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江戸時代の身分制度として有名な士農工商。
時代劇を見ていても、武士に頭を下げる町人や農民が出てきますし、武士は苗字帯刀など特権があったことは有名です。
しかしその下、農工商に違いがあるような話は聞きません。大工が農民に頭を下げたり、商人が職人に遠慮したりする描写は見たことありません。農工商の間には何か違いがあったのでしょうか?

A 回答 (10件)

>江戸時代の身分制度として有名な士農工商


このような身分制度はありませんでした。
秀吉の時代に口承されていたものを明治以降にあたかも制度であったがのごとく言いふらしただけです。
天皇、公家、僧侶、神官、医師、学者、漁師、火消し(消防)、船頭、馬子など、このような雑駁な制度では該当しない人間が続出してしまいます。

>農工商の間には何か違いがあったのでしょうか?
農民には納税の義務がありました。
町人には納税の義務はありませんでした。
地方から江戸へ出てきて宿泊する場合には、百姓宿、町人宿と別に定められていました。
日常的な違いはこの程度です。

>大工が農民に頭を下げたり、商人が職人に遠慮したりする描写は見たことありません。
制度がない以上頭をさげる理由はありません
時代劇の台本作家も小説家も、ありもしなかった制度に基づいた情景を描くわけにはいきません。

社会制度としては武家の政治的な特権を保護独占していただけです。

領国を統治していくためには、身分制度ではなく、管轄する役所ごとにグループ化していました。
どのグループに属するのかを規定していました
運営上、戸籍が厳重に管理されていました。

大きく分けると農民(百姓)、町人、僧侶神官、公家、武家です
勘定奉行が農民(百姓)を統括していました。
奉行所が町人を統括していました。(職種は無関係です)
寺社奉行が僧侶神官を統括していました。
公家は武家よりも上ですので、公家諸法度というものを押し付けて守ることを強要していただけです。
武家は目付が管理していました。
各藩によって管轄が多少違います

農民(百姓)も町人も自治組織をもっていました。
武家はこの自治組織を通じて間接的に統治していただけです。

何かゴタゴタがあった場合に役所同士が他の役所の統治下にある人間に手を出すと役所同士の喧嘩になりました。
つまり、自分はどこのグループに属していて、どこの役所の統治下にあるか、という考え方をしていました
現在とは全く違う価値観です。
農民と町人を考えた場合には、属しているグループが違いますので、上下ではなく対等な関係ということになります。
むしろ、自分が属するグループ内での上下関係が重要視され優先されました。
町人のグループ内では資産の多寡が最重要視されて、職種に上下はありませんでした。
大工であれ魚屋であれ対等です。

ちなみに、武家には士と卒という明確な身分の上下がありました。
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士農工商という制度自体機能してなかったようです



ただ 商人の身分が低かったのは事実なようで
かの紀伊国屋文左衛門は役人にかなりの賂(ワイロですね)を支払って通商特権を得ていたそうです


士農工商ってのは段階身分制度ではなく
あくまでそういう括りで分けられていた ってだけです

現代で言えば公務員とサラリーマン みたいなね
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すでにwikipediaにも記載がある通り、


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2% …
士農工商が士から順番に農、工、商で身分が低くなるわけではないようです。
わたしは学校で、確かに身分の順番として教わった記憶がありますが、90年代から、どうやら違ったみたいだね、という流れになっています。
江戸時代は、武士が支配階級で、あとはその他という扱いです。しかし米が経済の中心でしたので、農業従事者に関しては縛りが強く、他の商売をしないようにはしていたようです。だからと言って、農業従事者とそのほかの商売人に身分的な差はないようです。
ただ、豪農は、ほかの商売もしっかり行っていて、蚕や藍玉の生産などさかんに行われていたようです。
町人、百姓間は、儲かっている人は強く、お金がない人が弱いという、現代とあまり変わらない図式であったようです。
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 身分制度としての士農工商が嘘っぱちだということが認識されたのは20年ほど前のことで、それ以来、教科書からも姿を消しました。

