プロが教えるわが家の防犯対策術!

私は今30代なのですが、何故か子供の頃から戦時中の日本人の生活に興味がありました。

幼稚園の近くに防空壕の跡があって、立ち入り禁止なのですが気になって仕方がありませんでした。

亡くなった祖父にも話を聞いたことがあります。

当時祖父は海軍で船に乗っていたのですが、空からの弾丸?が祖父の太もも外側をかすめて船に落ちたそうです。
乗っていた船は沈み、祖父はなんとか泳いで陸に戻って助かったという話です。

そしてその傷跡というか、太ももの外側が少しへこんでいるのを笑って見せてくれた記憶があります。


祖母は健在ですが、ほとんど戦争中のことは話さないので無理にはと思って、聞きません・・><;

戦時中の記憶があって、パソコンをやっている方がたまたまこの質問を見てくれるということがあるのかもわかりませんが、

当時どこにお住まいで何歳でこんな生活をしていたとかこんな遊びをしていたとか食事の作法だとか、なんでもいいので教えていただけませんか?

もしくは、戦時中のこんな話をご家族から聞いたよというものでも是非、回答待ってます。


昔の日本人の生活に興味があるということと、このまま戦時中の記憶がない人だけの日本になるのが怖いという意識がどこかにあるかもしれませんね><;

A 回答 (14件中1~10件)

東京市(今の23区)の西方の家です。


開戦時(1941年)中学1年生でした。

1~2年位は生活はあまりく変りませんでした。
と言っても1937年からの日中戦争が続いていたので
物資は不足しいわゆる配給制度のものも多かったのです。
米一人一日2合3勺 (320g位)とても足りませんが
母の苦労でなんとか食べていました。
他の物はともかく、衣料品(布、糸を含め)の切符制で
制限されこれは困ったようでした。
夏は汗が上着の表までしみだし、当時の粗悪なスフ生地
はすぐ破れました。、

開戦前の夏休みは林間学校でしたが、翌年の2年生は
臨海学校がありました。
その時の食事の菜は味噌汁とトマトだけでした。
トマトの主菜を初めて知りました。
中学生は重い三八式歩兵銃をかついで、軍事教練をやらされ
ました。
従い3年生の夏は富士の裾野の陸軍演習場で営舎に泊まり
軍事訓練をしました。(廠営といいます)
激しい行動なので、米を一日4合5勺持参せよといわれ母は
苦労したようです。
食事は味噌汁と菜っ葉だけの菜。
営舎の南京虫に攻められ降参です。

B-29の北九州空襲が始まり、東京も備えが必要になりました。
防火訓練もありましたが、爆弾対策で庭に一家4人が辛うじて
潜れる小さな防空壕を掘りました。
上はトタン板に少し土盛りで、直撃弾、至近弾では全滅ですが
少し離れた着弾なら弾片防御は出来たそうです?
防空壕のため食糧不足のたしに育てていた、薩摩芋を抜かねば
なりませんでした。        辛いですね。

中学は3年半で勉強は終わり、4年生半ばから勤労動員で
軍儒工場で働きました。
離れて飛行機工場があり、B-29 の集中爆撃を受けました
直撃弾に耐える防空壕がありましたが、運悪く入口に着弾し
生き埋めになり満員の全員が死んだそうです。
見に行った人は布をかぶせたトラックが何台も、走って
行ったのを見たので、泥まみれの遺体が積まれていたのだろう
と話していました。
勤労動員の女子学生も大勢いたらしい。
防空壕が満員のため近くの窪地に身をひそめていて、助かった
人がいたそうです。

裏山にB-29 が墜落したので、翌日大勢で見に行き電気
部品を拾ってきました。
国産品と比較試験して優れているのを認めました。
こんな国と戦うなんて。

1945年になり東京大空襲が始まりました。
灯火管制で電燈に黒い紙のかさをかぶせ外に漏れないように
しました。
3月10日の下町大空襲の時は家にいませんでした。
遠くで夜東京方面の空が真っ赤に焼けるのを見ました。
5月25日の山の手大空襲の時は家にいました。
シュルシュルと爆弾の落ちる音、その怖さは聞いた人しか
判りません。
家の周りには僅かしか落ちず、焼夷弾で近くの家が焼け、
バケツ リレー の消火活動に参加しました。
豪邸ですごく燃えましたが庭の広いおかげと、消火活動で
延焼は免れました。

まだまだ書き足りないのですが、まともに書くと、妹尾河童氏の
「少年 H 」になりますので今日はこのへんで。
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この回答へのお礼

開戦時に中学一年生だったとのこと
ご高齢にもかかわらず、インターネット上でこのようなご回答を頂けたことに驚きました。ありがとうございます!

