問う状況じゃないときがありますし、時間を置いてから問えば、先方からは、もう済んだことだと片づけられてしまうこともあります。だったら、自分の心の中で折り合いを付けたり、そのことは不問にするよりなくなります。他に方法がない以上は、そこで終えるよりないです。
___________________

可能性の一つとして提示するのなら、「真相」は使えない表現でしたね。
そのぐらい言葉に忠実なご質問者ですから、なかなか対面だと言葉が出てこないのかもしれません。
高機能広汎性発達障害や高機能自閉症の人、アスペルガーの人たちからみると、一般人の言葉は不確実で他人任せなところが多いのでしょう。
ご質問者以外の上記の方たちからも、ご指摘を受けたことがあります。

私は言葉の正確さや、その場の状況に合った表現なのかにこだわりを持っていた小学4年生ぐらいまでは、自宅以外の場で話をすることが苦手でした。
でも、「私に間違いは付きものだから、言葉の正確さや、その場の状況を読む正確さに拘っていたら、私はずっと何も話せないし、何一つ自分の気持ちが伝えられない。どうせ黙っていても、人は勝手に尾ひれを付けて、あれやこれやと人のことを誤解するし、なかったことまで本当のことのように言われてしまう。だったら間違っても良い、こちらから話をしよう。言葉を間違ったときは言葉を直せば良いのだし、状況が読めていないのは経験を積むことで克服できるはずだ」と、そう思って一生懸命話をしました。

話をしないよりはずっと状況は良くなったし、話をすることで場慣れして緊張は随分と軽減され、言葉につっかえることも減り、そのうち つっかえても良いやと思えるまでになりました。今では緊張することは当たり前だと思えるようになったので、そのことをあまり苦にしなくなりました。
苦にしなければ、緊張していたこと自体を忘れてしまうので、いつのまにか平常心で話せるまでになるのです。
____________________

ご質問者は、ご家族とか心が開けている相手なら、わりと普通に話せますか?心を病む前は、慣れた人の前なら普通に話せましたか?
条件が整っていれば、わりと会話が出来る(もしくは出来た)というのなら、言語を組み立てる力そのものには問題はなく、結局は不安(他者評価を気にする心)の方が問題ということになると思います。

色々と悩みを書いてらっしゃいましたが、リアルタイムで即座に話が出来ないこと、これを少しでも改善できれば大きな前進が出来ると思うのですが。
言葉を間違えるときつい場面はありますが、その場で適切な言葉を教えてもらえる(学習できる)チャンスでもあるわけです。
恐怖心を克服するには、その恐怖の中に入って行くよりないと思います。


>そもそも僕は知能指数が低い部分がある。だから誰かへの配慮とかできないんだって今日、発達障害センターで知りました。

アスペルガーの場合、他者配慮についてはパターンを覚えて行くよりないと聞きます。
治療や交渉の効率が悪くなるかもしれないですが、思い切って諸事情を理解している主治医やカウンセラー、ケースワーカーとは、なるべく会話するようにしてはどうですか。そして、会話中に不適切な表現があったら、理由も併せて遠慮なく教えて欲しいと提案し、協力していただいてはどうでしょうか。
筆談は、まだ信頼関係を築けていない人に対して活用して、信頼関係が築けている相手には なるべく会話をする、そうやって自信を付けていくと不慣れな人が相手でも、今よりは必要なときに会話が出来るようになるのでは。
自信を付けるには、信頼できる人に苦手なことを練習する相手になってもらい、場数を踏むようにすることだと思います。

発達障害と診断された人たちは、いろんな面で上達するには確かに時間が掛かりますよね。
それは、短距離走者ではなく長距離走者として生まれて来たということなんですよね。たくさんの汗を流し、たくさんの経験を積むように生まれて来たということでもあるのです。だから、他の人が見落としたものが目に飛び込んで来ることもたくさんあります。失望と発見と期待と、目まぐるしいほどの経験をします。だから、逃げ出したくなること、投げ出したくなることも、きっとあります。

でも、その努力を見ている人は必ずいますし、走った先にはゴールがあります。
気が遠くなるほど遠く感じられるでしょうけれど、ゴールが逃げて行くということだけはないのです。
どんな風に走るのかは結局、自分次第です。
孤独と言えば孤独ですが、同じ時代を生きる人が必ず横を走っているんです。
その姿に焦ったり、励まされたりを繰り返しながら、ゴールを目指して行くんです。
また綺麗ごとだと言われそうですけれども、人生とは そういうものだと思っています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

