プロが教えるわが家の防犯対策術!

 勤労の権利と義務をうたうのは 社会の中で仕事をするよろこびをとうとぶ精神から来ているはずです。

 ところが 権利も義務も何も 市場経済のもとでは あたかも人間もみながその存在(労働力の持ち主)じたいをも商品として売って生きて行くことを余儀なくされています。

 人間を顧慮するよりも 価格という交通信号に従って利益が得られるところへと水は流れて行きます。

 失業という《怠け》は 望まなくても・そのわれわれの意志を超えて 非自発的にこれを余儀なくされているという側面も出て来る。


 この社会の中で 《ニート》以外に 《自律》している場合はあるだろうか?

A 回答 (22件中1~10件)

>ニートは 人間性なる感覚を大事にしている。



人間性を大事にしているのではないですよ。単に社会に対応するための努力を諦めて流されているだけにすぎません。
それを一部のニートは「俺たちは社会の歯車になりたくない」「今の社会は非人間的」などの言葉で誤魔化しているにすぎません。
彼らの多くの本音は「できるならバリバリ働ける立派な社会人になりたかった。そして異性と恋愛を楽しんだり結婚してみたかった」でしょうね。でもそれができそうにないからそれ自体の意義を否定して虚勢を張るわけです。すっぱいブドウですよ。


また、ニートによって家庭が崩壊したり、親が自殺するほど追い込まれることもあります。
そこまでではなくても大なり小なりニートを養わされている家族は苦しんでいます。
まあ一族が資産家だとか、なんらかの手段で若いうちに大金をためて働かなくても問題ないのならニートでも問題ありません。
でもそうでもない一般家庭において自分が家族を苦しめる原因だと自覚しつつもニートである彼らは本当に人間性を大事にしてるのでしょうか。確かにそれは自分の意志かもしれません。でもそれは「自分を律している」と言えるのですかね?
単に働きたくない、怠けたいという欲望に流されているだけではないでしょうか。
それを自分の意志で流されているから自律と言えるのですかね?しかも現実逃避をしながら。
bragelonneさんが自律という言葉を欲望や諦観に流されるという意味で使っているのであれば私には辞書を読んでくれとしかいえませんが。

もしも意図的に家族を恨んでおり、彼らを苦しめるためにあえてニートをやっている人がいるのなら方向性や善悪はともかく自律的と言えるかもしれませんね。

この回答への補足

 おぎないです。

 タトエ話です。必ずしも ピッタリではないかも知れません。
 マルタとマリアという姉妹の話が 聖書にあります。
 イエスを家に迎え マルタは もてなしのために忙しくはたらいているのにマリアは イエスのそばに坐ったまま話を聞くのに忙しかったという話です。

 ▲ (ルカによる福音書/ 10章 38節:マルタとマリア) ~~~~
  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html

 38:一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

 39:彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

 40:マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。

   「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせて
   いますが、何ともお思いになりませんか。
    手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

 41:主はお答えになった。

   「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を
   乱している。
 42: しかし、必要なことはただ一つだけである。
   マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ニートが知らず知らずの内に――あたかも社会の人びとの心の奥で願っているその内容を追い求めてのように―― 無為をえらび頑なにこれをまもっている。これは それとしてとうとび 見守って行ってもよいのではないだろうか。

 という質問趣旨です。どうでしょう。

補足日時:2014/03/20 09:24
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 人間性を大事にしているのではないですよ。単に社会に対応するための努力を諦めて流されているだけにすぎません。
 ☆ そのとおりだと――だいたいにおいて わたしも――思います。ですから 人間性を大事にしているというのは 結果として・社会全体から見て という話です。

 ですから
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 また、ニートによって家庭が崩壊したり、親が自殺するほど追い込まれることもあります。
 そこまでではなくても大なり小なりニートを養わされている家族は苦しんでいます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった問題が起こるときには 長い目で見て 将来へとつなげて見て行って欲しいと思うのですが。


 ★ ・・・でもそれは「自分を律している」と言えるのですかね?
 ☆ ですから 資本主義社会において 社会という観点から・結果論として捉えた場合 ニートが ひょっとしたら 意外と未来社会を――本人たちはおおむね何も考えずに・意識もせずに――見つめて知らず知らずのうちに 呼び起こすような行動を取っているということになるかも知れない。というようなお話です。



 ★ 単に働きたくない、怠けたいという欲望に流されているだけではないでしょうか。
 ☆ それが・それこそが 未来社会の招来にとって とうといことであるかも分からない。というお話です。

 《はたらきたくない・怠けたいという欲望に流され》とおすのも ひょっとしたら 人間性として潜在する能力であり よき自然本性であるかも分からないぢゃないですか。

 全部がぜんぶ よいとは言えませんが 結果的に自律している。のかも知れませんよ。


 皮肉になると思いますが わたしなどは なかなかニートの生き方をすることは出来ないと思います。仕事をさがすでしょうし 何か手伝ってくれと言われたら やるでしょうから。徹底することが わたしには 出来ないと思います。

 そういう姿を想い描くなら そのわたしのような姿は やはり中途半端な人間性を模索しているというふうになると思います。そうではなく 徹底することができるのは 人間としてのチカラであるのではないか。

 結果としてそうだと言えるかも知れないし さらにはそのことが 社会の進展をはばむのではなく むしろよい方向へみちびこうとしているかも分からない。本人たちは 何も考えていず思ってもみなかったということになるとしてもだと思うんですが。
 

 あるいは 思うにですが あるふぁXXXさんのこのような批判ですね このニート批判をも 本人たちに伝えることもよいと思います。ひとつのまともな議論であると思います。

 両立し得ませんか?
 

お礼日時:2014/03/20 00:41

B様、こんばんは。




>「どういう場合に どういう理由で はいでしょうか?」

つまり、これは、福祉的に、ニーズという視点で見ると、
「自立」って、素晴らしい事で。
「自律」も、そうなんです。

そういう意味で、
「手を洗う」や「歯を磨く」くらいなら、「自律」だ、
という人は、居るのではないかと。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2014/03/27 21:30

「資本主義の中でニート以外に《自律》しうるか?」




・・・鋭いなあ。
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この回答へのお礼

 鋭いですか。


 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/03/27 21:27

んー!難しく考えとるのう 無人島の生活はまず生きるための労働じゃ、これはきびしいぞ。

いろいろできないと、たとえば病気も治せん。そこでたくさんの人が分業して助け合ってるんじゃ。お主はなにかで働き、代価で他を買うのじゃよ。そんなわけで、さっさと働きに行け~。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 問題は 《自律》です。

 資本主義の社会では――経済的自立は 出来ますが―― おのれの意志にしたがって仕事が出来 社会生活が出来るか? という自律の問題です。

 この程度は
 ★ 難しく考え
 ☆ てくれないと。

お礼日時:2014/03/26 20:37

いり、や、よせ、の話、興味深い見解でした。

勉強なります。
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この回答へのお礼

 それはそれは。よかったです。

 質問にも挙げてみましょうか。


 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/03/24 16:19

卑近な例ですが、蟻の社会には、必ずいくらかの割合で働かない蟻達がいるそうです。

彼らの機能は一体何でしょう?これは、ハンドルの遊び、猶予のようなものではないかと考えて見ました。これをニートに当てはめると、ニートは激烈に回転する社会の安全装置のような働きをしているのではないかと考えられます。皆が規律に従い、余りに直接的に関与し合うならば、衝突や歪は大きくなってしまう。そこで、ニートのような何者でもない者、ニュートラルな者の存在が緩衝材のように働き、異なる機能を持った集団同士の接触を、柔らかくしているのではないかと。何者かと何者かの間に、何者でもないものというパターンを挟むことによって、マクロ的に見た社会のコミュニケーションという運動に、滑らかさを持たせているのではないかと思います。
無論ここでは、ニートの持つ個人的事情は省いてありますが。ニートと傷病者、老人は根本的に違う意味があると思います。ここではニートについて論じるのが妥当なので、そうしていますが、社会的弱者の持つ意味などについても考究する価値はありそうですね。
また、ニート存在自体が、社会の現況に対してこのままでいいのか?という疑問を身を呈して投げかけています。精神的に生きにくい時代とも言われています。能力主義で、人間性に乏しいのではないかと。そういった顧みをニートは提出しているのではないかと、見ることもできます。言うなればストライキみたいなものです。
必要とされている人間性とは何か?その答えを知っているのがニートである可能性は高いです。何故ならば、ニートこそが、人はいかに生きるべきかという問いに取り組み、社会の外郭を自ら広げて行っているパイオニアであるとも考えられるからです。ニートは現況に満足していない。今のままでいいとは思っていない。私はそう見ます。