東京23区は昔東京市だったのですね。知りませんでした。
食べ物は配給制度、衣類も切符制だったのですね。
夏休みはそのような訓練にあてられたのですね。乏しい食事でさぞきつかったでしょうね。そしてお母様も同時に大変だったのでしょうね。
防空壕と引き替えにさつまいもを抜かなくてはならなかったとのこと、今聞いても心が痛みますね。

飛行機工場でのこと、ショッキングだったでしょうね。
B-29の部品を国産品を比較試験したというお話興味深いです。
東京大空襲の頃も東京にいらっしゃったのですね。
爆弾が落ちてくる音、恐怖の音として強く記憶されたのですね。
お話を聞いていると、本当に生きるか死ぬか紙一重ですね。


「少年H」ですね!「少年M」とかで出版していただきたいぐらいです。回答ありがとうございました!

お礼日時:2014/05/05 11:58

    #1です。

補足です。

1。簡単服 下記にありますが、家でも簡単に作れたからでしょう、アッパッパとも言いました。
    http://www.weblio.jp/content/%E7%B0%A1%E5%8D%98% …

2。爪革「つまかわ」は下記のようなもので、雨や雪の日、足袋先が濡れないように付けられました。
    https://www.google.co.jp/search?q=%E7%88%AA%E9%9 …
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この回答へのお礼

ご親切にリンクを貼っていただきありがとうございます。*^^*
かんたんふくはワンピースのような形の文字通り簡単に作れるものだったのですね。
爪革は想像したよりも大きいものでした!
ありがとうございました!

お礼日時:2014/05/07 22:44

こんにちは。

 #6の再入場です。

●アヘン/東条英機/関東軍に追加です。 これは太平洋戦争の軍資金ですが、戦後二人の右翼の若者が日本へ持ち帰ります。 児玉誉士夫と小佐野賢治で『M資金』として昭和33年の保守大合同の際の政治資金として使われます。

●父たち旧満州政府の若い官吏を中心に昭和16年と18年に総力戦研究所というシンクタンクが結成されます。 この辺りは前東京都知事の猪瀬直樹さんが書かれた『昭和16年夏の敗戦』に満州での様子も引用されています。

●さらに、父たちが満州で一年学んだ大学院大学がありました。 吉林省長春(当時は新京市)に建てられた大同学院です。 父たちの三級下に金成柱(キムサンチュウ)という朝鮮人の男性がいました。 キムイルソンとなる前の名前です。 
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この回答へのお礼

何度もすみません。わからないところを説明してくださり感謝いたします。

なるほど政治資金になったのですね。

『昭和16年夏の敗戦』ですね。図書館で借りてみようと思います。

お父様の後輩になんと金日成がいたのですね・・・!
すごいお話です!><

お礼日時:2014/05/07 22:37

終戦時満三歳 ♂です。


戦時中の記憶は事実上ないに等しいのですが
当時は富山県高岡市伏木在住。
防空壕の印象 冬の銀世界(当時はこのような言葉は知りませんが)の風景 などが残る程度。

戦後 伏木で託児所(終戦直後の混乱時にあったのが不思議)に行くようになってから
さらに昭和24年東京に戻り小学校に上がってからの戦後の記憶は溢れるほどあります。
戦場の凄惨さ 恐怖 喜怒哀楽 日本兵と中国兵の戦時行動の違い 戦時中の国民の心情の建前と本音 食の欠乏 着物や帯を持って農家へ食材の買い出しに......など父母/祖父母などから聞かされたことも多くあります。
祖父が軍人でしたが 満州では現地の中国人の子どもを労わって 学校へ行かせたり生活の援助をした話などもありました。