今になって思ったけど。

僕はどの僕でこの回答達を見ればいいのだろうかと感じた。

当然攻撃的な僕もいるから、そしたら攻撃的な態度しかいえない。

小説もそうだ。今の僕が書いたらどうなるのか。
未熟だ何だという話じゃなくて、色んな僕の中の僕しか書けないと思う。同時に僕達を出すなんて難しいからね。

綺麗事だなんだと、あっちの僕は言うんだろう。

もしかしたらこの文章を打ってる僕も言うかもしれない。

でも回答をくれたことは、どの僕も良いようには思えてる。感謝してるのか、それとも攻撃ができるからなのか知らないけど。

お礼日時:2014/03/17 20:33

No.12です。

何度もすみません。
ご返信を読んで、気になって公開中の最新質問を読ませていただいたのですが、なんか諦観を悲観的な意味に解釈しちゃってますよね?

諦観には、「悟り諦めること」という意味の他に、
「超然とした態度を取ること」
「本質を見極めること」
「諦(明らか)かに真理を観察すること」
という意味があります。

諦観の「諦」とは「つまびらか・まこと・あきらめる」という意味です。
そして「超然」とは、「物事に拘らず平然としているさま・世俗に関与しないさま」という意味があります。
しかし、だからといって諦観を自分に当てはめたとき、何も僧侶のようにストイックなまでに解釈することもないと思うのです。
高尚なレベルではなく市井の人として、一般庶民のレベルで捉えてみてください。


例えば、私自身のことを申しますと、私は楽譜を正確に読み取ることが不得手ですし、運指が出来ませんので、作曲も出来なければピアノも弾けません。
ですから、作曲家やピアニストにはなれません。
才能面はもちろん、経済的な理由や年齢的なものもありますが、そっちの方面で頑張っても芽が出ないということは充分分っています。

でも、縦笛ならばなんとか吹けたし、音痴ではないし、肺活量はそれなりにあるので、歌なら頑張って練習すれば、カラオケやコーラスを楽しむことはできます。個人の趣味として楽しんだり、ちょっとした集まりに参加できるというレベルでなら問題ないです。音楽家になることは無理だけれど、自分のレベルに合わせてなら、私にも自分の力でも音楽を楽しむことは出来るのです。

適正に合わないことを努力するよりも、適性に合ったこと、可能性がある分野を楽しみたい、そう考えるのも一種の諦観ですよね。
何もかもを諦めているんじゃないし、悲観しながら生きているんじゃないんです。


例えば絵です。
娘はペンタブを片手にパソコンで絵を描いています。
娘は水彩画のように、筆で直に画用紙に彩色するのが苦手です。
未体験のはずですが、おそらく油絵も性格的に苦手なんじゃないかなと…。

水彩画ですが、娘は筆に水を含ませ過ぎてしまうし、せっかちなのか勘がいまいちなのか、綺麗に色分けして描きたいところを、紙が乾き切らないうちに色を乗せてしまうから思った色が出せないし、狙い通りの絵が描けないのです。
イラストボードに描くのならまだ良いのでしょうけれど、そんな風に筆をびちょびちょにして描いてしまうので、画用紙もボロボロになってしまいます。
ですから、作品として自分で納得のいく絵が描けないのです。

でも、パソコンなら別です。
パソコンなら水も筆もいらないので、娘は思い通りの絵が描けるんです。
絵の具のチューブと筆と水、それらの加減が解らない娘でも、パソコンなら思い通りの色とタッチが出せるんです。
これも一種の諦観ですよね。
自分に一番合った形で絵を描くことを楽しんでいるんです。
諦観といっても何もかも捨てて諦めろという意味じゃないんです。
解っていただけたでしょうか?
__________

会話に関しての具体例を上げます。

1.口頭の会話が苦手な以上は、自分や相手に合った方法とタイミングを模索して伝達することを考えてください。
まだ認識の浅い相手だと、口頭の会話には限界があるということを自らも受け入れ、相手からも理解を得るようにしてください。

