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こんばんは。
戊辰戦争って長期化したら清や欧米に侵入されたと思うんですが、
外国の侵略は当時なかったのですか?
なぜ薩長は徳川より圧倒的に強かったのでしょうか。
多くの藩が薩長についたのですか?

A 回答 (6件)

まず清は、後に日清戦争で日本に敗れてしまうように、中身はもうボロボロでした。

外国に攻める気力も実力もなかったのです。そもそも清の実力が最盛期だった頃日本は江戸時代真っ最中で、このときに日本の軍事力は実質的にゼロでした。でも、清は日本を攻めることはありませんでした。なぜか?「攻めるほどの価値もなかったから」です。外国を侵略するにはお金がかかります。戦争もある種の商売で、儲からないとやる意味がないのです。日本にはこれといった資源もなければ中国人から見ると「平らなところもほとんどない」ところだったので欲しくもなんともなかったのです。

一方、欧米は多少は興味があったものの、彼らから見ると日本は最果ての地です。日本では大西洋でぶった切る日本が中心の世界地図を使いますが、ヨーロッパでは今でも太平洋でぶった切る世界地図を使います。その地図で見ると日本は「いちばん東の端っこ」です。日本のことを別名極東と呼ぶのはそういう理由です。
軍事的にも、資源の面でも日本にこれといって魅力は何もありませんでした。けれども、欧米列強はどんどん植民地を求めていたので征服するにやぶさかではなかったのですが、ここで日本は幸運に恵まれます。

まず、世界で最も日本に関心を寄せていたアメリカが南北戦争で極東の地にかまけている余裕がまったくなくなります。ペリーで日本を開国させたアメリカがその後幕末史で顔を出さなくなるのはそういう理由です。
また、ヨーロッパでもクリミア戦争というのが起きて極東の小っちゃい国に興味を持つ人が誰もいなくなりました。
そして、アメリカの南北戦争が別の意味で日本に影響を与えます。南北戦争でミニエー銃ってのが一般的になり、小銃の性能が飛躍的に向上しました。そのため、ヨーロッパでは時代遅れとなったマスケット(ゲベール)銃が大量にダブつくことになったのです。
すると、その極東小国日本がその時代遅れのゲベール銃をボッタクリ価格で喜んで買い漁ったのです。何しろ日本の銃は火縄銃からまったく更新されていませんでしたからね。ヨーロッパでは時代遅れのゲベール銃も超高性能銃に見えたのです。
イギリス人やフランス人は、ここで無理にアジアの小国を征服するより、時代遅れの銃をボッタクリ価格で売って一儲けすることを選んだのです。よしんばその銃はヨーロッパ基準では古くて射程距離も命中精度も悪い銃なのでいざこっちと戦争になっても問題ないのです。
また日本がヨーロッパ人が考えているより文明国で、サーベルを腰からぶら下げてる連中がそこらじゅうにいるのも「そこまでして攻めるところじゃない」と思わせた一因にはなったかなとは思います。

戊辰戦争で徳川幕府が敗れたのは、端的にいえば使い物になる自前の近代的な軍隊を持てなかったことに尽きます。それはお金がなかったというのも理由のひとつですし、何より旧体制の牙城である徳川家にとって近代的な軍隊っつーのは「けがらわしい存在」なのですよ。だってさ、欧米文化とかくだらねえとか士農工商とかやってたわけですよ。徳川家にとって正しい軍隊とは「武士によって構成された、戦国時代のような武装の軍隊」ですよ。近代的装備に勝てるわけがないですよね。
江戸幕府でも近代軍を作ろうとはしたわけですが、小姑みたいな人たちが「なんで夷敵の軍隊の真似をすんだよ」って足を引っ張るわけです。
それは別名「時代の流れに取り残された」というわけで、そういうのは国家体制であれ企業であれ生き残れません。

>多くの藩が薩長についたのですか?