戦争自体については多くの著作・記録・ネット記事もあり多くのことが語られていますが 敗戦後の生活も大変でした。
*ご年齢が30代から類推すると お祖母上は戦時中は学生 ご両親のご記憶は既に戦後の生活難を脱した頃?
・米は米穀通帳で管理され配給制。
・パンはパン類購入券を母から渡されパン屋へ行く。
小学校4,5年の頃 家では日曜日は昼食が菓子パンの日。
ジャムパンアンパンチョコレートパン程度でしたがこれが嬉しくて毎週買いに行ったものです。
偶々パン屋の息子が同級生 毎日一緒に遊び夕方には親父さんがパンの耳や出来そこないの菓子パンをおやつにくれたものです。
・他にも外食券や酒類の配給など多種ありました。
・母が買い出しで留守の間 同居の従妹と食器棚にある砂糖壺 中身はサッカリンを二人で全部舐めた記憶。それほど甘味に飢えていた。
・庭で 獣脂と苛性ソーダを鍋で煮る父の姿 自家製石鹸でした。
・酒屋へのお使いは 醤油・酢の類はI,2合単位で 酒は3~5合来客時は一升瓶 酒屋へは入れてもらうための空き瓶を持参です。
・卵は肉屋へ買いに 一度に買うのは1ヶ2ヶと言った程度。
  (我が家の経済は中の上位でしたが 一般的にこのような生活)
・引揚者の子どもたちが素っ裸で路地で遊ぶ 道に落ちている菓子屑らしき物を拾って食べる。
・衣料不足で男の子の冬は 長袖下着とズボン下の上に開襟シャツと短パン。 
・東京の住宅地の物陰で近所のおじさんが鶏をつぶす(意味は分かりますか?食材にするのです)。
・早稲田通りには荷馬車が通り 荷台の後ろに乗って御者のおじさんに叱られたり。
・バスは後ろに薪ストーブのようなボイラーを積んだ木炭車。
・給食は脱脂粉乳にコッペパン。揚げて砂糖をまぶしたのが月に一回 これが嬉しかった。
・中学で昼に薬缶ごと出た紅茶の甘味は サッカリン。
・そういえばある日 (いわゆる住宅街に住んでいましたが)家に米軍の兵隊が突然現れ 在宅の女性たちが慌てふためいていました。近所の人たちも集まって来たので兵隊はそのまま姿を消した記憶があります。彼等は酔っぱらって女性のハンティングに来たのだとあとで聞きました。
・昭和39年の東京オリンピックで東京は様変わりしました。主として交通網や諸施設ですが それに伴い日本人も経済的自信が復活したようでした。人間としての日本人の精神や矜持は...。
 ついでに 昭和45年大阪万国博で「会場トイレに便座に乗って排便をする人が頻出」との記事がありました。地方からの観客とありましたが 都市部以外の生活環境が推測されます。
  ・
  ・
きりがないですね。
  徐々に改善されたとはいえ昭和30年代初頭までこんな感じでした。

戦争の事実については 彼我の中傷をするのではなく 恣意的でない記録と資料に準拠した事実を尊重する必要があります。某国々のようなフェアな評価の土俵に上ることを忌避する態度は頂けません。国際的には政治体制維持のための意図的歪曲と解されても仕方がない。フェアな立場と精神で評価することで 彼我それぞれに反省すべきことが明らかになります。

先行回答で多くの資料が紹介されていますが
戦時中の船の遭難について 民間人の珍しい記録があります。
https://sites.google.com/site/teruteru250928/zao …
 *1~*5まで一連のもの。
 富士丸 賀茂丸遭難の情況と 救助された幼児と世話した婦人の70年後の遭遇。
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この回答へのお礼

そうですね、私が30代前半で、祖母は戦時中は学生で母は戦後数年経ってからの生まれです。
富山県の伏木には戦後直後に託児所があったのですね。
「日本兵と中国兵の戦時行動の違い 戦時中の国民の心情の建前と本音」のあたり興味深いですね。
ここで色々な方にご回答いただいているうちに、視野が狭かったと気がつきました。
戦時中のことを知りたいと思ったのですが、戦後も日本人は戦争の影響を大きく受けた生活をしていたのですね。

戦後の色々な記憶・・・全て興味深く読ませて頂きました!