一方で、ニートに対する誤った見方は次のようなものです。
・働かずにぬるぬる生きて、恥ずかしくないのだろうか。
・ただの怠け者。
・ああはなりたくない。
など。
何故これらが誤った見方かと言うと、これらの見方は人間に労働という尺度で以って優劣を付ける見方であるからです。要するに、同じチーターでも足の速い個体が優れていると見なすようなものです。
人間はそうではない。頭脳明晰な人間が、決して優れているわけではない。我々はよく、人間性に重きを置いていることを、常々誇りにさえしているからです。他の野生動物達とは違う世界に生きているのだと。
生き残ればいい、そんな世界がまっぴらだったので、僕らは人間で有ることを選んだのではないのか。
そのような人間の生き方の上澄みの部分にニートは存在しているのだと思われるのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 その後のほかのご回答を見てみるに 一方では 未来社会の青写真をすでに展望することから 他方では いまここなるわれらが欲望をどう捉えどう扱うのかといったことまで 幅広い主題の様相を呈して来た感があります。

 質問者の初めのねらいは じつは単純で 《自律》とは何か? にありました。そんなものは 出来っこないという見方を持っていたからです。(経済的な生活の自立とは別です)。資本主義社会にあることからも または そもそも社会は 互いの関係から成る要素が大きいから ひとは個人としてつねに相手の意志や欲望やに対応しつつ行動せざるを得ない部分が大きいことからも そう考えていました。

 こういった物言いを言うためでしたし その自律との関連では 現代社会にあっては ニートの問題が広く深くかかわっているのではないかという論点をも絡めようとした。つまり ここまででした。

 回答者さんのあいだには 社会とは何か? といった哲学の大きな主題として捉える観点をも組み入れるまでになっているかとも思います。






 さて ニート問題としては 次のような見方を質問者も ひとつの出発点として共有しています。
 ★ 何者かと何者かの間に、何者でもないものというパターンを挟むことによって、マクロ的に見た社会のコミュニケーションという運動に、滑らかさを持たせているのではないかと思います。
 ☆ この場合 ニートの人たちは 世の中から言わばしわ寄せを受けて そうなることを余儀なくされたのだとも見ています。

 また同じ趣旨になりますが
 ★ 無論ここでは、ニートの持つ個人的事情は省いてありますが。
 ☆ というように この滑らかさを持たせる緩衝材となることを意図的におこなったわけではない。という前提について かさねて確認しておきたいと思います。




 あるいはまた 次のような関連主題についても触れてもらっています。
 ★ ニートと傷病者、老人は根本的に違う意味があると思います。ここではニートについて論じるのが妥当なので、そうしていますが、社会的弱者の持つ意味などについても考究する価値はありそうですね。





 さらにあるいは 微妙にではあっても少し別のあらたな視点をも提起されているようです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 必要とされている人間性とは何か? その答えを知っているのがニートである可能性は高いです。

 何故ならば、ニートこそが、人はいかに生きるべきかという問いに取り組み、社会の外郭を自ら広げて行っているパイオニアであるとも考えられるからです。ニートは現況に満足していない。今のままでいいとは思っていない。私はそう見ます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 弱者なりニートなりの立ち場や情況にわが身をおいて あらためて社会を捉える視点は やや大げさに言えば 資本主義社会にとっての軌道を転換する《転轍機》のような思想内容を生み出して来るかも分かりません。




       *




 ★ 人間はそうではない(脚の速さを競うチーターの人生(?)と同じではない)。頭脳明晰な人間が、決して優れているわけではない。我々はよく、人間性に重きを置いていることを、常々誇りにさえしているからです。他の野生動物達とは違う世界に生きているのだと。
 ☆ このご指摘に触発されて 人間の類型をどう捉えているかについて つづってみたいと考えます。



 1. 《知性》のあり方について 分類する。 

  -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム

  0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。
                   時間的存在の自覚。

  +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から
                《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                社会力学上(政治的に) 寄せる。

 
 2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。

 2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階から共同自治する社会経営の方式です。

 3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。

 3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。

 3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。

 3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。




 4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉主義となる。

 4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。
 



 5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。

 5-1. 他方 勤勉主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。

 5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。

 5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。




 6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。

 6-1. そうして社会も スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。

 
 6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。




 7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。

 7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。

 7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。

 スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)

 つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。

 7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。

 7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て やってらんねえよと言った。

 
 

お礼日時:2014/03/24 10:44

誰でも本人の努力次第で『如何なる環境においても自律は100%可能です』。



理由:
親の所有資産が多くいずれ相続としてそれらを得ることになる家賃&食費不要な実家で親のスネをかじりながら生きている広義の意味でのニートと曖昧な定義で表現されている人々であれ、所有資産の皆無な生活保護受給者(無職)であれ、家事育児という資本主義化されていない労働に従事すいている専業主婦であれ、雇われる立場である従業員、経営陣、個人事業主など何であれ、

要するにいかなる貨幣制度のしかれた地域の人にとって、その人の自由意思により、仮に、もしも自己の生命の社会的拡張(=己の生活が他者により助けられて成り立っている事)を日常的に自覚化する事(日々の何気ない生活の中で先の己の他者から常に助けられていて己も何かしらの行動で他者を助けているという一時的な気付きが深い認識として脳内に定着しやがて衝動的な欲求や反射的な行動にまで及び地球社会全体で互いに助け合っている事実を不断な理解状況のまま目覚めて意識し続ける事がもはや自然な日常的行動パターンとなってしまう事:例えば、雇用主や管理職が部下に対しいつも助けてくれて有り難うという態度を見せたり、コンビニで買い物をしてレジでお金と生産物を交換するとき客である己の口から生産者&物流従事者&目の前の販売従事者のバイトのレジ担当者をイメージしながらいつも助けてくれて有り難うという言葉がお金を渡すと同時に言葉として出てしまう、という様な深い認識によるパラダイムシフト現象を意味する)が出来るならば、

アメ(お金)やムチ(法規)による他律的社会行動(=キラメク物欲&キラメク社会的出世成功欲など美味しいアメであるお金の獲得を目的として全ての社会行動を行う事で美味しいお金という感覚が身に付きお金が多くあれば自分の好きな様に気楽に余裕気分で生きられるイメージを夢に持ちつつ全ての社会行動を行う事。またアメムチのごとく一喜一憂の出世か失職かという継続的不安感や恐怖感の中で生活安定維持願望を持ちながら全ての社会行動を行う事。また仮に自由意志希望で労働&事業活動&無償ボランティア活動等をしたい場合に、自ら決めた訳ではない既存の一般法律&学校規則&国権による全てのガイドラインやマナー&多種多様な全ての共同営為においてその運営の為に決めた規約やネチケットのごとくネット社会まで含めた縛りで、最初の自由意思を束縛され結果この決まりがあるから仕方なく自由意志をあきらめてその決まりを調べてその範囲内で決まりを破るとムチで尻を叩かれ違法行為として被告人になり賠償責任や投獄判決や己の運営する業務固有の名前のイメージダウンによる収益悪化などのムチで叩かれる痛みを恐れながらイヤイヤ気分で仕方なく、己の抑圧された自由意志がストレスとなりそうしたムチを怖がるイメージを抱きながら、労働&事業活動&無償ボランティア活動等の全ての社会行動を行う事)ではなく(=他に、沿い従い気にする己の行動ではなく)、