戊辰戦争が始まった頃は、ほとんどの藩が「日和見」になりました。「どっちにつく?」「んー、勝った方につこう」となったわけです。それで、鳥羽伏見の戦いで津藩が幕府を裏切ったことで薩長軍が勝ちますと「こりゃあ時代は新政府だね」というわけで雪崩をうって薩長側にみんなついたのです。中央(当時の中央は京都です)の政治事情に疎かった東北諸藩はその時代の流れに乗りそこなってしまいました。
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そもそもを理解しないといけない事があるのですが…


戊辰戦争で徳川は新政府側ですよ
鳥羽・伏見の戦いは厳密にいうと戊辰戦争には入りません

会津(長州の私怨)・庄内(薩摩の私怨)が討伐対象です
これに対して東北諸藩が、異議を申し立てたから戦争になったのです
あれに参加した幕府軍は正確には脱走幕府軍です
幕府が新政府に恭順したため、これを是としない一部の幹部が兵隊を連れ出したのです
兵隊はただの傭兵ですからお金や食い物を提供すればついてきます

そもそも当時の欧米に日本侵攻を行うだけの武力はありません
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清国は、できたころは


元(ジンギスカン帝国)にならって、日本征服を意図していたが
このころには、国力衰えていた。
それでも、GDP世界一の大国ではあったが。

欧米列強は、しばしば、侵略を狙っていた

・ロシアは樺太千島で、日本と国境紛争し、
さらにプチャーチンは対馬を租借地にしたいと要求

・ペリーは琉球王国や日本が開国に応じない時は、
沖縄を米軍占領下に置き、中国や日本本土進出の基地とせよと
命令されていた。

・攘夷派の暴発で、外人が殺傷されたの口実に、
日本懲罰多国籍軍が編成され、米英仏蘭の四国連合艦隊が、
薩長を砲撃。フランスは幕府、イギリスは敗戦で開国討幕派政権となった薩長を、
支援、日本を保護国化しようとした。
なお、日本懲罰多国籍軍として、横浜神戸の外人居留地警備に派遣された
英仏軍は、明治になっても、数年間駐屯し、この間、条約など外交上の了解も
なしに、日本の一部が、外国に占領されていたことになる。

・なぜ薩長は徳川より圧倒的に強かったのでしょうか。
多くの藩が薩長についたのですか?
武器や戦法で、薩長は若干優位だが圧倒的に強いわけではない。
錦旗の威力で
「朝敵になりたくない、官軍になろう」と、雪崩現象で
諸藩が(尾張と紀州の徳川家まで\(^^;)、徳川から明治天皇に
乗り換えたということ。
佐幕派諸藩と徳川家が海軍と地の利を生かして戦えば、
南北朝や戦国時代のようになったかも。
(日本は列強の半植民地、保護国化するかも)、
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<イギリスによるインドの植民地化>


1601年イギリスに東インド会社設立
1657年東インド会社株式会社化
1757年東インド会社書記クライヴが、プラッシーの戦いで、ベンガル太守を撃破。
1877年イギリス領インド帝国成立(=明治維新が1868年で、明治に入ってからです。)

 イギリスがインド支配を確立するのに、200年掛っています。

 17世紀(1600年代)、世界の三大強国は、オスマン=トルコ、インドのムガール帝国、中国の清でした。
 当時、人口=生産力=強国という図式で、アジア各国はイギリスの10倍以上、清は20倍の人口を持ち、ヨーロッパ諸国よりもはるかに富裕でした。

 しかし、産業革命が起こり、人口≠生産力となり、人口に比べて工業生産物を多量に作れるようになったイギリスなどのヨーロッパ諸国が、余剰生産物を売る市場として、第二次植民地進出を開始しました。(第一次植民地進出は、スペイン・ポルトガルを中心とした、商業・貴金属の略奪経済のための植民地化です。)