2.会話中、相手の反応が良くなかったときは、先方が困惑していると考えて、一旦引くなり機会を改めるなりしてください。

3.1と2、どちらを試みても伝わらないこともあります。
残念ですが、それは先方にとって、どうしても共感できない話題であったということです。向こうがまだ受け入れられない状態にあるという事実を受け止めてください。

こういった一連の作業を指して諦観と言っています。
ご質問者が真っ先にイメージしたのは3の事例だと思いますが、ご質問者は口頭の会話が苦手だということは相手には必ず伝えてください。
そして、大切な話し合いをするときは、自分でメモを作成するなり、相手にメールするなりして、得意な分野で情報伝達できるよう、相手にも協力を求めてください。簡単な自己紹介を書いたメモを名刺代わりに普段から持ち歩いていれば、トラブルの回避に役立つと思いますので、これも作成しておくと良いと思います。


ご質問者の自己否定感が強いのは長年染みついてしまっているので、仕方ない面があると思いますけれど、でもネガティブを前面に押し出すと、会話を続けることを嫌がる人もいます。
それは、必ずしも理解したくないという意味ではなくて、聞いていて自分までもが辛くなるからという理由で、もうこれ以上は…という人もいるものなのです。

想像力が足りないから受け付けないという人も もちろんいると思いますが、逆に場面をリアルに思い描いてしまう質なので、聞いていて気分が沈んでしまうから、それより先がどうしても聞けない人もいるんです。
「家族がいるだろう」って言った人の中には、家族のことを気の毒に思った人もいたのかもしれないですね。自分がおじいちゃん子だったとか、おばあちゃん子だったとか、逆に早くに亡くなってしまって構ってもらった記憶がなくて、いらっしゃるというだけで羨ましかったり(私は祖父が二人とも早くに亡くなっているし、祖母は遠方に住んでいて滅多に会えなかったので羨ましいです。誰一人として死に目には会えませんでしたしね…)と、そんな風に、どうしても自分と重ねてしまうから、ご家族に同情してしまったのかもしれないですよ。

世の中いろんな人がいますので、話が受け入れられなくても、必ずしも攻撃という意味ではないんです。
ここまでで勘弁して欲しいと、防御目的で話の中断を望む人もいるんですよね。辛い話というのは、自分の胸も痛くなるので駄目な人は駄目なんです。
怒って来る人というのは、その人自身も傷つきやすい人なんです。
だから、あなたが悪者にされた、攻撃されたと悩むことはないですよ。

真相としては、その人には辛い内容だったから、先は聞けなかったのでしょう。
ご質問者を嫌ったのではなく、家族を好きなってあげて欲しいと、その人はセンシティブになってしまったのではないのかな。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

貴方の真相は真相ではないかもしれません。

そもそも僕は知能指数が低い部分がある。だから誰かへの配慮とかできないんだって今日、発達障害センターで知りました。

お礼日時:2014/03/17 15:48

>>相手が経験してないことを、相手が理解できない形で説明しても伝わらないし、伝わらなかったから怒るというのはどうなんでしょう。


それは、あなたが相手に完璧を求めたからじゃないですか。

>相手の理解が足りません。
>僕がお願いしたのに、説明もしたのに、相手は僕を攻撃する。


相手が怒ったから、あなたも怒ったってことですね。
攻撃されてしまうのは、ご質問者がある面では幼くても(すみません)、見た目が大人だからでしょう。
実年齢が上がればその分、社会は厳しくなりますね…。
本人が中身が幼いと申告しても、それは甘えだと言って許してはくれないですよね。

人が怒っているときは、精神年齢が低くなっているという説がありますけれど、「理解できない! 解らない!!」って相手が一方的に怒りだしてしまったのなら、まさしく相手が、そうなってしまっていたのでしょう。「そんなの知るか」とか「理解力の低い人間という烙印を押されたくない」という気持ちもあっただろうし、…自己防衛に入ってしまっていますので、向こうの方が攻撃されたと受け取っている可能性が大ですね。

仰る通り、相手の理解が足りなかったのだと思います。
経験が足りないとも言えます。
目に見える形でないと疑似体験できないと理解できない人、想像力が足りない人、配慮が足りない人…。
そういう人が周囲には溢れていて、そもそも、あなたの話に耳を傾けることすらしようとはしない、気の短い人ばかりだったと。