生きる意志(=深い認識と広い世界観を得た、生物として人間という種族共通の、己が生きているという真実の根源的単一理由、その単一理由とは、社会という記号が助け合う為に集まったものを表していてどのようなメカニズムなのかを総合的認識力と大きな世界観で体得すれば自然にその謎であった理由や答が自己の内面にあることを発見できる。その単一の内面性生命的不変真理が否応無く脳内で目覚めれば、その単一不変真理を基準にしたそれぞれの自己の属性と他である外世界の双方の相関関係を正確に自然と見定められる様になり、それぞれの自他の関係性が明確に判明したとき同時にそれぞれの己の生き方の長期的方向性ベクトルをイメージ可能となる。その長期的方向性ベクトルイメージの中では、いまそれぞれの己が何をすべきなのか?という自問ぬきで自然に必須要素を欲し不用要素を避ける思考や行動がとれるようになる。このごく自然な指向性を「生きる意志」と呼ぶ)として(それぞれの己の内側にしっかりとした、それぞれの基準が生まれると)、

自律的に(=たとえ他とぶつかるときも、己の内的基準で判断し、ときには他に従ったり逆に他を無視して違反的な公益最高重要視した行動さえ可能になる。それは自分のやりたい事がリスクを伴っても前へ進もうとする気持ちが、公益最高重要視した判断と完全に一致し決して相反しない事が科学的根拠の上に特にそれと意識せずとも自然に成り立つストレス無き状態で)

社会行動(=これは人間の営為の最重要頂点である摂食と生殖を常に意識して、この頂点2つの必要として、下に農業や牧畜等の第一次産業が生まれ、農業等を助ける為として、その下に工業という第二次産業が生まれ、同じようにして、さらに下に金融業やサービス業、さらに下に政治という、三角ピラミッドをイメージしながら文明の存続の為に、それぞれの己が本当にしたい事を単にするだけで、それがそのまま社会貢献に否応無くなってしまう、まるで自然界の循環にそれぞれの己が溶け込むイメージでの営為)をとれるようになる(結果として大好きな遊び行為さえ社会的分業の一部になる)。

それが可能な人々は現代日本では少数ゆえ未だ社会現象まで届かぬが、仮に将来、その少数派が多数派に対し上述ごとくイメージ可能化へと導くことが可能であるならば、その過程で「お金自体が固有の価値を持った物である」とは考えなくなり、お金という道具の本質が「助け合いとしての社会の需給をつなぐ情報=感謝の気持ち」である事に目覚めてゆく(還元+復元)。

4千年前以前まで続いて来た、原始共産制における血縁の感情的な社会化が、分業化&組織化の発達において、拡張する流通のために貨幣を生み出した時(=4千年前)に、助け合いとしての社会は、お金を奪い合う弱肉強食の擬似ジャングルと化したのだ。この大事件が「ヒト」が「働きアリ」のごとく女王から与えられた「共通の遺伝子に刻まれた法規」に従い条件反射的(=他律的)にしか動けない「無意識-個体」へと移行し始めた「ヒトの意識が徐々に薄れていく現象の始り」で「ヒトがヒトでなくなる」極めて大きな大失敗の事件であったと皆さんが理解できる可能性は低い。なぜなら普段から「己の行動の動機&理由が全て他律的」であるため「既に意識がかなり薄くなっている」からだ。

本来「需給をつなぐ情報でしかない実体なきツール」を、紙切れや丸い金属板に人類は誤って転嫁してしまったが為に=お金という物質化したために、独立した価値を持つようになってしまった部分(=仮に、他人を助けてお礼情報として得たお金も、他人をだまし盗みとったお金も、使う際は、全く同じように使えてしまう、という弊害部分=欠点の一つの例、を意味し、貨幣制度の便利な恩恵を否定するものではない)を、

仮に、総合的に改善しようとしたければ、こうしたネット社会の一部を利用し、人の質改善の側からの「意識の社会性の醸成」だけでなく、物の側(=制度・システム)改善としては、IT化による「100%キャッシュレス化」=つまり貨幣という物質を100%消滅させ、担当行政監督機関が「完全監視できる単なる情報」に戻せば、社会生活保障として、たとえ無一文(=己の携帯端末表示の残高0ポイント)の人でも、生活必要物資は店で携帯端末を支払モードで読ませた瞬間に、国庫にあたる「(仮称)皆の税金的ポイント庫」から「必要なポイントが店へ自動処理にて支払われる」。また多額のポイントを所有する者は「バナナ購入に1万ポイント支払う義務」が生じ、低額のポイント所有者は「全く同じバナナを100ポイント以下で支払う義務」が生じる。これは所有ポイントの偏り(=所得格差)を減らし、システムにより自動的に「所持ポイント中流層を増やす」ことで消費生産活動を促し景気を良くする政策(=現代のデンマークと似ている)を意味し、その政策数式等は現在でも「海外協力事業」で既に存在しているようなシステムで「何人かの政策コンサルタント」が「それぞれの立案」をネット上に公開し、全国民は「インターネット直接民主制」により「コンペティション形式」=全国民が好きな案件をネットで選び、最も支持を受けた立案が「国家の正式な政策数式に認定される」仕組み(国会も政治家も政党も選挙も、完全に消滅させる)。さらに「助け合いを実感」できるように(ちなみに旧ソビエトは助け合いを実感できなかった仕組みのため崩壊した)、個人携帯端末で「買いたい商品のタグを読み取る事」で「生産者と消費者が互いに顔の見える取引き」を行う「感謝の気持ち=助け合いとしての社会」に誘引する必要性が100%ある。

そこでは「企業制も完全廃止」し、プロジェクト毎に多くの人が集合離散を繰り返す「プロジェクト型生産の社会」に移行し「私有財産制度」は消す。仮に求職者が職場を得て「工場&牧畜農場」へ出勤しても、組織として「一労働者」の上司役がいて、彼は一時的な「例:プロジェクトナンバー561348526管理役労働者」という同一身分の「一労働者」となる。そこに社会的身分の差は無く、福祉に適合する者を除き「全国民が一労働者」という、人材の流動が極めて柔軟なため、気楽で、ストレスなどがない「その時その時にしたい『社会貢献活動=人助け労働』が可能」という「超フレキシブルな働き方」がスタンダードな社会に100%の確率で実現できる(フレキシブル化の不要な清掃業務 等は当然「例外」となる)。そもそも今の皆さんの「私的に物を所有する」という考えが実は「自然界の摂理や物理に反した狂った考え」である事実に気付く人間はまだ少ないのが現状だ。豊かな感受性こそ想像力だ。
「資本主義の中でニート以外に《自律》しうる」の回答画像17

この回答への補足

 お礼欄よりつづきます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 社会行動
  (=これは人間の営為の最重要頂点である摂食と生殖を常に意識して、
  この頂点2つの必要として、下に農業や牧畜等の第一次産業が生まれ、
  農業等を助ける為として、その下に工業という第二次産業が生まれ、
  同じようにして、さらに下に金融業やサービス業、さらに下に政治という、三角ピラミッドをイメージしながら
  文明の存続の為に、それぞれの己が本当にしたい事を単にするだけで、それがそのまま社会貢献に否応無くなってしまう、
  まるで自然界の循環にそれぞれの己が溶け込むイメージでの営為)
  をとれるようになる
  (結果として大好きな遊び行為さえ社会的分業の一部になる)。
 

 それが可能な人々は現代日本では少数ゆえ未だ社会現象まで届かぬが、・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは  
 ★ 誰でも本人の努力次第で『如何なる環境においても自律は100%可能です』。
 ☆ というふうに いまは《可能性》なのですね。可能性が実現するには 《自律しえた少数派が・・・:

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 仮に将来、その少数派が多数派に対し上述ごとくイメージ可能化へと導くことが可能であるならば、
 その過程で「お金自体が固有の価値を持った物である」とは考えなくなり、
 お金という道具の本質が「助け合いとしての社会の需給をつなぐ情報=感謝の気持ち」である事に目覚めてゆく(還元+復元)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ということらしい。

 お金という物差しがない場合を想像してみてください。

 社会力学のうえで チカラのある者が無い者に対して 《自由に》モノの値段を決めてしまって そのような《自由な》交換において 分業=協業が成り立つというかたちになる。のではないでしょうか?