食べ物を買うのに券が必要とか・・今では考えられませんね><
外食券まであったのですね。
パン屋の同級生の親父さんがおやつをくれたり、お祖父様が中国の子供達の生活の援助をされたということで、
どちらも自分の子供ではないのにですよね。無償の優しさですね。
やはり大人から見て子供達は不憫だったのでしょうか。

なるほど東京オリンピックは日本や日本人にそのような影響をもたらしたのですね!
ただ東京でオリンピックがあったということだけだと認識していました。
最後に戦時中の船の遭難についての記録ですね。これから読んでみますね!

お礼日時:2014/05/05 11:22

    #1です。

この題、大きいので衣食住に纏めてみました。

1。衣
    外では制服が減った。内では和服が減った、ということでしょうか。僕の母から上の年代の人は、真夏の暑い時に「かんたんふく」というのを着ている以外は和服でした。

    学校に行っている間に雨が降り出すと、母が着物の上に雨着を重ね、高下駄に爪革をつけ、蛇の目をさして、下校時に迎えに来てくれたことを思い出します。

2。食
    今よりも手製のもの、糠漬け、魚の煮付け、焼き魚、と言ったものが多く、卵焼きなどは弁当のおかずの定番でしたが、肉類は少なかったと思います。遠足はのり巻きでした。

    全国規模、一年中同じといった食品が少なかったかわりに、それに地域のもの、その季節のものがが多く利用され、○○特産とか、シュンのおいしさ、という空間と時間にメリハリがありました。

3。住
   家は和室が多く、個室が少なかったように思います。おかげで座敷で皆と喋り「ながら」宿題なども片付け、いろんなことが同時進行出来る癖がつきました。

   核家族化以前だったので祖父母と同居し、いろんな昔のいかがわしい迷信なども聞いて育ったので、文化と言うか伝統の連続性は、今よりずっとあったように思います。
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この回答へのお礼

何度もすみません。ありがとうございます!
衣食住で簡潔に書いていただいてありがとうございます^^
かんたんふく、爪皮がどんなものか知らないので調べてみますね!
遠足のお弁当はがのりまきだったのですね。
空間と時間にメリハリがあったとのこと、なんとなく想像できました。
伝統の連続性というのはなるほどですね。
確かに今は核家族化で、そういったことがかなり薄れていますよね。

お礼日時:2014/05/04 11:11

No.2です


補足を頂戴しました。
同じような気持ちの方々も他におられるようです。
下記サイトをご覧下さい

女性の戦中戦後 記録 聞き書き 第2弾 流山のグループ | ちばとぴ ちばの ...
www.chibanippo.co.jp/news/local/188914
サイトの末尾に連絡先が記載されています。

戦争体験記≪戦中戦後の生活≫ - 大和市
www.city.yamato.lg.jp/koucho/virtual/kioku/kioku9.htm

比較的まとまったものとしては下記のサイトがあります。

NHK 戦争証言アーカイブス
www.nhk.or.jp/shogenarchives/
サイトの中の「市民たちの戦争(19本)」というがよろしいかと思います。

個人の体験談も大切ですが、非常に特殊な状況でしたので、むしろ映像の方がよろしいかと思います。
撮影された意図もさりながら、映し出されている背景をご自身の判断でご覧になられることをお勧めします。
但し、当時は報道管制が厳しい上に映像を撮影する器具も普及していませんでした。
戦争遂行を煽り立てる官制の映像が氾濫していて、生活を知る手がかりとなるような映像が少ないので苦労します。
you tubeに下記のような映像が投稿されています。
『戦争のなかのこどもたち』 前編
投稿者:Pietro622•