これ以上の失望は辛いから、だから質問をしたということですね。
きっちりリセット(諦観)して、新たなコミュニケーションツールを求めた上での問いならば、問う意義はあります。
怒りとか論破という強烈な表現をしているけれど、そのときのことを今は冷静に振り返り分析したいということであれば、応援したいと思います。

私は私が参加する以前に、ここでは良回答が既に出ていると思います。
だから、私からは相手に言葉が届かない原因を思い付くだけ書きました。
口論のようになってしまい申し訳ないと思いますが、「相手に言葉が届かない原因」をご質問者が見つけることが出来たなら、私にとっても意義のある参加だったと思います。


追伸です。
怒りっぽい人は、そもそも人の話を聞きたがらないものですから(自信を傷つけられるのを極度に嫌うという身勝手な面があるので)…やはり、ある程度は話す相手を見極めたり、このまま話を続けても通じないときがあるということに気が付かないと、辛くなるばかりです。

この回答への補足

困って泣く→困惑と混乱で泣く→どうしようもなくて発狂する→負の感情が次々とでてくる。

補足日時:2014/03/15 15:49
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どうも。

お礼日時:2014/03/15 15:48

諦観を言っておきながら何度もすみません、No.10です。



>貴方も完璧主義者の目線で僕を見ているのですね。

話を蒸し返して申し訳ないですが、ご質問者は過去質問で次のように返答していましたよね。
http://sanwa.okwave.jp/qa8407118.html のNo.22のお礼の中の言葉です。

>俺が正しいままで世界に認めさせないとアイデンティティーは回復しない。俺は被害者だ。
>参考に受け取ってるの裏返しは話を聞いていないだ。


これって、相手に完璧を求めていることになりませんか。
少なくとも私にはそう聞こえます。

参考に受け取るというのは、自分で直に見ていない(経験していない)以上は、そっくりそのまま受け取るのは危険ではないのかと、検証や再考の余地があると考えるときの対処法です。考え方に偏重があると見誤ることがあるから、現時点では割り引いて考えた方が良いのではないだろうか、自分でもちゃんと調べた方がいいのではないだろうかと、そんな風に考えることなのです。

ここまでは確実と考えて良いだろう、しかし、この部分はどうなんだろう?と考えるのが参考に受け取るという行為で、話を聞いていないのとは違います。真剣に話を聞いているからこそ、自分が経験していないことに対しては疑問が生じるし客観的に考えてみたいと思うのです。それは、話者の視点と自分の視点の他に第三者の視点が欲しい、そう考えたときの思考なのです。

しかし、第三者の視点がなかなか得られないときがあります。
そういうときに頼るのが、書籍であったり、メディアであったりするのです。
何回も引き合いに出して申し訳ないですけれど、『毒になる親』という書籍を薦めるご回答がありました。
それは、ご質問者の話し相手には、第三者の視点がないと理解が得られないということを教えてくださったということにもなりませんか。


相手が経験してないことを、相手が理解できない形で説明しても伝わらないし、伝わらなかったから怒るというのはどうなんでしょう。
それは、あなたが相手に完璧を求めたからじゃないですか。


「貴方も完璧主義者の目線で…」に話を戻しますが、ご質問者は自分がみんなと違うことを認めて欲しいと言いながら、何故、何度も「貴方も、貴方方は」という表現をするのでしょうね。
何故、一人一人の人を一括りにして、(わりと最近のご質問の発言からですが)九官鳥だのテンプレだ、ロボットだのと、相手に心が存在していないように言うのでしょうか。

人のことを無機質みたいに、その辺の寄せ集めで出来たコピーみたいに粗雑に言うのは、人としてどうかと思います。
そういった個人個人の人間性を無視した発言をすれば、完璧主義と受け取られるのは必然でしょう。

あなたからして見れば、皆同じに見えても心がないように見えても、現実には一人一人にちゃんと心があり、個性があるということは常に忘れてはいけないと思います。自分の心やあり方を認めて欲しいのなら尚更にです。