 つまり お金の効用は すでにあるのではないでしょうか?




 ★ 4千年前以前まで続いて来た、原始共産制における血縁の感情的な社会化が、分業化&組織化の発達において、拡張する流通のために貨幣を生み出した時(=4千年前)に、助け合いとしての社会は、お金を奪い合う弱肉強食の擬似ジャングルと化したのだ。
 ☆ ここについては No.1でのやり取りをごらんください。


 ★ この大事件が「ヒト」が「働きアリ」のごとく女王から与えられた「共通の遺伝子に刻まれた法規」に従い条件反射的(=他律的)にしか動けない「無意識-個体」へと移行し始めた「ヒトの意識が徐々に薄れていく現象の始り」で「ヒトがヒトでなくなる」極めて大きな大失敗の事件であったと皆さんが理解できる可能性は低い。
 ☆ すでにわれわれは 《「ヒトがヒトでなくな》っているのですか? でも《少数派》には すでに自律している人がいるということなのですね。

 ★ 貨幣制度の便利な恩恵を否定するものではない
 ☆ そうですが これは どういう意味でしょう? 《ハタラキ蟻》になっていても この恩恵を受けることが出来る・つまり ヒトがヒトである部分も残っている ということでしょうか?



 ★ IT化による「100%キャッシュレス化」=つまり貨幣という物質を100%消滅させ、
 ☆ そうしたとしても 貨幣が物差しであることは消えるのではなくそれは もとから一貫して効用を持つということをどうして見逃していますか?




 ★ 担当行政監督機関が「完全監視できる単なる情報」に戻せば、社会生活保障として、たとえ無一文(=己の携帯端末表示の残高0ポイント)の人でも、生活必要物資は店で携帯端末を支払モードで読ませた瞬間に、国庫にあたる「(仮称)皆の税金的ポイント庫」から「必要なポイントが店へ自動処理にて支払われる」。
 ☆ ぢゃあ ここで提起している《ニートは 自律的である》論を実証しているぢゃないですか。



 ★ 「助け合いを実感」できるように・・・、個人携帯端末で「買いたい商品のタグを読み取る事」で「生産者と消費者が互いに顔の見える取引き」を行う「感謝の気持ち=助け合いとしての社会」に誘引する必要性が100%ある。
 ☆ この《感謝の気持ち=助け合いとしての社会》は すでにひとが自然本性においてそなえた共生性――関係の絶対性――に目覚めたひとなら 知っている。わきまえている。とNo.1でのやり取りにおいて 述べました。




 ★ そこでは「企業制も完全廃止」し、プロジェクト毎に多くの人が集合離散を繰り返す「プロジェクト型生産の社会」に移行し「私有財産制度」は消す。
 ☆ 私有財産制が消されるのなら モノは商品ではなくなり 貨幣は要りません。価値=交換価値がなくなります。


 ★ そもそも今の皆さんの「私的に物を所有する」という考えが実は「自然界の摂理や物理に反した狂った考え」である事実に気付く人間はまだ少ないのが現状だ。豊かな感受性こそ想像力だ。
 ☆ 《自然界の摂理や物理》とは 何であるか? これの問い求めが先に来ませんか? 


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 仮に求職者が職場を得て「工場&牧畜農場」へ出勤しても、組織として「一労働者」の上司役がいて、彼は一時的な「例:プロジェクトナンバー561348526管理役労働者」という同一身分の「一労働者」となる。

 そこに社会的身分の差は無く、福祉に適合する者を除き「全国民が一労働者」という、人材の流動が極めて柔軟なため、気楽で、ストレスなどがない「その時その時にしたい『社会貢献活動=人助け労働』が可能」という「超フレキシブルな働き方」がスタンダードな社会に100%の確率で実現できる(フレキシブル化の不要な清掃業務 等は当然「例外」となる)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《組織・上司役》があって 身分の差がないのはよいとして 権限関係の違いがなくなるとは考えられません。

 ★ 「全国民が一労働者」
 ☆ というふうに 言われても
 ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 そしてこの《生きる意志として》というのも たいていの人は それぞれおのれの意志として生きているのですから やはり中身がまだ伝わって来ないと言わねばなりません。気の持ちようで 元気にもなれるといったお話であるようにしか聞こえません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 問題は なぜ

 ★ 誰でも本人の努力次第で『如何なる環境においても自律は100%可能です』。
 ☆ というように ただいま現在において 《自律》が可能だという言い方をするのか? 資本主義という私有財産制であることから抜け出せ得ないのに どうしてそういう言い方をするのか? といった単純なことにもあるように考えます。

 きちんとした説明がなければ それはただのシュウキョウだとわたしは捉えます。未来へと人びとの目を向けさせただけのインチキかペテンかだという意味です。

 現在の地点――そこにおけるおのれの実存のあり方―― これと未来とのつながり方を 思弁的にでも明らかにするとよいでしょう。この質問のばあいは ニートという人間像が いまはネガであるが やがてポジになるといった展望を見通そうとしています。そういった生活態度(つまり 思想)として 道筋を捉えようとしています。

 貨幣制・私有財産制を無くすと言いつつ 《ポイント制》としての貨幣評価=商品制は のこっているようなのです。

補足日時:2014/03/23 15:06
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 おたまさん これではまだ説得されませんよ。

 たとえば 次に《自律 と 他律》との説明から それぞれひとつを取り出して ならべてみます。くらべてみましょう。

 (あ) 《自律》の事例: ★ コンビニで買い物をしてレジでお金と生産物を交換するとき客である己の口から生産者&物流従事者&目の前の販売従事者のバイトのレジ担当者をイメージしながらいつも助けてくれて有り難うという言葉がお金を渡すと同時に言葉として出てしまう、という様な深い認識によるパラダイムシフト現象

 (い) 《他律》の事例: ★ アメ(お金)ムチ(法規)のごとく一喜一憂の出世か失職かという継続的不安感や恐怖感の中で生活安定維持願望を持ちながら全ての社会行動を行う事。

 ☆ (あ)のように生きていて《自律》しているひとが 同時に(い)のようにも生活している。――こういうことは あり得るのではありませんか?

 言いかえると (い)の他律の事例は 《商品社会では おのれの労働力をも売って生きていかなければならないからには その買い手が或る日いなくなった――つまりは モノが売れなくなるとか 失業に追いやられるとかのおそれ――という継続的不安感がただよっている世の中。またそれゆえに 生活安定維持願望を持つ》こととして 一般的な内容を示しており いかにおのれの自由意志によって《自律》して生きると言っていても この一般的な他律の仕組みないし枠組みをまぬかれてはいない。と言えるのではないでしょうか?




