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スマナサーラさんの『般若心経は間違い?』という本を読みました。
彼が言うには、「色即是空、空即是色」という部分で、空は色の上位概念であり色即是空は正しいが、空即是色は正しくないというのです。例えば、「みかんは果物です。」は正しいけど、「果物はみかんです」は正しくないのと同じだと。もし、「色即是空、空即是色」が成り立つなら空=色となり、わざわざ別の単語を使う意味がないではないかと。
この経典の著者は空を正しく理解していないとのことです。

皆さんはどう思われますか?

それから、この本とははなれますが、こんな説があります。サンスクリット語で書かれたこの経典の世界最古のものは7世紀の法隆寺のものです。カナダ人の学者が、この経典は中国人が作った偽経をあとの時代になってサンスクリット語に逆翻訳したものではないかと言っています。

A 回答 (13件中1~10件)

 こんにちは。




 色受想行識の色について 

   色即是空、空即是色

 と言ったあと ほかにもさらに

   受即是空 空即是受
   想即是空 空即是想
   ・・・

 というふうに 五蘊のすべてについて同じ見方を述べています。

 仮りに《空》が 五蘊のそれぞれに対して上位概念であったとすれば 前半の認識のあと 《空即是・・・》というかたちで捉える後半の認識については 色受想行識が言わば現象であるのですから そういった現象としての下位概念にかかわると言っていると読めば 問題はないと考えます。

 《空》という上位概念に 下位概念としての五蘊のそれぞれが言わば認識の上で到達し 《空》は下位概念のそれぞれを言わばつつんでいるとすでに前半の句で言っていますから しかもそのひとつの認識の段階にはとどまらず 上位概念が 下位概念にも降りて来ると言ったことになる。これだけのことではないでしょうか。


 《即》という表現が 気に食わないということかも知れません。
 
 批判するときには 出来るだけ相手に不利にならないように・またときには有利に解釈した上で しかもなお残る根本的なマチガイを指摘するのが 筋だと考えます。



 また 思想の良さを捉えるときには その著者いかんや出自の如何を問う必要はありません。
 ぎゃくに著名な書物であっても その思想のマチガイは きちんと捉えて指摘せねばなりません。
 すべからく中身で勝負だと考えます。

この回答への補足

>  受即是空 空即是受
>  想即是空 空即是想

この文章自体は経典に書かれていないと思うのですが「受・想・行・識亦復如是」を文章に直すとそうなるということでしょうか?


>そういった現象としての下位概念にかかわると言っていると読めば

関わるということに解釈できるのかと言うと私には苦しい解釈に思えます。


>上位概念が 下位概念にも降りて来ると言ったことになる。

この意味が私は理解できませんでした。
そうすると「色即是空、空即是色」において、即是の部分が2回出てきますが、前後で意味が違うということでしょうか?

この部分の英語訳がありました。これだとどうでしょうか?仰るように解釈できますか?
form is emptiness and the very emptiness is form
http://kr.buddhism.org/zen/sutras/conze.htm

>  受即是空 空即是受
>  想即是空 空即是想
この部分も含めて上位概念と下位概念で考えてしまうといくらなんでも滅茶苦茶すぎておそらくこの経典を書いた人もそのようなことは考えていないだろうと思います。
そうすると単純に色には空という性質があるという程度の意味で書かれているように思いました。


ただ「空即是色」は意味を相手に伝える文章としては不要に思います。
つまりこの部分は新しい情報を付加したり理解を助けたりする働きがなくかえって意味の汲み取りを混乱させているように思います。

しかしこの経文を歌の歌詞として考えるなら、わからないでもありません。歌詞では意味のわかりやすさより、歌詞の面白さや韻が重要視されます。「色即是空」をひっくり返した「空即是色」はしゃれているとは思います。読んだ時のリズムはあると思います。

>批判するときには 出来るだけ相手に不利にならないように・またときには有利に解釈>した上で しかもなお残る根本的なマチガイを指摘するのが 筋だと考えます。

いわれることはなるほどと思います。ただ、現在の私の理解の範囲ではこの経文の文章の「空即是色」は解釈をひねらないと理解が苦しいし、不要な文章に思えます。

もし経典というものが意味の正確な伝達より、歌の歌詞のように詠まれることに重点があるなら、文章としての正確さを欠いても、歌としての形を重要視した結果だと考えることができると思います。