>もう一度言いますが、1~10の内の3個をどうにかしてほしいと僕は思っております。それだけで大きく違う。

しかし、同様の質問を繰り返しても、未だに3個すらクリアできないのなら、回答を生かせていないのではないでしょうか。
相手が上手くイメージできるように、その人に合った形で解りやすく伝えられないでいるということなのではないですか。
人によっ説明が複雑になると伝わらないこともありますし、一度に言っても伝わらないこともありますよね。
共有できるコミュニケーションツールが不足していると、ただ状況を説明をするだけでは伝わりません。
先述と被りますが、そのまま言っても伝わらないのなら、要点を解りやすくイメージしやすいように伝える、それには語彙を増やしたり(毒親なんかもそうですが)、具体例(書籍名など)が役立ちます。

それか、周囲からしてみれば、あなたという人が欲求不満で満足を知らない人と受け取られているのではないかと思います。ですから、相手が10個の内の1つでも理解してくれたら、その度に感謝の言葉を伝える、これを徹底するだけでも状況は良くなると思います。実践済みだというのなら話は別ですけれど。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>相手が経験してないことを、相手が理解できない形で説明しても伝わらないし、伝わらなかったから怒るというのはどうなんでしょう。
それは、あなたが相手に完璧を求めたからじゃないですか。


僕が攻撃される。
僕はもう説明してる。
それでも攻撃される。
何故相手が勝手に生きて僕だけが下手下手で最後は潰されるのか。
相手の理解が足りません。
僕はもう十分話した。説明した。
それなのに僕には害として相手が来た。

僕がお願いしたのに、説明もしたのに、相手は僕を攻撃する。

お礼日時:2014/03/15 12:15

度々、心をざわつかせてしまって申し訳ないです。


こちらからの回答はもういらないのだろうな…と思いつつ、しばらく参加できないので、申し訳ありませんが「諦観」を絡めた話を再度です。

唐突ですが、ご質問者はご家族知人を含め、周囲から100%理解されることを諦めては如何ですか?
家族に夫婦、恋人に友人と、どのような間柄であっても、100%理解されることを求めると仲はこじれてしまいます。

何故なら100%理解してくれという発想自体が、相手の個性を無視していることになってしまうからです。
そもそも、友という関係に論破は無用でしょう。
それは、家族、夫婦、恋人にも同じことが言えます。
論破とは言葉によって支配すること同義ではないでしょうか。
そんな窮屈な間柄になると支配と従属関係になり、やがては破綻します。

友(理解者)というのは、互いの価値観を認め合うことができてこそ成立するのです。
考えが既製品のように、そっくり同じでなくてはならない、そんな窮屈な間柄ではないのです。
自分(自我)がある限り、ある程度他者に理解を示せても、そっくりそのまま受け入れられない部分はどうしてもあるものなのです。
そういう感覚をご質問者も経験したことがあるでしょう。
互いの違いを許せない(認め合うことができない)と、そこには友情も愛情も生まれません。

もし、相手のことを100%理解したと思っているのだとしたら、それは違います。長い付き合いがあれば気持ちを読み取る精度はあがりますが、どうしたって、そこには自分の思惑や期待、迷いが混じってしまいます。
言葉だけでは、自分や相手を言い尽くせない部分がどうしたってあるんです。
だから、世の中には詩や歌や音楽が、絵や映像や物語が生まれたんです。
自分のことであっても、言葉だけでは全てを語り尽くせないからです。


以前も私は、そのようなこと(100%相手から理解されることは諦めろという話)を回答に書いたことがあり、ご質問者からは反論をいただいたことがありますが、所詮、人は経験則で生きていますし、想像力も経験に基づいています。
要は、この世の中は「百聞は一見に如かず」であり、雄弁がいつも勝利するということはないのです。

『毒になる親』という書籍を薦めてくださったご回答がありました。
これも「百聞は一見に如かず」に近い着想で具体的で現実味があります。
だから期待が持てますが、しかし、これすらも拒絶する人はいるでしょう。
間近で世界を経験しないと、嘘だとか誇張だとか、気の所為だとか言う人は必ずいるものです。


諦観という言葉の中には諦めという文字が入っていますが、これは単なる諦めとは違います。
無理なことや手に届かないことを望むことは、ないものねだりと同じです。
望んでも手に入れられないということを知るということ、これも悟りであり「諦観」です。つまり、違う方法、違う分野で努力すること、その切っ掛けとなる悟りが「諦観」ということなのです。

納得できないかもしれませんが、相手の人が、
>「お前を理解しろ理解しろって言うけどな、勝手に俺たちにお前を押し付けるな。俺達も理解しろよ」
と言ったのは、向こうは向こうで「諦観」という感覚を、「限度や限界」というものを知って欲しかったんだと思います。

