プロが教えるわが家の防犯対策術!

この哲学カテとは何ぞ?
という質問です。

わたしが哲学カテに始めてきた頃には、
カントの○○は、ロールズの△△は、という有名哲学者の思想、
あるいは、
独我論とは、自然主義、懐疑主義とはなにか?
といった質問が多く寄せられていました。

しかし、今の哲学カテは、何でもありのカオス状態!!
カマキリ踏んじゃった話───この哲学カテに長く巣食う魑魅魍魎どもには、これだけで分かるはず───にはじまり、果てはペット供養の相談などなど何でもありの状態。
混沌に満ち溢れています。
これは、既に哲学カテがその本来の使命を終えたと考えるべきなのか、
人間の生にまつわることはすべて哲学であるという新たな進化発展の段階に達したと考えるべきなのか?

眠り猫から、哲学カテの皆さんにお尋ねします

名にし負はば
いざこと問わむ
哲学カテ!!
わが思ふ人(哲学)は
ありやなしやと?

現在の哲学カテに哲学はあるのか?
次々と寄せられる質問は哲学的質問なのか?
皆さんは、哲学カテの現状をどのように思われているのか?
そして、この哲学カテは、どこに向かおうとしているのか?

皆さんの思いを教えてください。
回答をしたら、こんなお礼がきました、という自慢話でも構いません。
この哲学カテゴリーに関するものなら何でもOKです。
皆さんの熱い思いを吐露しちゃってください。

A 回答 (16件中1~10件)

私がここに来るようになって数年ですが、随分変化してると思います。



疑問を深く堀だげてみたい人が、表面的なカテゴリは置いといて的な感じの方々が
多く集まって来ているように見受けられます。

哲学の枠を「これこそが哲学」のように決めてしまうと
質問も回答も哲学用語を駆使し、哲学に興味がない人が
イメージ的に持ちやすい哲学になりそうだと感じました。

それの表面的な形を良し悪しと振り分けるのではなく、深く思考する姿勢が
哲学の本来の良さではないのだろうかと、個人的には思っています。

古典は古いとか、流行らないという風潮もあるようですが
その人が何を考え何を目にし、そこにたどり着いたのかを
知ることもあながち無駄ではないように思えます。

私は思考することが好きな割りに、古典は分からないと
スルーしてきた経緯があり、今あるものから長い時間をかけて
導き出したものが、老師の一説だったりカントだったりしたからです。

単に読み取れない未熟さと言ってしまえばそうなのですが
哲学畑では無い人間が、新説や古典を考える場として
あるいは、現実に置き換えた時に根底を流れるものは何かを
多様的に思考できる意見が出る場として、変化して行ってるのは
ある意味貴重な場であり、個人的には面白いと捉えています。

人が考えを深めるということに興味が湧くのは、自然でもあり
人生が変わる(変える)チャンスでもあり、色々な可能性を秘めてて
いいことじゃないかと思います。


唯一危惧するのは、自分の代わりに人に考えてもらって
気に入った答えをその人が鵜呑みにすることです。

他者の答えを答えだけ採用しても、自らで深く思考しなければ
自己矛盾の罠から抜け出せないだけでなく、より多くの
矛盾を抱え込むようになるからです。

自らの力で咀嚼していくことに、いかにして達して行くか。
与えられることが日常の人に、どうやったら気がついてもらうことができるか。

そんな自分の課題も含め、自らが思考して行く場として
ここにまだまだ来続けるだろうと思う次第です。

共通の目的の方向性が無い集合体は、どこに向かうかは予測がつきませんが
専門枠のカテゴリにされているのに、時間の流れでここまで変化が起きるのも
哲学の中心はやはり人だと実感しますね。

随分長文になり、失礼しました。

この回答への補足

多数の回答をお寄せいただき、
回答者の皆様、ありがとうございました。

そして、
わたしの独断と偏見で、
kanto-iさんの回答をベストアンサーとさせていただきました。

補足日時:2014/04/27 13:01
    • good
    • 0
この回答へのお礼

深い感銘を受けました。
回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/04/26 10:43

こんにちは。


 私は哲学とは「現時点で真であることとして定義できないことに関して思索を深めること」だと思っています(あるいはその痕跡を勉強すること)。つまり、いろいろな未知の対象・テーマに関して意見を交換するというのはそのまま哲学と言っていいのではないかというスタンスです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

おはようございます。


☆私は哲学とは「現時点で真であることとして定義できないことに関して思索を深めること」だと思っています(あるいはその痕跡を勉強すること)。つまり、いろいろな未知の対象・テーマに関して意見を交換するというのはそのまま哲学と言っていいのではないかというスタンスです。
◇「未知の対象・テーマに関して意見を交換するというのはそのまま哲学」ということは、まったく、思い及びませんでした。
なるほどね~、
哲学にかかわらず、
これはジャンルにかかわらず、
学問にとって、もっとも重要なことかも知れませんね。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/04/27 10:37