 ★ ・・・自然に必須要素を欲し不用要素を避ける思考や行動がとれるようになる。このごく自然な指向性を「生きる意志」と呼ぶ
 ☆ 勝手に端折っていますが それでも議論になるはずです。

 つまり いわゆるシガラミは 《不要要素》ですか? それとも 《必須要素》なのですか?

 《生きる意志》には たとえ不要要素もしくは弊害要素をも その場その情況のまづ秩序をとうとぶかぎりでは 特にその存在たる人間じたいは 受け容れたかたちで ことに処して行かねばならないような思惟と行動も ふくまれるのではないでしょうか?

 特に権限を有して上に立つ場合には そのような邪魔をも受け留めて処理する腕とその実践が 要請されるのではないのですか?
 ★ 自然に必須要素を欲し不用要素を避ける思考や行動がとれるようになる。このごく自然な指向性
 ☆ で よろしいですか?

 よろしいという答えであれば その《自律》は ただの独り善がりの自律性ではないでしょうか? 




 いや もっと複雑だというように 次のようにも説いておられます。定義のようですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自律的に
  (=たとえ他とぶつかるときも、己の内的基準で判断し、
  ときには他に従ったり逆に他を無視して違反的な公益最高重要視した行動さえ可能になる。

  それは自分のやりたい事がリスクを伴っても前へ進もうとする気持ちが、公益最高重要視した判断と完全に一致し決して相反しない事が科学的根拠の上に特にそれと意識せずとも自然に成り立つストレス無き状態で)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 考えなければならないことは たとえばエネルギー政策を全体としてどうするか? といった課題があるということですよね。

 その課題をめぐって まづ誰しも 《己の内的基準で判断し》ていくこと これは とうぜんです。
 そして次に
 ★ 公益最高重要視した判断と完全に一致し決して相反しない事が科学的根拠の上に特にそれと意識せずとも自然に成り立つ
 ☆ というときの《科学的根拠にもとづく政策案》は 或る程度得られるのでしょう。(ただし 互いに相反する内容の案が出されることもあり得ましょう)。

 さて 主観としてもある程度の客観としても 解答が複数としてでも出たというとき
 ★ ときには他に従ったり逆に他を無視して違反的な公益最高重要視した行動さえ可能になる。
 ☆ というのは 現実的でしょうか?

 ここでの物言いは 現実的ではないと言おうとするのではなく そうではなく たとえそういう政策の決定が可能であったとしても では その一つないし(《他にしたがう と 他を無視する》とがあるからには)二つの手法を推し進めるなら もうそれでよいか? という問いがつねにつきまとうと考えるからです。

 何が最良の方案か? どうすれば最善をつくすことになるのか? どういう話し合いを終えておくなら 互いにそれぞれが《自律》して行動することができるようになるのか? ――こういったことは 初めから決まっているとお考えでしょうか?





 現代の社会において
 ★ 誰でも本人の努力次第で『如何なる環境においても自律は100%可能です』。
 ☆ と言える道筋が つねに見い出されて 次から次へと問題は解決されて行くとお考えでしょうか?

 エネルギー政策は 全体としてどのようにあるのがよいか? といった観点に立つならば こちらを立てれば あちらが立たずといった各部分ごとの《自律性》が 二律背反の問題に直面するのは 明らかなのではないでしょうか?


 ★ 自己の生命の社会的拡張(=己の生活が他者により助けられて成り立っている事)を日常的に自覚化する事
 ☆ なる認識が深まれば深まるほど 資本主義社会における一人ひとりの意志行為としての錯綜関係について知らされる。のではないでしょうか。そのネットワークの中で 一部の人たちが自律していても 必ずしもそのことは 人びとの本意ではないでしょう。

 必ず誰かが 譲歩しなければならない。という場合も すくなくありません。そういう網の目のつながりにおいての自律・他律の問題だと思います。




 いやいや そうではない 必ず《正解》は あるはずだという説明をもされています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 生きる意志
  (=深い認識と広い世界観を得た、生物として人間という種族共通の、己が生きているという真実の根源的単一理由、

  その単一理由とは、社会という記号が助け合う為に集まったものを表していてどのようなメカニズムなのか

 〔であり その単一理由〕を総合的認識力と大きな世界観で体得すれば自然にその謎であった理由や答が自己の内面にあることを発見できる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《社会という記号が助け合う為に集まったもの》というところは よく分かりませんが 《自律》に向けての《正解》はあるということであるらしい。

 しかも
 ★ 自己の内面にあることを発見できる。
 ☆ ということであるらしい。

 すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その単一の内面性生命的不変真理が否応無く脳内で目覚めれば、
 その単一不変真理を基準にしたそれぞれの自己の属性と他である外世界の双方の相関関係を正確に自然と見定められる様になり、

 それぞれの自他の関係性が明確に判明したとき同時にそれぞれの己の生き方の長期的方向性ベクトルをイメージ可能となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ さらにつづきます。なぜなら まだここまででは 《ベクトルをイメージ可能になった》だけである。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その長期的方向性ベクトルイメージの中では、
 いまそれぞれの己が何をすべきなのか? という自問ぬきで自然に必須要素を欲し不用要素を避ける思考や行動がとれるようになる。

 このごく自然な指向性を「生きる意志」と呼ぶ)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ んん? 《不要要素を避ける》という行き方は 狭い視野に閉じこもるのではないかとすでに論じました。まづは 秩序が重んじられねばならないかぎりでは すべての要素を受け容れての共同自治といったヱクトルが 模索される必要がある。のではないでしょうか。

 ★ 生きる意志として(それぞれの己の内側にしっかりとした、それぞれの基準が生まれると)
 ☆ つまり ここでふたたび 《基準》を持つことという問題となった。《思考や行動がとれるようになる》というのは まだこの《主観内面における判断の基準》をしっかりと知ることであるのでしょうか。

 けれども このあと 
 ★ 自律的に
 ☆ の事項の説明が来ています。
 ★ 他を無視して違反的な公益最高重要視した行動
 ☆ をも許容するような思惟と判断だということでした。

 このような権力ないし権限にものを言わせた推進の仕方が
 ★ 自問ぬきで自然に必須要素を欲し不用要素を避ける思考や行動
 ☆ のことなのでしょうか?


 なおまだご回答はつづいています。
 検討した上で 補足欄にてお応えしてまいります。

お礼日時:2014/03/23 14:15

前回のご返答も私には理解しにくい点が多々あります。


そもそもご自分のことを書かれているのか単なる一般論と
して議論の俎上にあげられたのかもよく判りません。
ニートというものを擁護する意図なのか、更に拡大解釈で
価値ある生き方なのだ、と主張なさっておられるようにも
読めないこともないし。 対話を前提にした言語体系では
無い様に感じます。
-----------------------------------------------------
★あなたは全般的に意味がとらえにくい文章を書かれますが、
 これは、働かなければならないと判ってるけど生活保護を
 受けて引きこもり生活をしているが、仕方なくではなくて、
 意識的に、進んで、やってるから自律的な社会行動、という
 意味で書かれてるように読めますが、もしそういう解釈で
 当たっているなら、一般解としては《自律的な反社会行動》と
 いうべきです。

 社会行動というものをどう定義して使っておられるのか
 よく判り兼ねますが、社会行動とは、特定の他者に対して
 利をもたらす他利行動を指すと思います。

 それが無償のものか有償か、或いは代償行為か、は
 状況によりますが、少なくとも社会全体に対する有益な
 行動ではあり得ないにしても、行動の目的とする他者が
 その行いに対して十分有益であると評価しないものは
 社会行動ではありません。

 その場合は、本人は社会行動と信じて行為をなしたが、
 相手にとっては無益、或いは有害だと評価されたことで、
 「独りよがり」の自分を利する行い、すなわち個人行動だと
 されてしまうのです。

