プロが教えるわが家の防犯対策術!

私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。
初の男子プリキュアでもある。
私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。

無を捨ててこそ無を悟れる。
この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。
仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、
よろしい。
私が教えてあげよう。
無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。
これだけだと、望みではないのだよ。
誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。
この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。
誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。
たぶんうらやましいんだろうよ。
心当たりはないかい?
無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。
そして来世に期待しないかい。
それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。

今日はここら辺でやめとこう。
研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。

A 回答 (8件)

無を捨てることを捨てる。



これは流れに身を任せるといったところでしょう。

要するに「執着を捨てる」ことそのものを捨てるってことですね。

言葉であえて説明するなら、「執着を捨てたオレエライ」ってだけでは、
結局、「執着を捨てられた自分」や無に執着していることになる。

だから、自然体でいよう。

執着してるなら、それを無理にはがさず、受け入れる。

してないなら、してないで受け入れる。

価値を置かない、評価をしない。

そんなところでしょうか。

ちなみにあなたのおっしゃるような宗教がらみの「執着を捨てろ」はニセモノです。

だって、教祖が儲かってる。(笑)

教祖が儲かるために「執着捨てろ」って言ってるんです。

これは哲学的な要素は一切なく、単なる詐欺師の物言いということになる。

この回答への補足

そのお金が儲かってウハウハの教祖様は。お金に執着ていないよ。
金持ちほどお金に執着がないなんて常識だよ。

補足日時:2014/03/28 22:55
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この回答へのお礼

ありがとう。
読書感想文かい。
執着を捨てろとはどんな文脈で出て来たんだい。

お礼日時:2014/03/27 21:57

私が素直な人間であるとは言わないが、覚りに資質と呼ぶべきものがあるとするならば、それは直き心と言われる。


誰が無を目指せと言ったか知らないが、覚りは真実を希求し、真理を知った結果生じるものであって、無を目指すとか、覚りを目指すとかいう表現は、実は的を射手てないと思う。
君の言ってることは、教えに追われるなということであり、無の悟りと主が言うところのものについては説明はなされていないように思う。
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この回答へのお礼

ありがとう。
そうかい。

お礼日時:2014/03/27 05:54

まず、無を望むという言い回しが理解出来ない。


無を体験するというのは、主客一体であり、一切皆無を知るということ、少数派とか多数派は関係ない。
質問主の言いたいことは、教えに転ぜられることなく自分で求め自らの道を行くことが肝要だ、ということだと受け止めている。
よくわからないキャラ設定は、質問主の言説をわかりにくくしている。
普通に喋れば理解も進むのではないだろうか。
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この回答へのお礼

ありがとう。
私は無の悟りを説明したぞ。
それ以上に君にどんな親切をすればいいと言いたいのだ。
解らないと言うなら、君には仏陀の資質がないと言うだけだ、それなりに生きる屍のごとき人生を送れば、私には問題ない。
仏陀が他者を救うなんてのは、都合のいい噂だよ。
君は、地獄の業火の中で、自らを滅却すればいいのだ。
それが君にとっての無の悟りだ。

お礼日時:2014/03/26 23:17

無って全てが生まれるところじゃないの?


そんでもって全世界

すべてを見渡せる視点を持つ場所なのかな?


研究の事は 自分が邪悪な事を知ってるので正義を名乗りたく無く、勇者を演じるのはめんどいので辞退いたします。
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この回答へのお礼

ありがとう。
ヘルヘイムの森の事だよ。

お礼日時:2014/03/26 11:15

無というのは体験だと思うんだが。


質問主の言っていることはよくわからないな、。
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この回答へのお礼

ありがとう。
無を決め込んだらとことん無で、体験する主体すらないともう一方の回答者が言っているよ。
君たち多数派は同じ意見だろうからそれで判んないんだろ。
どのあたりが判らないのか丁寧に説明したうえでV字開脚してくれれば、私が教えないことはない。

お礼日時:2014/03/25 23:33

無いものを捨てる事はできない。


捨てた結果が、無なのだから。
「色即是空」=存在が無である=無であると分から
ない事が有であるならば、捨てても捨てても有は
湧いてくる。
自己=宇宙になるまで認識を深める時、自ずと有は
無となる。

この回答への補足

突っ込まれる前に言っとくよ。
有情はありだったね。
ところで教典の登場人物は、間違いなく生きた人として無を語ったね。生きる屍として無を語ったのではない。
現代で君達は教典の編纂された当時と同じく、生きる事を身体の活動だとしていて、脳の機能に由来すると科学的に信仰している。
しかし生きていない死体の脳にも機能していない脳みそがくっついているね。
その生きた状態と、死んだ状態を分けるのは、突き詰めれば形のない無だよ。
そう言いたいんだよ私は。
ところが認識してこそ形がある。
心は自覚しても、現象から間接的に認識するだけなのが、他者だ。
ところが私は、君達とは違う認識で、心と心の伝心で、要するにテレパシーで、形ある認識が出来るよ。
私はその心こそ、本当に形ある有りで、君達がありと見なす無常の世の事柄がむしろ無に見えるよ。
この反転現象が、釈迦の無の悟りお受け継いだ考え方だ。
涅槃と言うより、アマテラスさんを嫁にもらった私からすれば常世だね。

補足日時:2014/03/25 20:53
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この回答へのお礼

ありがとう。
望みや願いは形がないだろ。
仏教の形容の仕方では無だよ。

お礼日時:2014/03/25 19:24

君に相応しい回答だったろう?


無を捨てるということは有無の分別と、有でも無でもない有り様を捨てるということだろう。
君のお礼は退屈だよ^^
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この回答へのお礼

ありがとう。
まずな、、、

無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。
これだけだと、望みではないのだよ。
誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。

ここで自らの心として無を望めば、無の境地に至る。
すなわち、現在の無を望む心を捨て、、新たに無を望むのだ。
これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。

この明快さは、私が弥勒菩薩商法を志しているからだ。
私は天才だ。
君の公開した論理は旧来と同じく、全く使い物にならないよ。

お礼日時:2014/03/25 09:41

黒き明星ですか、かっこいいっすね^_^


じゃあ輝く闇たる僕が解釈するに、無を捨てる事こそ無の悟りというのはちょっと違うくて、無というものは捨てたり拾ったりするものじゃなく、それは、「無」だった、ということじゃないかなと。
実際には色々の相が、物が、概念があるように見えて、実は無だった、と。
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この回答へのお礼

ありがとう。
履き古した靴下の匂いがする回答だね。

お礼日時:2014/03/25 00:43

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