 ネズミ



 ネコさん、やさしいね。

 ネズミ、

 僕の部屋にもネズミが、部屋の隅をそそくさと通り過ぎることがあります。その仕草が“生きる”事への必死さを感じて愛しさを感じます。

 悪さをしなければ居てもいいよ、と云った気持ちになります。

 嫌われ者の“ゴキブリ”にだって、その身になってみれば「ゴキブリホイホイ」なんて使えないよ!
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ゴキブリ → 「あっ、ゴキブリ」 → ジッと観察
「殺そう」という発想が浮かばない。
だから、「サナダムシ愛好会」と呼ばれたりします(ポリポリ)

回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/04/26 20:38

こんにちは、ねこさん。



おいらは「関係」を考えるところかなあって思います。
自分と自分の関係とか
自分と他人の関係とか
自分と家族の関係とか
自分と国家の関係とか
人間と自然の関係とか
人間と世界の関係とか
人間と社会の関係とか
人間と宇宙の関係とか

他にもあるかな、
だからなんでもあり、かな。


猫とネズミの関係とか、
猫本人とネズミ本人の話聴いてみたいです。




カントを読んでてここが分からないとか
そういうのも愛知カテでいいと思います。


                      
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。


☆おいらは「関係」を考えるところかなあって思います。
◇「関係」ですか。
「関係」を考えるところ、いい言葉ですね。
ひとはつねに何かとつながっているのに、その《つながり》を忘れてしまう。
う~ん、いい言葉ですね。


☆猫とネズミの関係とか、
猫本人とネズミ本人の話聴いてみたいです。
◇わたしの実家、ド田舎にあるのですけれど、ネズミが出ます。
すごく小っちゃくてかわいヤツが。

実家に帰ったとき、時々、わたしの前に姿をあらわし、スタスタと目の前を走り去っていく。そして、しばらくして、こんどは元来た道を逆にスタスタと走り去っていく。

全然、人を恐れる気配なし(わたしの場合は、ネコですが)。
このネズミ、ねずみ取りに捕まったんですよ。
で、母によって殺された・・・。
うっ、かわいいのに・・・。かわいそうに(涙)。

このかわいいネズミさんたちと話し合って、
「ウチに○○匹までならいてもいいよ。エサはちゃんと用意しておくから、その代わり、悪さはしないでね」
とならないものか、と思っています。
だって、あのネズミ、可愛いんだもの。

お礼日時:2014/04/26 18:44

「哲学」と問うてみて、返ってくる答が哲学でしょう。



誰か特定の者が推奨する物こそが「真の哲学」だと言うのならば、それでもいいですが。

そもそも混沌が本質であり、それを体系付ける為に様々な言を駆使して、理解をしようと足掻いたものが哲学と総称されるモノではないでしょうか?

確かに余りにも、アラシとしか見えない目に余る質問も有り、且つそれを名を変えて繰り返すだけの者もおり、はけ口になっている部分も見られます。

自己実現ならばまだしも、単なるフラストレーションの発現の為のマスターベーションの如きモノは見苦しいです。

しかしそれに飲み込まれる程度ではそもそも哲学を標榜する資格がないでしょう。(私は無視していますがw)


求める者がこの世にいる限り、その者達がそれら疑問を解き明かす為に集う場ではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

こんにちは。


☆求める者がこの世にいる限り、その者達がそれら疑問を解き明かす為に集う場ではないでしょうか。
◇いい言葉ですね。心に深く響きました。

回答、ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/26 13:24

しかし、今の哲学カテは、何でもありのカオス状態!!



○昔から哲学者のことをミネルバの梟に例えます。ミネルバの森には巨大な梟から生まれたての梟まで様々住んでいますが、梟は世の中に混沌が生じたときしか世に出ないというのも逸話の通りですね。
過去の歴史上の梟は過去の混沌を収めるために仕事をしたわけですが、その仕事は時代が下って役に立たなくなっているので現在の混沌が生まれているわけですね。要は、孔子、釈尊、イエス、・・・カント、ヘーゲル・・など過去の巨大な梟の仕事もすでに形骸化しているから現代の混沌が生まれているのでしょうね。
カオス状態が生まれ、それが目に見えるのがこのカテであれば、当然、ミネルバの森から梟がでないとおかしいですね。つまり、混沌の中に真の哲学があると言いたいのですね。過去の仕事を学んだものがその多くを理解できるならば、教育にも通じ、混沌など生まれませんからね。カオス、混沌の状態を「末法の時代」とも言います。教えが形骸化し、意味もわからなくなり、価値観の善悪、正邪さえわからず混沌としているということですね。過去の哲学をいくら学んでも現代には答えがないものもあります。現代や未来へのただし道を指し示すのがミネルバの梟の仕事ですからカオス状態でないと哲学じゃないんですね。単なる知識は教育の範疇のもので本当の哲学ではないですね。ということで哲学カテはカオスが正常だと思いますね。かく言う私はカオスを楽しんでいますよ。、
    • good
    • 0
この回答へのお礼