 イギリスによるインドの植民地化
 インドのムガール帝国は、日本の江戸幕府や中世ヨーロッパのように、帝国内に有力諸侯(藩王国という)が多数存在しており、その盟主と言う形でムガール帝国の皇帝が存在していました。従って、ムガール帝国内の藩王国同士の戦争やムガール帝国皇帝に対する反乱などもたびたび起こっていました。
 イギリスの東インド会社は、そのような戦いが起こった場合、藩王と戦費の融資や武器の供給契約を結び、その代金の担保として藩王国の徴税権を取得し、少しづつ藩王国の財務を乗っ取っていきました。やがては多くの藩王国そのものを実質的に支配して、藩王達には毎年生活費として決まった金額を渡すという状況を作り上げました。
 200年間、このような事を少しずつ規模を拡大して行い、1877年完全支配に至ったわけです。


 中国においては、
1840年 アヘン戦争(イギリス対清)
1856年 アロー号戦争(イギリス・フランス対清)
 がおこり、アヘン貿易の確立と中国貿易の拠点を確保し、経済進出を開始できるような体制になりました。
 他の回答者さんたちも指摘されているように、清は、欧米の植民地化圧力に押しまくられていました。 


1868年の戊辰戦争は日本国内で戦われたわけですが、このようなアジアの状況を踏まえていました。


<イギリス・フランスにとって最も望ましい状況は・・・>
 戊辰戦争の長期化です。
 薩摩・長州には、イギリスが付いており、戦費・武器の供給はいくらでもしますと言う態勢。
 幕府側には、フランスが付いており、戦費・武器の供給はいくらでもしますと言う姿勢。

 双方ともが武器・戦費の供給を受ければ、戦いは大規模化・長期化して国内は荒れ果て、国力は低下、膨大な借金が残って、借金の形に有力な貿易港を割譲したり、領土や徴税権を差し押さえられていたはずです。


<戊辰戦争>
 徳川幕府は、1867年10月15日に大政奉還をしており、日本の統治権を持っていない一諸侯の立場に戻っています。
 結局、徳川家が戦ったのは、鳥羽伏見の戦いだけですが、その後の行動から見ても、徳川慶喜には戦う気がなかったようです。
 薩摩・長州を中核とした軍が、江戸に侵攻しましたが、徳川慶喜は水戸に退去しています。

 歴史にIFはないと言いますが、もし徳川慶喜が徹底抗戦をしていたなら、当時欧米列強を除けば、東洋最強であった幕府海軍が東日本の海上制海権を確保し、関東に進軍した薩長部隊の補給路がない状態を作ることができたはずです。
 しかし、一方では、これこそイギリス・フランスの望む利権獲得のチャンスでした。

 従って、徳川慶喜は幕府を滅ぼすことで日本を滅亡から救ったと見て良いでしょう。
 幕末の知識人は、欧米諸国のアジア植民地化の過程について、よく知っていました。
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>外国の侵略は当時なかったのですか?



樺太は日本とロシアとの間で両民雑居の条約がもともと結ばれていましたが、
日本が維新前後の騒ぎで力を入れられなかった間に、ロシアは計画的に移民や軍隊を樺太に送り込み、
日本人の人口を十分の一まで圧迫していたので、新政府はカラフト守ることをあきらめ、北海道の開拓に力を振り向けることになって、その結果千島樺太交換条約がロシアとの間で結ばれたのです。
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清にはそんな気持ちも能力も無いね



直接侵略ではなくて、西南軍閥にはイギリスが付いて、関東軍閥にはフランスが付いて、東北軍閥にはプロシアが付いて・・・・
といった感じで代理戦争のようになった可能性はある

資金や軍事物資の支援の代償として、租借地とか鉱山や港湾の利権を譲り渡すとかね

軍隊組織と兵器の近代化(西洋化)が他の諸藩より進んでいたから、緒戦鳥羽伏見の戦闘で勝利を勝ち得た
それまで、事の成り行きを見守っていた諸藩は、勝ち馬に乗らないと自藩の行く末が危ういと判断して
雪崩を打ったように薩長土肥側に付いただけ


鳥羽伏見の戦いで、幕軍側でまともな戦闘意欲と軍勢を持っていたのは会津藩ぐらい、他の藩兵は狩り出された戦闘で出来る事なら参戦せずに済ませたかった
対する薩長側は、倒幕の信念と会津藩への憎念とで戦闘意欲は高かったし、組織も兵器も新式で戦闘能力も高かった
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