 何故なら、《社会》とは、少なくとも自分と他者の両方が
 固有の自由意思による価値観を冒されずに共存する
 状態を意味します。

 これあげる/ありがとう。 これなら社会行動です。
 これあげる/迷惑だよ。 これは社会行動ではありません。

生活するのには生活費を捻出しなければならない訳ですが、
生活保護であれ、誰かの収入であれ、それを当て込んで
ニートになるというなら、それは暫定的な応急処置であり
収入が得られるようになるまで、一時的に社会保障に
守ってもらう、単なる措置ということでしかありません。
自律的に働くことを拒否し、ひきこもる生活を続けると
いう宣言は、裏を返せば困っている人々を助けるための
仕組みに対して、働きたいバカに働かせて金を稼がせろ、
俺様は働かないで生活したいからそいつらが稼いだ金を
俺のために払わせろ、という意味にもなります。

生活保護というのは、例に上げやすかったので
取り上げましたが、生きていく糧を自ら稼ぐことを拒否し、
それでも絶対に必要なお金は誰かの労働によって
賄う。 確かに、申請書を行政に提出するのは意思です。
その意味では自律的と言えるかも知れませんが、
残念ながら、自律の意味を履き違えた空論と言わざるを
得ません。

何かしら哲学的解釈による、という論点のすり替えは
根本的な矛盾を内包したままです。
毎回私はこの点を書いているつもりですが、哲学的な
思考に、個人的事情や個人に特有の利害、或いは
イデオロギーという一部の集団の主義主張が核心に
からんでいるものはそぐわないのです。

哲学的思考というものは森羅万象に対して、全知性が
共有しうる純粋な論理的解釈を、或いは観測結果の
合理的解釈の整合性を追及していくものです。

従って、私は個人主義や、それが昇華した宗教的思想
というものは哲学的思考と相いれない、似て非なるものと
考えています。

先ほど全知性にとって共有しうる、と書きました。
高度な知性体なら地球人でなくとも、人間でなくとも、
例えばアンドロイドの人工知能でも、という意味ですが
数学的なモデル、或いは式やアルゴリズムとして明確に
誤解無く伝達できる形式のものを哲学的な論理思考と
定義しています。

そのモデルが完成の域に達するまで、モデル化の
試行錯誤や仮定論の段階がありますから、完全な
数式に至らないものが大半でしょうけれど。

それでも、個人的主義主張に論理が狂わされることが
あってはならないと思うのです。
知性的存在ならば誰にでも、何にでも、ということは
社会において自分の考えや意思、狭義の《自律》
ですが、それらは他者のそれと並列に扱われなければ
ならないのです。

まず、自己の理念や視点、思考を絶対視する所から
スタートする限り、その思考は極めて限定的に成らざるを
得ませんし、それに伴う視野の狭窄は、まるで魚眼レンズで
世界を見ているような全能感さえ錯視してしまうものです。

魚眼レンズで見た風景は、あたかも青空の宇宙に浮かぶ
小さな惑星のように見えます。
それは美しくて面白い画像ですが、極めて個人的な
視野狭窄に由来する歪んだ虚像に過ぎません。

恐ろしく手前にある地平線の向こうは強制的に圧縮され
自分に近い部分が強烈にデフォルメされて大きく見える、
自分を中心にした世界観を画像化したものとも言えます。

世界についてより歪みの無い像を得ようとすれば、先の
例でいえば、魚眼レンズのように微視的な・・・近視眼的と
云った方が適切か、焦点距離が短いレンズではダメです。
かといって、望遠レンズのように焦点距離が長いレンズ、
これは比喩ですが、誰が見ても同じように見える歪みの
極小な像は得られますが、今度はファインダーの視野が
恐ろしく狭くなります。

すなわち、世界をより歪みなく捉えて整合性のある思考を
しようと欲すれば、自然に自分の固定レンズを絶対視する
ことを常に自戒し、他人の視点、他者の利害、他者の価値観
世界観などを《並列》に作為的な優劣をなるべく固定せずに
全体を観ることを念頭に置きながら思考しなければならない
のです。

だから、

☆ 申し訳ないが 市場で売られているものは
  良心の呵責なく何でも買って食べればよいのですという
 実存形式を思うべきでしょう。二者択一だとは考えません。

というような《個人的感情、極論すれば多岐にわたる
損得による選択》は、社会的、と標榜する思考には
そぐわないのです。 申し訳ないが。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 本当に欲がないなら、あなたのように次々と
 他人との議論を必要としたりはしません。
 自分の中で穏やかに、確固たる哲学があり、
 死ぬまで静かに一人で完結して行けるからです。

と前回書きました。それに対してあなたは、

 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 欲望は全て――人類のありとあらゆる欲望を――
わが心に受け留めて やがてこれらを突き抜ける。
 ただし 突き抜けたあとにも これらの欲望をみな知っている。
けれども 突き抜けている。――こういった境地もあるとお伝えしておきます。

と答えられた。 これが十二分に、先に述べた
《魚眼レンズによる狭窄した世界観》そのものなのです。

決してあなたを引きずりおろしたいような意図で
書くのではなく、何かに固執し狭窄し続けた
歪んだ視野には、無限とも言える巨大な広がりの
ほんの、ほんの手前の近隣部分だけで世界を
他人を社会を、《知っている》と言いきれてしまう
矮小さを生みだしてしまうのです。

そして、《突き抜けている》と、超越者としての
全能感を《自律的に》あなたが望み続けている事に
完全に目をつぶることが出来るようになって
しまうのです。

ある意味、麻薬と同じですし、理性的な意識に
よる《自律》ではなくて、自分の肉体的な欲求に
(無論、感情を司る脳も肉体の一部です) 支配
されている、という一点で哀しいほどに《他律的》
なのです。

ここでいう自律、とはあくまでも自分の欲望を、
生理的な欲求のみならず、長年染みついた
思考を阻害する感情的な《癖》もねじ伏せて
自分も他人と同じように客観的に観ることが
出来る状態を維持できる意思を主体として
捉えて定義しています。

(勿論、全ての感情を排した純粋な思考と
いうものは、人間性を含まなくなりますから
先の望遠レンズの例のように、これはこれで
ダメです。)

知れば知るほど人間は多種多様であり、
一把ひとからげに都合よく解釈・分類しても、
それは人間が一人一人持っている固有の色合い
・・・個人の特有性を塗りつぶして判ったふりを
するだけの「裸の王様」状態になります。

知れば知るほど、社会は恐ろしく広く、深い。
相対的に、自分はどんどん矮小化して
取るに足りない存在であることを認めざるを
得なくなる。

でも、魚眼レンズを顔から離さない者は、
離さない《個人的理由》があるものです。

無論、私の目線とて、世界を広く捉えようと
考えすぎて若いころに広角レンズになって
しまった感が否めませんし、最近ではとみに
老眼が厳しく近くが見えません。
乱視も入っているようですし、お酒など
頂いた日には世界が揺れている日さえ
ありますから偉そうなことなど言えません。

あなたのお話を読むと、眩暈がするほど
度が強い、魚眼レンズのような世界観だと
毎回感じます。

根本的にあなたではない、私、という
存在について、あなたに判ろう筈も
ありません。誰の欲求も、です。

それは、定義された欲求という《語》に
ついて《ほとんど全て聞いたことがある》と
いうことに過ぎない。

一生を費やして考え抜いても、傍らの
伴侶についてさえ、識ることが出来るのは
僅かな部分だけ。

私が伝えたいのは、理にかなった《巨視》は
当然に、己は無に等しい、という焦点を結ぶ
ということです。

この回答への補足

 らせんかいだんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 あたまから読んで行って持った反応をそのままつづってまいります。〔引用では 改行を それをしないかたちにもどしたところがあります。また 多く長く引用しますが それは 訪問者が読みやすいようにという意図からです〕。