おはようございます。


☆現代や未来へのただし道を指し示すのがミネルバの梟の仕事ですからカオス状態でないと哲学じゃないんですね。
◇素敵な言葉、素敵な表現ですね。


☆かく言う私はカオスを楽しんでいますよ
◇わたしもこのカオス状態を楽しんでおります。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/04/26 10:52

>疑問を深く堀だげてみたい人が


→疑問を深く掘り下げてみたい人が

失礼しました。
瞼が下がり過ぎたようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

まったく気づきませんでした。

訂正をいただいてもなお、
「えっ、どこが違うだろう・・・」としばらくオタオタとしてしまいました。

「文字数が違うみたいだから」と訂正前後の文字を一つ一つ照らし合わせて、
ようやく誤りに気がつきました。

回答、ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/26 10:48

 こんばんは。



 ◇ 哲学かてとは何か?
 ☆ すべて でしょうね。世界のすべてが 哲学の主題であると考えます。


 かつて 同じような趣旨の質問をしたことがあります。《哲学カテと言いながら ただ知識の切り売りをしているだけではないか?》と問うたら この質疑応答の場は 知識の切り売りをするところだ バーカ と言って叱られました。

 それはそれとしますが 何が出て来ても 特には問題ないと考えます。




 ところで カントやヘーゲルがふるいとか言う意見には おどろきました。

 哲学の主題にあって核心的な論点は たとえば次のような・人間の境地の問題であるのではないかと考えます。

 ▲ (ヘーゲル:有限と無限) ~~~~~~~~~~~
 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* もしくは《時間》ないし《非思考の庭》)の高さである。
 (『法の哲学』§35 追加)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 つまり 質問の中身が 《自然的なもの》と呼ばれてしまうような世の中の目先のことにばかりこだわっている場合の問いであったとしても それにはほとんど違和感はいだきません。嫌いにはなりません。

 《〈無限なもの〉と〈有限なもの(身と心)〉との――非思考の庭における―― 一体性》は ひとの成りうる境地をあらわすと考えます。その心なる《固有の時間》があまり高くなくても それは よくもわるくも自然的なものであって それゆえにマチガイであるとか まして《他律的に行動するだけの利己主義》だなどと言えた義理の人間はいない。はずです。

 そこから あろうことか 経済的な自立ではなく・あるいはたとえ自分の思うように行動しえないとしても組織や社会の要請するところに甘んじて おのれをゆづり 行動するという意志自由なる主体性でもなく そうではなく 出来もしない《自律》を説き他人(ひと)にこれを要請するというジリツイズムなる宗教 これを主張する意見には 反哲学を感じます。蛇蝎の如くわたしはこれを嫌います。

 といったわづかな不満を除けば 哲学カテは あらゆる問題をあつかう。ということでよいのではないか。こう考えます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。


☆ かつて 同じような趣旨の質問をしたことがあります。《哲学カテと言いながら ただ知識の切り売りをしているだけではないか?》と問うたら この質疑応答の場は 知識の切り売りをするところだ バーカ と言って叱られました。
◇回答者さんから、そのようにお叱りを受けたことがあるのですか(笑い)。


☆ ところで カントやヘーゲルがふるいとか言う意見には おどろきました。
◇これは同感です。
というようなことを書くと、お前らは一つ穴のムジナだと、また、お叱りを受けちゃうかな。

お礼日時:2014/04/25 23:40

こんばんは。




「試み」が為される、ということでは。


「「宗教」カテが、こちらに統合された」ということも聞いた事があります。


また、本来的な意味の?「哲学者」というのは、
相当に学識のある方、ということのようですので、
そのお知恵を拝借したいというのは、無理からぬことではないかと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

こんばんは。


☆「試み」が為される、ということでは。
◇「試み」ですか、なるほどなるほど。



☆「宗教」カテが、こちらに統合された」ということも聞いた事があります。
◇「宗教」カテがないことを不思議に思っていました。
そういう経緯があったのですね。
情報提供、ありがとうございます。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/04/25 23:30

所謂、人生哲学が幅を利かせているので、学問としての哲学が息を潜めているのだろうと。


人生相談のような質問を私も幾つかしていますが、カテ違いかもしれませんねえ。自粛した方が良いでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。


☆人生相談のような質問を私も幾つかしていますが、カテ違いかもしれませんねえ。自粛した方が良いでしょうか。
◇わたしは、この哲学カテを管理しているヒトではないので、この質問に答える立場にありませんけれども、
「自粛する必要はなく、積極的に利用すべきである」
と思います。

お礼日時:2014/04/25 22:21

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!