>また 思想の良さを捉えるときには その著者いかんや出自の如何を問う必要はありま>せん。ぎゃくに著名な書物であっても その思想のマチガイは きちんと捉えて指摘せ>ねばなりません。すべからく中身で勝負だと考えます

仰ることは納得できます。ですがこの場合、般若心経がありがたいお経だという意識が定着しているために普通に批判的に読むことが出来にくくなっている気がします。

補足日時:2014/03/31 21:22
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この回答へのお礼

こんにちは。
ていねいな説明をどうもありがとうございました。
この問題について少し理解することができました。
「間違い」とまで言うのは、少し視野がせまい見方という気がしてきました。
この本の著者は上座部の僧侶なので、その視点からみた、大乗経典の般若心経の解釈ということも考えないといけないと思いました。

お礼日時:2014/03/31 21:16

 No.12を承けます。



 ★ もとの文字は「色即是空空即是色」だけなのに、それほどまでに解釈をふくらませないと理解できないというのは若干疑問を感じます。
 ☆ 長い議論を端折った言い方になりますが

  
   空とは 第一質料としての《物質》のことです。

 よ。さすが その物質の自己運動としての経験世界における質料(モノ)の展開 だとはつけ添えないと思いますが。

 《色》が 質料ですね。形相なき質料が 第一質料すなわち物質だという理解ですが。

 すなわち 物質は 形而上学ではなく けっきょく神のことだという理解です。なぜなら 形相無きなのですから 《人間にはそれが何であるかは 分かるか分からないかが分からないナゾ》であるのが 神であり 物質であり もうひとつの対極としての《質料無き形相  としての世界精神》のことだと見ます。


 色受想行識が 即 空だというのは たしかに論理の飛躍があります。
 
 問題は ナゾなる神のこの世における遍在のことが 色即是空 空即是色 なる詩的表現におさめられたということだと考えます。質料(モノ)は ナゾなる物質に行き着くし 物質の自己運動のごときコトの結果が 質料であると。

 神の遍在も 物質の自己運動も いづれも想定です。形而上学ではないからです。

 これをわが心の《非思考の庭》においてヒラメキをとおして理解するという《人間のあり方》なのだと捉えます。

 早い話が 有神論=無神論 という理解です。《非思考》ないし《非知》ゆえ。





 納得なさらないかと思いますが。

 ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~

   経験事象
     可知
       既知
       未知
     不可知(知り得ないと知った)
   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)

 
 ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~

  非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)
 _______________________

  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
  感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
 ________________________

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

どうも何回も回答いただいてありがとうございます。

ただ、もう仏教の領域を超えている感じがします。
私は残念ながらついていけない感じです。

お礼日時:2014/04/02 22:33

 No.6です。



 ★(No.6補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
  >  受即是空 空即是受
  >  想即是空 空即是想

 この文章自体は経典に書かれていないと思うのですが「受・想・行・識亦復如是」を文章に直すとそうなるということでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ はい。その意味で述べました。


★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  >そういった現象としての下位概念にかかわると言っていると読めば

 関わるということに解釈できるのかと言うと私には苦しい解釈に思えます。


  >上位概念が 下位概念にも降りて来ると言ったことになる。

 この意味が私は理解できませんでした。
 そうすると「色即是空、空即是色」において、即是の部分が2回出てきますが、前後で意味が違うということでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 説明不足だったと反省します。

 そしてそれは 《空》の概念を説明するのが やっかいになると思ってのことでした。

 じっさい それを始めると茶の木畠に入ってしまうと考えます。

 仮りに ふつうの意味で《空っぽ》として解釈してみます。


 すなわち

  色即是空: 
    《色》ないし《かたち》は 目に見えてあるものである
   が それは 空っぽのものである。
    《受》も《想》も《行》も《識》も 同じくである。

    空っぽという意味は けっきょく移ろいゆかざるを得な
   いものであって それが存在していると言っても 仮りの
   ものである。仮象である。という意味だ。

  空即是色:
    空っぽであってけっきょく仮象でしかないものも 《色》
   だと言える。《受》であり《想》であり《行》であり《識》
   だと言える。

    つまりは 仮象としては 存在し現象しているのだ。


 言いかえると 色即是空の部分では 諸法無我や諸行無常を言っている。けれども それだけに終わらせない。無我=すなわち実体のない存在 であるが現象としては・あるいはつまり仮象としては 存在している。と言わねばならない。――こう言っていると見ます。