ご質問者のご家庭のことは、他の方のご回答にあったように『毒になる親』で理解してもらえるかもしれません。
そして、鬱やアスペルガーの心理や家族や級友との関係については、動画を観ることで理解してもらえるかもしれません。

【発達障害(ADHD・アスペルガー症候群)】
【アスペルガー症候群】http://www.youtube.com/watch?v=XsZ43-h1e3Y

(※発達障害の特徴の現れ方は個人差がありますので、上記の参考リンクで紹介されている方たちの特徴が全てのアスペルガー症候群やADHDの方たちに一致するということではないということをお断りしておきます。
同じ診断名が付いていても、ある特徴はよく似ていても、ある面は全く該当しないということもありますので、皆が皆そうだということではありません。
参考リンクにある事例は共に女性で家庭環境もご質問者とは違いますが、それでも症状としては、ご質問者と重なる部分があると思います。こういった状況に関しては、映像の方が口で説明するよりもリアルに伝わるものがあるのではないでしょうか。)


自分から話をしても、感覚的に理解してもらえないときは、書籍や映像などのメディアの力を借りるのも手だと思います。
…それでも通じないときは、やはり「諦観」するよりないと思います。
ということで、押しつけはしたくないので私の回答もここで終えたいと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>何故なら100%理解してくれという発想自体が、相手の個性を無視していることになってしまうからです。


貴方も完璧主義者の目線で僕を見ているのですね。

僕は誰も完璧を求めてません。多分。無意識は知りませんがね。

たとえるならば、ただ僕は「僕」であるのだから、その僕が生きやすい形を作るための物だけを配慮してほしかった。1~10の内、僕が生きやすい配慮は其の内の3個だけ。その3個だけを知って欲しかった。

わかりますか? 以前も言ったと思いますが、効率的に悪いんですよ。僕は僕も悪いとは思います。しかし世界の流れは「僕も他人も含めて効率的に悪循環。誰もが自然であると見抜けないくらいに、巧妙に隙なく悪循環」なんです。

僕が今できる範囲は誰かに知ってもらうこと。配慮を頂くこと。

それができたら、僕は少しの違いで大きな違う世界を生きれます。

あとは僕の自助努力。


だが貴方は完璧主義者のように僕を見た。もう一度言いますが、1~10の内の3個をどうにかしてほしいと僕は思っております。それだけで大きく違う。

それでも貴方は完璧を求めすぎと言いますか?

お礼日時:2014/03/14 23:46

私が ご質問者なら、その人にはこう言ったと思います。



「信じたい、信じよう、そう思っても僕の家族は詐欺師同然だった。愛を求めれば、いつも裏切られて来た。だから、体は育っても心を育てられた覚えがない。そう思っている、そう感じている。他人から見たら信じられないこと、歪んだ考えに見えても、僕という人間にとっては、これが真実だ。

生を受ければ誰だって、親から真っ当な愛を注がれることを望むだろう。
僕は贅沢な特別な愛を望んだんじゃない。
真っ当な愛が欲しかっただけ。
でも、それを僕は手に入れることが出来なかった。

僕の家が普通じゃないと知って、悩みはより深刻になった。
皆が皆、僕の家のようであれば、誰も恨んだりはしない、絶望したりはしない。それが普通のことだからと、戦時下の孤児のように耐え忍ぼうとしただろう。身近には、同じ苦しみを抱える人がいるのだから、それで少しは心が慰められただろうから。

でも、戦時下でもないのに、平和な時代のはずなのに、普通の家に生まれることができなかったから、普通の家族を持つことが出来なかったから、そのことに唯々絶望している。僕の家には秩序なんかない。
生まれたときから家は安住の地じゃなかった。

あなたは今の僕を見て明日を信じろ、家族を愛せと言うだろう。
でも、子供のころから繰り返し心に負った傷は、大人になってより深刻になる。傷が治らないまま繰り返し傷を負い続けたからだ。
だから、僕にとって過去は過去じゃなく、今もずっと続いていていることなんだ。