だから40代以上のなかには、まだ昔の知識そのままかもしれません。

 なぜ、士農工商という架空の身分制度をこしらえたのでしょうか。おそらく、明治政府の深謀だろうと思います。明治時代、富国強兵を実現するには巨額の税収が必要でしたが、その財源は土地課税でした。なにしろ所得税がなかった時代です。

 しかし、農業には十分な体力がありません。このため、農民を鼓舞する方法をとして、農本主義を打ち出したわけです。国民の7割は農民なので、そうとう効果がありました。現在でさえ、農は国の基だという先進国では聞いたことのない殺し文句をとなえる政治家がいるのですから。
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武家政権下の社会秩序維持思想、階層区分と序列の明確化です。


古代から「農は国の基本」とされ、事実、米は単なる食糧というに止まらず、権力を支える基幹産業であり、時には貨幣に劣らぬ流通手段ともなりました。年貢米は直接物納が基本で、そのシステムはいわゆる統制経済下の昭和の前半まで、供出→配給制度にまで引き継がれています。
江戸期各藩は、親藩、譜代、外様という徳川家との親密度の他に、禄高という経済指標で厳しく序列が定められ、それを前提に幕藩体制の規律が形作られました。禄高とは領内の米生産量→水田面積に相当する経済力指標でした。米が経済の基幹でしたから、その生産者である農民が大切にされていたことは事実です。藩主は、臣下に対しては言うに及ばず、領民に対しても生殺与奪の大権を与えられていましたが、藩財政の基盤を支えた農民は殊の外大切にされました。百姓一揆などでも首謀者数人が処刑されるだけで、藩権力の敗北を覆い隠すための処分に過ぎませんでした。
「工」に当たるのはいわゆる職人ですが、元来は隷属民が携えていた特殊技能でしたから、物を造る→労働するという点では貴重ではありましたが、古くから下層身分とされていました。被差別民にのみ許された職業、被差別民しか携われない(携わらない)職業も少なくありませんでした。それらの詳細は、いわゆる差別用語の紹介にも当たりますので、子供達にも教えないで居ます。
商人とは、中国古代の殷の中核を担った部族です。物々交換などの交易を支えることで発展しましたが、王朝の交代と共に、経済の根幹を担いながらも蔑視されるようになりました。元々、嘘を交えた話し上手なことで成功した職業でしたから、日本にもそうした思想が伝わり、『士農工商』の序列の最下位に置かれたと云うことでしょう。
この序列から切り離された(隠された)特殊な階層があることを、敢えて指摘しておきたいと思います。
僧侶や神官の多くは、古代朝廷やその周辺の権力構造を担った皇室や官人にゆかりの深い職業でした。この階層は、武士と同等もしくはそれ以上の権力を保持していました。
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 士農工商という用語の由来は昔の中国から来たものです。

制度として存在したのではなく、学者による社会研究(職種、職能による分類)という性格が強いということがあります。元々の意味では士は武士ではなく、学を以て世に立つ人を指します。

 江戸時代になると、武士階級は荒くれ者の戦闘員の性格よりも支配階級として政治の側面が重要になり、そのため学業が奨励されました。そのため、士たり得るようになり、士農工商の分類に適するようになりました。

 武士が支配階級であったことは間違いありませんが(それは江戸時代以前、鎌倉時代辺りから次第に強まった傾向)、残る農工商は身分差はなく、農が工商に対して大きな権利を有したということはありません。武士の下、平等に治められていました。また、士農工商はそれぞれ職種として、二つ以上を兼ねることもありました。完全に分けられる区別ではないわけです。

 なお、人口として多かったのは、近世まででは農です。日本では戦国時代中期までは、武士と農民は兼任が多く、戦は主に農閑期に行われていました。農繁期には武士も領地にかえって農業に精を出さねばならなかったからです。織田信長が傭兵制を採りだすと、急速に戦争の形態は変化し、多くの武士が専業になるようになり、江戸時代に続いて行きました。それでも、人口の大多数は農ではありました。