 煮詰めて言って 《さとりは 五蘊の世界にはない。なぜなら すべては朽ちてゆくものゆえ。けれども 朽ちてゆくものごとは 現象としてなら 実際に起きている。そしてこの五蘊の世界でこそ さとりが生きる。この仮象の世界において 目覚めた者の知恵が発揮される》と言っていると見ます。どうでしょう。
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この回答へのお礼

ていねいな解説ありがとうございます。

ただ、個人的には私が唯物論者であるために内容に非常に抵抗感があります。受想行識が仮象というのはわかりますが色が仮象というのはうなずけません。

しかし、それはそれとして仏教とはそうゆう考え方をするものだとしても私自身の仏教の知識の欠乏のせいで意味をとらえるのが難しいです。

もとの文字は「色即是空空即是色」だけなのに、それほどまでに解釈をふくらませないと理解できないというのは若干疑問を感じます。それは本当にこの経文を考えた人の考えなのだろうか?と。それほど解釈を加えてしまったら、その解釈の妥当性はどうやって担保されるのか?あるいは他の人はまた違う解釈をするのではないか?「いや、もともと仏教とは短い経文をもとに解釈を加えていくものだ」と言われれればそうなのですが・・・。

お礼日時:2014/04/02 06:23

この経典の著者は空を正しく理解していないとのことです。


皆さんはどう思われますか?

○般若心経は霊界科学として正しい記述がされていますよ。理解できないからといって間違いという方のほうがおかしいのですよ。空の概念は常人に簡単に理解できるものではないということですね。
宗教的に言えば、なま悟りは怪我のもとといいますね。なま悟りを悟りと言っては人心を惑わすだけですね。
その程度だと思って切り捨てるべきものです。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
霊界科学としては正しいのかもしれませんが、普通の文章としてどうなのか考えてみました。
空の概念は理解が難しいようですね。ただ、それは大乗仏教で空の概念が発達したせいなのでしょう。上座部では空はだけを取り上げて論じるほどの意味は持たせていないようです。

補足日時:2014/04/02 06:29
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

霊界科学としては正しい記述なのかもしれませんが、私は普通の文章としてどうなのか考えてみました。

空の概念は理解が難しいみたいですね。ただ、それは大乗仏教的な考え方で、上座部では空にそんなに難しい概念はこめていないみたいですが。

お礼日時:2014/04/02 06:26

こんな内容だったんだね?、、んー?、、までもいいの


かも?、、仏教系の秘教家の人達の中には、経典の間違
いに気付いている人達もいるようで、、それでもそれは
それとして、何か?伝統のように尊重しているらしいし
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仮に矛盾がある、文章として間違っているとしても、宗教あるいは伝統としてそれをどう扱うかというのはまた別の話なのでしょうね。

お礼日時:2014/03/31 21:45

No2 です。



老子はタオを、「おぼろげでいて形もなく」(無に近い?)、しかも「何にも頼らず独立している」(仏教でいう空とは反対)、、、、とありますから、空即是色の空をタオとするのは、少し無理でしたね。

No2は取り消しとしてください。

(自分としては、空よりもタオに惹かれます)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
道教と仏教ではやはり違うのでしょうね。

お礼日時:2014/03/31 21:47

お経は数学ではないですよ。



お経は主張です。

主張を受け入れるか、受け入れないかは人それぞれです。
一方、数学の証明は正しいか、正しくないかであって、受け入れるか受け入れないかは問題ではありません。

著者の主張に過ぎないお経を、あたかも数学の様に正しい、正しくないの世界に引き寄せても何も得るものがありません。

視点の取り方によって、色は空にアウフヘーベンされるし、また別の視点の取り方で空の中にも色を見出すことができます。

「即是」は数学の「=」ではなくて「⇒」と思った方が腑に落ちます。

この回答への補足

どんな文章であってもそこに意味がある限り下記のことをチェックするのは、意味があると私は思います。
1)論理的に無矛盾か?
2)他の記述と比較して相違がないのか?