だから、僕には家族が信じられないし、心から愛せない。
だから、僕は一人と同じだ」

…これで伝わらないのなら、他にもう伝えようがないですよね。
相手の人はご質問者の中に、今も傷を負った子供がいるということが見抜けなかったんだと思います。
そして、子どもの頃に繰り返し心に負った傷は、大人になってより深刻になるということも理解できなかった。

相手の人は、目の前にいるあなたは大人だから姿に惑わされて、子供の時の記憶が今もあなたを苦しめているということの重大さが解らなかったんです。・・・辛かったですね。解らない人に解らせようとするほど辛いことはないんですよね。
「諦観」という言葉は、そういう人と出会ったときに必要な概念だと思います。

諦観が元々は仏教用語で悟りの意味を持つということ、ここに人生の悲哀と縮図が感じられます。
この世には限界があるので、解らない人に何百回話をしたとて解らないのです。
歩み寄るようにして去って行った人のことは、「諦観」してください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。

お礼日時:2014/03/13 14:58

No.7です。

ご返信ありがとうございます。
ご質問の背景の詳細をありがとうございました。

>相手「いやそれはお前がおかしい。何言ってんだ。家族がいるのに一人とかありえないから。不幸自慢? 揚げ足取るよ?」

しかし、「揚げ足取るよ?」って本当に言ったのなら、そりゃまた随分と好戦的な人ですね…。
口論になっちゃってたんでしょうか。

相手の人の立場でシミュレーションしてみます。
「現に、こうやって私と会話ができてるじゃないか。だったら家族とだって会話できるはず。なのに、何が一人だというんだ。おかしな不幸自慢して!」…と、そんなことを思っての言葉だったのでは。

しかし、現実には子どもの意見を拒絶する養育者、意見を言わせない親はいますので、この方の考えは偏っていますね。
不幸は嘆くもの、忘却したいもの、克服したいものであって、自慢するものではないです。
その人は家族と意思疎通が取れていたので、ご質問者の話が受け入れ難かったのでしょう。


>でもこの前「僕はこういう理由があるから、というか、貴方達が話しても良いと言ったのに」という状態だったのに、「お前を理解しろ理解しろって言うけどな、勝手に俺たちにお前を押し付けるな。俺達も理解しろよ」って言われたんで、困りものです。

俺たちって、つまり医者でもカウンセラーでもなく、一般人のことですよね?

こちらも相手の人の立場になってシミュレーションしてみます。
「解らないのは、お互い様。あなたがこちらを理解できないように、こちらもあなたが理解できない。自分が理解できないのを棚上げして、こちらに責任を負わせるな」
…といったところでは。

人間とは、自分の感覚に馴染まないこと、未経験のことは理解できない生き物なんです。ご質問者も相手の人も、そこは同じだと思います。
だから先方からは「お前を理解しろ理解しろって言うけどな、勝手に俺たちにお前を押し付けるな。俺達も理解しろよ」と言われたのでしょう。

治療者側のレベルを一般人に求めても肩透かしを食らうと思います。
身近に似たような人がいるならば、一般人であっても真剣に勉強したり忍耐しようと考えるでしょうけれど、しかし、まだまだ病気や障害に関しては「我儘」の一言で済ます人は沢山います。

しかし、ご質問者が相手に少しでも愛情が持てる(持とうとする)ならば、また話は変わってきます。これは先方にも言えます。
相手の人があなたに良い意味で関心を持つならば、状況は変わります。
怖くて勇気がいることだと思いますが、相手を「理解しよう、信じよう」とする姿をあなたが見せ、あちらもそれを感じ取ることが出来たならば、「理解しよう、信じよう」と努力するものと思います。


>否定というか「貴方はそうでしょうね。でも貴方は知らないだけで、僕はそういった人生だったんです」と言ったんです。そしたら相手は話を聞いてくれないし信じてくれません。で、相手の経験から話を勧められて、僕を「考え過ぎてる人」だとかで受け付けてもらえません。

相手の人の態度が、あなたがおっしゃる通りなのだとしたら、相手の人は「あなたが論破したがっていると受け取った」のではないでしょうか。「論破したいが為に家族のことを誇張したり、ところどころ虚偽を交えて話していると受け取っていた」ということでは。…つまりは、妄想癖のある人だと思われてしまったということなのでは。