 ★ そもそもご自分のことを書かれているのか単なる一般論として議論の俎上にあげられたのかもよく判りません。
 ☆ ここ(この哲学カテ)では おおよそ世界観を問い求め 情報交換をするという姿勢です。個人的なことがらに触れるかどうかは 大勢に影響しない。こう考えます。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ニートというものを擁護する意図なのか、更に拡大解釈で
 価値ある生き方なのだ、と主張なさっておられるようにも
 読めないこともないし。 対話を前提にした言語体系では
 無い様に感じます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《対話を前提にした言語体系では無い様に感じます》は 勘違いか誤解であろうと考えます。わたしの質疑応答で対話を前提にしていないと感じる参加者が 何人――特にはどのような理由によって――いるとお考えですか? (人数を問うたのは アラシ投稿などがあるといった意味です。そのほかにありますかという問いです)。

 いま明らかにされているその理由は 意味が取れません。
 すなわち 仮りに
 ★ ニートというものを擁護する意図
 ☆ があったとして だから《対話を前提にした言語体系ではないように感じる》という理屈は ないはずです。

 ★ 更に拡大解釈で価値ある生き方なのだ、と主張なさっておられるようにも読めないこともないし
 ☆ と仮りに認めたとしても 同じなはずです。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・
 これは、働かなければならないと判ってるけど生活保護を
 受けて引きこもり生活をしているが、仕方なくではなくて、
 意識的に、進んで、やってるから自律的な社会行動、という
 意味で書かれてるように読めますが、もしそういう解釈で
 当たっているなら、一般解としては《自律的な反社会行動》と
 いうべきです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ニートについて捉えているところは この経済社会でそのままはたらくことを拒むことが 半端ではない姿です。よって結果的に・社会全体から見ると そのニートだけが《自律的な行動》をしているかに見えるというものです。

 《やがて将来の歴史において ポジとなるべきネガ》だとも見ています。《ポジに成りうる》とすれば 結果的に自律していると見たほうがよいかも知れない。と言っていますし ならば ネガではあるが 《〈反〉社会行動》でもないと見ている。

 もし仮りに
 ★ 《自律的な反社会行動》
 ☆ だったとしても その反措定を おおむねいやいやながらおこなっている。と見ています。

 そして もし《自律的な反社会行動》であるならその《自律性》は けっきょくそれこそ寄生虫のごとく資本主義の仕組みに――反措定でありながら・またはそのような単純な否定であるからこそ――組み込まれていて その湯にどっぷり浸かっていると考えられます。それは あまり意味がないと考えます。同じ穴のムジナだからです。


 ここで 
  ○ 社会行動
 とは 個人の公私にわたる行動が 社会性をまぬかれないものだと見て そこに多かれ少なかれ帯びている社会性を 強調して使っています。つまり たとえ年がら年中家に引きこもっていたとしても そこには社会性あるいは〔絶対値としての〕公共性があるという見方です。

 ★ 社会行動とは、特定の他者に対して 利をもたらす他利行動を指すと思います。
 ☆ では ここではありません。利己・利他の物差し――その概念そのものに疑念を持ちますが それを別として――とは 別の視点です。

 同じく次の価値観とは別の次元だと申し上げます。
 ★ ・・・行動の目的とする他者がその行いに対して十分有益であると評価しないものは 社会行動ではありません。
 ☆ 歴史の時空間を長く広く取ることによって このような利己・利他や有益・無益を問う観点からは 自由になれるであろうと見る立ち場に立とうとしています。(それが ただの憶測ではないかという反論は 成り立ちます。そしてその同じ反論が ただいま取り上げられた価値観にも 投げかけられると考えます。有益性は その場で判定することも そして 長い歴史の中で判定することも ともに大事でしょう)。





 ★ 何故なら、《社会》とは、少なくとも自分と他者の両方が 固有の自由意思による価値観を冒されずに共存する状態を意味します。
 ☆ という見方もありましょうし あるいは別様に 《互いの価値観を侵すほどの行動をも やむを得ず 受け留め社会の中におさめて行く》という行き方もあるでしょうね。ニートの人間としての存在(つまりは そのじっさいの生活の存続)をとうとび その行動については 社会として批評し批判をもしつつ 受け容れているという価値観もありえましょう。

 極悪人の行動についてさえ 結局としては これを存在としては受け容れ 行動としては批難しつつ 共同自治して行くという共存・共生が 社会だという考えです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 これあげる/ありがとう。 これなら社会行動です。
 これあげる/迷惑だよ。 これは社会行動ではありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ もしその思想に沿うなら この《社会行動ではない行動》をどうする(どうあつかう)と言うことでしょうか?


 ★ 暫定的な応急処置 / 一時的に社会保障に守ってもらう、単なる措置
 ☆ も 社会行動であり社会政策なのではありませんか?




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 自律的に働くことを拒否し、ひきこもる生活を続けると
 いう宣言は、裏を返せば困っている人々を助けるための
 仕組みに対して、働きたいバカに働かせて金を稼がせろ、
 俺様は働かないで生活したいからそいつらが稼いだ金を
 俺のために払わせろ、という意味にもなります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《宣言》も結果的にそうしているでしょうから・そして家族や身内に頼るという場合もあるでしょうが この見方もその意味内容も まったくそのとおりです。しかも それでも 社会行動であるという見方を ここでは提出し 問うています。

 つまりただし すでに触れて来たように 本人は《自律的に意志として 社会へのアンチテーゼを生きようとしているわけではない》わけです。もしそうなら それは アンチテーゼであっても 資本主義べったりの生き方と違わないと見ました。

 ★ 働きたいバカに働かせて金を稼がせろ・・・〔その〕金を俺のために払わせろ
 ☆ という《宣言》と行動が 資本主義の行き方への反措定なのだという問題とは別に――たとえばただただその感性にもとづくかたちで―― えらばれている。というのが ここで取り上げたニートです。

 矮小化するのをおそれずにかんたんに言えば イデオロギーとは関係ないところで 起きているというふうに捉えるわけです。〔むろん 価値観や思想は すべてイデオロギー(観念体系)であるのですが その観念にしがみついて行動しているのではないという見方です〕。


 ★ 残念ながら、自律の意味を履き違えた空論と言わざるを得ません。
 ☆ はき違えていないところで 結果的に・社会全体として・皮肉にも そのネガがやがてポジに転変するという歴史展望のもとに 変則的な《自律》が成り立つ。のではないか? という問いです。

 そう見るとあんがい 一般者としてのわれわれは 気が楽になり そのまま歴史に展望がひらける。かも知れない。・・・そういう《空論》を問うています。






 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 まず、自己の理念や視点、思考を絶対視する所から
 スタートする限り、その思考は極めて限定的に成らざるを
 得ませんし、それに伴う視野の狭窄は、まるで魚眼レンズで
 世界を見ているような全能感さえ錯視してしまうものです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 誰もに当てはまるという見方に立っています。すなわち知性の有限性です。

 ★ 自己の理念や視点、思考を絶対視する所からスタートする
 ☆ 《絶対視する》というところを 《確信する》と言い直してください。そしてこのことも 誰もに当てはまると見なければなりません。
 
 さもなければ 自分の哲学の立ち場が《絶対視》されてしかるべきだと主張していることになります。
 言いかえると 主題についての議論内容に即して 哲学し合えばよいのです。自分の価値観や立ち場を明らかにすることは 対話の過程であり得ますが それは互いに明らかにしあって前提としての相互理解に役立てればよい。こういうことなはずです。


 ★ 全知性にとって共有しうる・・・そのモデルが完成の域に達するまで、モデル化の試行錯誤や仮定論の段階がありますから、完全な数式に至らないものが大半でしょうけれど。
 ☆ と事割り書きがありますので この《そもそも哲学は》論は いま触れないこととします。