この場合、もとの釈迦の空と違っているのではないか?
ということです。もっと言えば上座部に伝わっている空の考え方と違うのではないか?ということです。

大乗と上座部では考えが違うから問題ないという答えもありだと思います。

いろいろな考え方ができるとのことですが、そのいろいろな考え方のうちどれがもとの経文を書いた人が言いたかったことなのか?それを考えないといけないと思います。


色⇒空でかつ空⇒色だったら色⇔空ということでしょうか。

補足日時:2014/04/02 06:45
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに経文は一つの主張だと思いますが意味が存在しますよね。意味が存在する以上、それを解釈する過程で、その文章の中での整合性や他の文章との関連性は、私は気になります。そうでないと過去に学んだこととの間でどんな位置に取り込むか、その場所がわからなくなってしまいます。

お礼日時:2014/04/02 06:49

>スマナサーラさんの『般若心経は間違い?』という本を読みました。


>彼が言うには、「色即是空、空即是色」という部分で、空は色の上位概念であり色即是空は正しいが、空即是色は正しくないというのです。例えば、「みかんは果物です。」は正しいけど、「果物はみかんです」は正しくないのと同じだと。もし、「色即是空、空即是色」が成り立つなら空=色となり、わざわざ別の単語を使う意味がないではないかと。
>この経典の著者は空を正しく理解していないとのことです。

⇒「照見五蘊皆空度一切苦厄」で分かるように、五蘊(色受想行識)はすべて空だと言っていますよね。また、鳩摩羅什の『大明呪経』にこうあります。「色は空なるが故に悩壊の相なく、受は空なるが故に受の相なく、想は空なるが故に知の相なく、行は空なるが故に作の相なく、識は空なるが故に覚の相なし」、と。

 以上から、確かに「空」は「色受想行識」の上位概念であることに間違いはないでしょう。集合論の用語で考えてみると、「空」は全体集合であり、「色受想行識」のぞれぞれはその部分集合である、ということですね。つまり言えることは、「色即是空、空即是色」はこの部分だけを切り取れば、矛盾しているように見えますが、これはいわば、簡潔に表現するための修辞法でしょう。

 『般若心経』を通して見れば、これが色(亦受想行識)即是空、空即是色(亦受想行識)
の意であることは一目瞭然です。ということで、スマナサーラさんの反論は、いわば「あげ足を取る」ような、「重箱の隅をつつく」ような、言いがかりに過ぎないように思えてなりません。

>サンスクリット語で書かれたこの経典の世界最古のものは7世紀の法隆寺のものです。カナダ人の学者が、この経典は中国人が作った偽経をあとの時代になってサンスクリット語に逆翻訳したものではないかと言っています。

⇒609年に中国から伝来して法隆寺に保管されている「貝葉写本」がもっとも古いサンスクリット写本と言われていますね。「梵漢兼挙」ですが、れっきとしたサンスクリット語からの写本であって、逆翻訳などではないでしょう。
 なお、そのカナダ人の学者の指摘は、マックス・ミュラーと南条文雄が、悉曇文字からサンスクリット語および英語(=最初の英訳本と言われる)に改めた訳本を指して言っているのかもしれませんね。しかし、南条らは、少なくとも3つの写本(「貝葉本」・「浄厳本」・「慧運本」)を底本としていますので、これも決して逆翻訳などではないと考えられます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。間違いというほどでもない気がしてきました。

なるほど、でも空即是色(亦受想行識)の部分はわざわざ書かなくてもいい気がします。かえって意味が混乱するだけのような・・・。

偽経説についても解説ありがとうございます。サンスクリット語版もいくつか存在するとのことで、逆翻訳という可能性は低いのかなと思います。

ただ、貝葉(7世紀)、浄厳本(17世紀、貝葉本を模写)、慧運本(9世紀)で漢訳本が5世紀というのは気になります。

お礼日時:2014/04/02 07:25

こんにちは。


 表象としての存在(色)に付随する性質が、自然界の法則に基づく見えない相互作用(空)の元となり、それが次の表象を生み出す。それぞれのそういう事象が複雑に絡み合って連続的に世の中を動的に流れていく。「色即是空空即是色」という考えは、そもそもの諸行無常という考え方に時代が進んだ分深まった考察の成果を加えた、より深く同時に現代の自然科学とも矛盾しない理解の仕方だと私は思っています。
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この回答へのお礼

こんにちは、回答ありがとうございます。
書いていただいた内容が難しくて私にはよく理解できませんでした。
「表象としての存在(色)」とあります。ここで語られているのは現実の事物ではなくて、心の中の話(表象)ということでしょうか?

お礼日時:2014/03/30 16:07

私もその通りと思います。

空は、水彩絵の具で言うところの水のようなものです。どの色も水に溶かして使いますが、どの色も水の役割を担うことはできません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、そう考えるとわかりやすいですね。

お礼日時:2014/03/30 15:55

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