ご質問者には強迫という症状があるし、他者に対する不信感というのがあるから、家族の話にもそれが表れていると、あちらは受け取ってしまったんだと思います。

先方が ご質問者の話を受け止められないのは、多分、その人が家族愛を信じている人で、実際に家族愛に包まれて暮らしている人だからだと思います。
だから、ご質問者が家族を否定するような話をすると、自分自身と家族が否定されたように感じられてムキになってしまうのでしょう。

一般人は自分の物差しでしか物を語れません。
だから、深刻な話は一般人には語らない方が良いです。


>そして僕が鬱になると「なんで落ち込んでるの? おかしくないか? 病気とか言っときながら、お前の心のせいで病気になってるってのになんで気づかないの?」みたいなこと言われるんです。

その人は自分では話をちゃんと聞いているつもりだったし、自分のことを常識を持った人だと考えていたのでしょう。だから「なんで、こっちが虐めたみたいになってるの?」という態度をとったのでは。そして出した結論が「病は気から」だと。

でも、ご質問者からすると向こうは話を聞くような態度は示さず、経験則でしか物を語らなかったということですね。

しかし、「病は気から」は一理あります。
落ち込んでいるときは、真っ向から対立する人のそばには近寄らないようにしてください。せっかく良い気を溜めることが出来たとしても、これでは擦り減ってしまいますので、辛いときは、なるべく共感的な人と関わるようにしてください。

複雑な家庭の話は、なかなか一般人には理解できません。
理解できるとしたら、同じような経験がある人、もしくはあなたと長い付き合いのある人、医療関係者ぐらいのものと割り切った方が良いと思います。
しかし、医療関係者でも、複雑な家庭の話が解らない人はいるという話も聞きます。

人間の心とは経験で出来上がっていると言えます。
一般人に相談するなら、ある程度年齢のいった人、苦い経験を既に経験した年代の人に話をした方が、まだ理解は得やすいのではないでしょうか。
私の場合、辛いことが一挙に押し寄せて来たのは三十代になってからです。

私の場合は三十代に入るまでは、心をへし折られるほどの挫折体験はありませんでした。しかし今、昔の辛い出来事(特に子供の頃の出来事)を再び体験したら、直ぐに臥せってしまうでしょう。
十代や二十代の頃は、どんなに辛いことがあっても若かったから未来を信じられたし、心がタフだったから余力もあったし、心が折れずにすんでいたのだと思います。

二十代だと青春を謳歌している人が沢山いる世代です。
ですから、ご質問者の場合は同世代の人の中から理解者を探すのは至難の業だと思います。だからこそ、同世代で理解者を見つけたら貴重な存在でもあるわけですが。

ご返信で書かれていた話し相手が幾つの方か分かりませんが、ご質問者と同年代の方だと、まだまだ挫折経験のない人ばかりなので、ご質問者の話が誇張して聞こえたり、不幸自慢に聞こえてしまうことが多いと思います。


>貴方は良い経験をしたのですね、って言うじゃないですか。
>そしたら絶対「そんなことないよ、君も見てるはずだよ?」でしょう?

一般人は「君が忘れてしまったんじゃないのか? 思い出せ」と言いたくなるのでしょう。 経験則で記憶の底にはあるのじゃないかと確信を持ってしまうから、「君が生きているということは、何かきっと良いこともあったはずだ」と。

実際、ご質問者は失った記憶があるんですよね。
だから、「良い記憶も一緒に失った」そう考える人も中にはいるでしょう。

しかし、ほんの少しも良いことはなかったのでしょうか?
良かったことは、何も記憶には昇ってはこないのでしょうか。
絶望だけしかなかったなら、どうやって生きて来られたのだろう…。
そういう疑問があるから、「そんなことないよ、君も見てるはずだよ?」という返事が返ってくるのでは?

それと、「そんなことないよ、君も見てるはずだよ?」とは、本当に家族は全く頼れなかったとしても、過去に「家族みたいに頼れる人や存在は何もなかったのか?」という問として捉えることも可能ですよね。
本当に誰も頼れる人がいなかったのなら、生きて行くのは難しいから、そこに拘る人は拘ってしまうんだと思います。

あなたには全く経験がないと思えるのなら、返答のしようがないことなのですけれどね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

その相手は一般人です。

何故そんな会話になったのか説明したいですが、心がざわついて難しいです。

また別の機会に質問として投稿するかもしれません。其の時は、改めてご回答願います。

お礼日時:2014/03/13 00:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!