 ★ それは美しくて面白い画像ですが、極めて個人的な視野狭窄に由来する歪んだ虚像に過ぎません。
 ☆ については すでに反論して来ています。


 (つづく)

補足日時:2014/03/23 09:33
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この回答へのお礼

 (つづき)

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 恐ろしく手前にある地平線の向こうは強制的に圧縮され
 自分に近い部分が強烈にデフォルメされて大きく見える、
 自分を中心にした世界観を画像化したものとも言えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 結果で・中身で 勝負です。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 すなわち、世界をより歪みなく捉えて整合性のある思考を
 しようと欲すれば、自然に自分の固定レンズを絶対視する
 ことを常に自戒し、他人の視点、他者の利害、他者の価値観
 世界観などを《並列》に作為的な優劣をなるべく固定せずに
 全体を観ることを念頭に置きながら思考しなければならない
 のです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしがこうしていることは すでに証明済みでしょう。(おそらく この言い回しが気に食わないということなのでしょうが そこに何のユガミもわざとらしさもありません。あれば この《そもそも哲学は》論ではなく 中身について批判をおこなってください)。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから、

   ☆ 申し訳ないが 市場で売られているものは
    良心の呵責なく何でも買って食べればよいのですという
    実存形式を思うべきでしょう。二者択一だとは考えません。

 というような《個人的感情、極論すれば多岐にわたる
 損得による選択》は、社会的、と標榜する思考には
 そぐわないのです。 申し訳ないが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここには ふたつの論点がありますね。
 ひとつ:《市場で売られているものは 良心の呵責なく何でも買って食べればよいのですという実存形式》は 
 ★ 《個人的感情、極論すれば多岐にわたる損得による選択》
 ☆ であると言えるか? つまりはその実存形式
 ★ は、社会的、と標榜する思考にはそぐわないのです。
 ☆ と言えるか? その理由は何か? という論点。

 その理由は必ずしもはっきりしていませんが もしそれでも仮りにそうであったとしても そのときには 良心・信教のあるいは表現の自由をうったえます。それで おしまいだと考えます。


 もうひとつの論点:それは
 ☆☆ 二者択一だとは考えません。
 ☆ とわたしが言い添えていることです。二者択一だというあなたの思想とそうだとは見ないというわたしの思想とは 互いに対等だという論点です。

 らせんかいだんさん あなたこそが ご自分の思想を《絶対視するところからスタートしている》のではありませんか?



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  本当に欲がないなら、あなたのように次々と
  他人との議論を必要としたりはしません。
  自分の中で穏やかに、確固たる哲学があり、
  死ぬまで静かに一人で完結して行けるからです。
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 と前回書きました。
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 ☆ というひとつの思想を わたしにそしてほかの参加者・読者の方々に 押しつけようとしてはいませんか?

 わたしの答えは あなたの思想のほかに 自由にまた互いに対等に 別の思想もありますよと言っています。

 それに対して
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  欲望は全て――人類のありとあらゆる欲望を――
  わが心に受け留めて やがてこれらを突き抜ける。
  ただし 突き抜けたあとにも これらの欲望をみな知っている。
  けれども 突き抜けている。――こういった境地もあるとお伝えしておきます。
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 と答えられた。 これが十二分に、先に述べた
 《魚眼レンズによる狭窄した世界観》そのものなのです。
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 ☆ 《魚眼レンズ》論は 先ほどの《そもそも哲学は》論です。具体的な論点をめぐる考え方としての中身で勝負だと重ねてお応えします。

 具体論ないし各論についても そしてそもそもの信念としての哲学観にしても それぞれみなさんが自由に対等にじぶんの思想を述べる。このことをもってわたしは 応答しているに過ぎません。あなたは 押しつけがましい気味ではありませんか?




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 ここでいう自律、とはあくまでも自分の欲望を、
 生理的な欲求のみならず、長年染みついた
 思考を阻害する感情的な《癖》もねじ伏せて
 自分も他人と同じように客観的に観ることが
 出来る状態を維持できる意思を主体として
 捉えて定義しています。
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 ☆ この立論について (あ) 早く言えば そんなもの(自律の実態)はないと言っています。
 (い) 資本主義の社会であるか否かにかかわらず 経済的な《自立――立――》はあり得ても 意志行為としての《自律》なる社会行動は けっきょくにおいて 無いと見る立ち場です。

 (う) ですから こうなります。《自律》は あるか無いかに分かれての議論。そして 有るにしても無いにしても その立ち場の中で 理由やその推論をめぐっての対立もあり得るときのやはり議論が出て来る。

 (え) つまりは これらの四種に分かれた議論をここでたたかわせる。こうなります。

 (お) ただしあなたの場合は そもそもの価値観つまり大元の世界観についても触れようとされている。けれども これは――してもよいわけですが―― つねに過程(ないし中間の結論)としての確信にしか過ぎないので 具体論・各論を考えることと さほどは変わらない。こう あなたご自身が 但し書きを添えられたので ここでは いままだ していません。

 (か) そんなものは無い・つまり
 ★ ・・・自分も他人と同じように客観的に観ることが出来る状態を維持できる意思を主体として捉えて 〔《自律》を〕定義しています。
 ☆ という定義内容は 現実的ではないと言うのは たとえ《客観的に観ることが出来》たとしても じっさいの実存としては その認識のままに行動することが出来るとは限らない。という意味です。

 (き) そのような客観的な世界認識は ありうると人間は想定するとは考えますが――そしてそれが 《欲望をすべて知って しかもこれらを突き抜ける。しかも 知っている》とわたしが言うことの意味ですが―― けっきょくは なおまだ《欲望》は みづからも起こすし 世の中に絶えないという現実認識をも持つ。こういう意味です。

 (く) さらには 必ずしも実証し得ないかたちではありますが言っていることは 外からの欲望を――ミラーニューロン現象としてのごとく――みづからの内に捉え みづからもじっさいにその欲望を起こす。その過程をとおして 《欲望の生け捕り》をすすめて行く。とも 言っています。

 (け) これをあなたは――批判するのは いいのですが―― ひとつの思想として捉えることを拒否するといった意味合いで話をされている。そういう部分は 話し合いとしてはあり得ない。すなわち 思想は 互いに自由で対等であるという前提をないがしろにしているのではありませんか? と問い返しています。

 (こ) このような《欲望の突き抜け》論は たとえばあなたの次のような但し書きから出発しているわけです。
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 (勿論、全ての感情を排した純粋な思考と
 いうものは、人間性を含まなくなりますから
 先の望遠レンズの例のように、これはこれで
 ダメです。)
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 ☆ 《客観論》の実行不可能性ないし非現実性だと考えます。

 
 (さ) これ以上コーナーに追い詰めるのは わたしの失態になるかと考えますが こう書いておられるのですよ。
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 ・・・あくまでも自分の欲望を、
 生理的な欲求のみならず、長年染みついた
 思考を阻害する感情的な《癖》もねじ伏せて・・・
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 ☆ わたしの思想は シガラミの生け捕り説です。ねじ伏せていず むしろじっさいに用いています。


 このつづきを No.4の補足欄に継ぎます。

お礼日時:2014/03/23 10:29

>「この社会の中で 《ニート》以外に 《自律》している場合はあるだろうか? 」



はい。
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この回答へのお礼

 どういう場合に どういう理由で はいでしょうか?


 ご回答をありがとう。

お礼日時:2014/03/21 06:34

>「手を洗うやそのたぐいのことは 《歯を磨く》に含めて言っていますが 要は 誰からの要請も受けずにまた圧力などは受けていてもそれに関係せずに みづから行動していれば 自律だと思います。




はいはいはい。


手を洗いましょう、歯を磨きましょう、





>「「それに関係せずに みづから行動していれば 自律だと思います。」

あのね、
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この回答へのお礼

 ん?


 ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2014/03/21 01:06

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