 ただ商は身分として下と見られることは少なからずありました。日本では江戸時代以前からあった伝統的な考え方でもそうです。これは古代以降の中国でも同じです。農は最重要の食糧生産を担い、工も農業に対する農機具、生活に必要な道具を生産する職種ですが、商だけは生産しません。

 実は運輸という重要な機能が商にはあるのですが、そこは無視され、何も生み出さず、物を移動させるだけで金を取る卑しい職種と思われて、しばしば軽蔑の対象になったようです。西洋では商業の中でも金貸しが蔑まれたことは、シェークスピアの「ユダヤの証人」などを見ても分かります。

 それが商をして、金力を以て世に立たざるを得なくさせ、豪商となった者が権力をも手にしようとするような傾向も生んだようです。例えば江戸時代後期~末期、窮乏した上級武士が商人に動かされたというのは、時代劇だけのフィクションではなく、実際にあったことです。

P.S.

 士農工商以外には、医師や学者(本来の士)などもいますが、少数の特殊な職種であるためか、特に分類はされていないようです。
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武士は、俸禄を貰う側。


農民は、年貢として、主に米を納める側。
藩の財政のメインですから、この二つはしっかりと戸籍で管理していたでしょう。

工業は、おそらく鉄砲鍛冶や刀鍛冶を想定。合戦などの戦闘能力に影響しますから、居場所はチェック。ノウハウなどが他藩に流出しないように。
忠臣蔵の吉良の嫌がらせ。塩の製造法を教えなかった報復という説もあります。

商人は、藩の境界関係なしに活動してますから、法であまり束縛できなかった。

庶民レベルでは、大差なし。
分類することで、土地を捨てて江戸に出てきた農民を、元の土地に強制送還する法が施行されたことも。
農が、商工の上という感覚は無し。
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まず、士農工商という身分制度は存在しなかったことを


確認して下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2% …
      ↑
「1990年代になると近世史の研究が進み、士農工商という身分制度や
 上下関係は存在しないことが実証的研究から明らかとなり
 2000年代には「士農工商」の記述は教科書から外されるようになった。」


士農工商というのは、中国の思想です。
国家に貢献する度合いの高い順に職業を並べたものです。
士農工商の「士」というのは、武士ではなく、科挙の試験を
通ったキャリア官僚のことでした。


日本では、士農工商はおおざっぱな職業の役割分担です。
    ↓
「江戸時代の諸制度に実際に現れる身分は、「士」(武士)を上位にし、農、商ではなく、
 「百姓」と「町人」を並べるものであった。
 また、「工」という概念はなく、町に住む職人は町人、村に住む職人は百姓とされた。
 この制度では、百姓を村単位で、町人を町単位で把握し、両者の間に上下関係はなかった。
 なお、百姓の生業は農業に限られるものではなく、
 海運業や手工業などによって財を成した者も多くいた。
 このような風潮に対し、天保の改革最中の天保13年(1842年)
 9月の御触書には「百姓の余技として、町人の商売を始めてはならない」
 という文があり、併せて農村出身の奉公人の給金に制限を設けているが、
 これは農業の衰退に繋がる事を危惧した幕府の対応策であったと考えられる。
 つまり、江戸時代における百姓とは農業専従者である「農人」ではなく商人、
 職人を含む農村居住者全般を意味する言葉であったのである。
 このように、実際の江戸時代の身分制度は士農工商の職業概念から大きく乖離していた。


武士は政治を担当しますから、他のモノを指揮監督指導
することになります。
だから、事実上一番威張ります。

しかし、武士以外の農工商の間に、基本的な違いは
ありません。
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現在の解釈では、「士農工商」は身分制度・身分の序列を表した言葉ではなく、


「全ての民衆」といった意味合いの言葉だと考えられています。
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実際には歴史の見解違いで武士を除いて



工=町に住んでる職人は町人 村に住んでる職人は百姓という具合だったみたい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2% …

だから商は町人で、 農は百姓といったものみたい。

なのでみんな仕事を持ってたというだけで立場は武士以外は同じだったとあります。
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