東京都長谷戸国民学校疎開学寮生活 其の1
東京都長谷戸国民学校疎開学寮生活 其の2
投稿者:onkuzyuunin•

石川県立金沢第一中学校 学校生活 .mkv
投稿者:Tsuneo NAKAGAWA

B-29の焼夷弾大空襲で焼け野原になった大阪 今宮~道頓堀
投稿者:ozisan88•

戦時下の配給制度
投稿者:mrkatummyseminar•

戦中、戦前に関しての議論はよく見受けますが、大正時代がなぜか話題になりません。
大正デモクラシー、とか大正ロマン、モボ、モガという言葉をお聞きになられたことはありませんでしょうか。
日米も友好関係にあり平和を謳歌していた時代です。
昭和10年代がむしろ異常な時代だったということをお含みおき願います。
政治史や戦争史だけが喧伝されていますが、庶民にとっては大正時代からの延長線上だったということをお考え願います。
歌は世につれ世は歌につれ、といわれますが、参考までに当時の流行歌を並べてみます。
1931年 影を慕いて、酒は涙か溜息か 女給の歌 巴里の屋根の下
1932年 島の娘 涙の渡り鳥 銀座の柳
1933年 十九の春、サーカスの唄 東京音頭
1934年 さくら音頭 赤城の子守唄 鹿児島おはら節 ダイナ
1935年 大江戸出世小唄 船頭可愛や 二人は若い 野崎小唄 明治一代女
1936年 夜明けの歌 椰子の実 忘れちゃいやよ ああそれなのに 東京ラプソディ すみだ川
1937年 別れのブルース 人生の並木路  青い背広で 妻恋道中
1938年 旅の夜風 支那の夜 満州娘 
1939年 上海の花売り娘 長崎物語 九段の母
1940年 誰か故郷を想わざる 湖畔の宿 蘇州夜曲
1941年 めんこい仔馬 明日はお立か 
1942年 新雪 バタビヤの夜は更けて 湯島の白梅 勘太郎月夜 南の花嫁さん 婦系図の歌
1943年 お使いは自転車に乗って 十三夜 予科練の歌
1944年 同期の桜 ラバウル小唄
1945年 お山の杉の子 リンゴの歌
以上すべてyou tubeで聞くことができます。
尚、終戦の年(1945年)の暮れ12月に紅白歌合戦の前身である紅白歌試合の放送が行われています。

上記の歌の数々をだれがどこで聞いていたのか想像してみて下さい。
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この回答へのお礼

聞き書きのニュース見ました。
このような活動をされている方々がいらっしゃるんですね!
興味があります。
大正デモクラシーと大正ロマンについては聞いたことがあります。
そうですね、確かに大正時代については忘れがちですね。
大昔すぎてどこか現実味を持ちにくいというか、歴史の教科書の中の出来事のような感じがしてしまっているかもしれません。。。
大正昭和と生きてきた方にとっては繋がった流れのある時代なんですもんね。
第二次世界大戦だけではなく、その前の時代からの流れも知ってみようと思います。
「歌は世につれ世は歌につれ」 ですね。恥ずかしながらあまり聞いたことのない言葉なのですが、確かにそうだろうと思います。
流行歌のご紹介ありがとうございます!
歌詞を調べて、想像してみようと思います。^^*

お礼日時:2014/05/04 11:04

私は40代で直接の経験はありません。



父母が現在共に78で父が東京出身、母が愛媛出身と言う出自です。

父の話は疎開の話が主体で、飢えに関する話が中心なのですが、面白いのは母の話で、母は瀬戸内の海辺の半農半漁の地で育ち、食糧事情が非常に恵まれていた環境だったので、季節毎の食べ物の話や河豚を父(私にとっての祖父)が裁いて食べた事、兄弟と柿の木に上って食べた話、浜辺のアサリや、岩牡蠣を捕った話・・・・。

だので嫁入り当初に家族一人一人に納豆を一つづつ出して叱られた話等もセットに聞かされて育ちました。

当時、日本全部が等しく食糧難だった訳ではないという事が面白いです。
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この回答へのお礼

お父様は飢えでとても苦労されたのですね。
対してお母様は色々なものをとって食べていたのですね!どこに居たかでだいぶ環境が違うんですね。興味深いです。
納豆を一人一つというのは嫁ぎ先に地域では贅沢だったのですね><;
回答ありがとうございました!^^

お礼日時:2014/04/30 22:45

    #1です。

補足です。

>>鉄道にもいろいろな制限が強いられていたのですね。鉄が本当に必要だったのですね・・。デコイチというのですね。調べてみたいと思います。

   D51型の蒸気機関車は「デーゴーイチ」(日独伊三国同盟の時で、鬼畜米英は敵ですから「D」は友邦ドイツに習って「デー」と読み、「ディー」というのは敵国語読みでした)、訛ってデコイチです。

    何しろたくさん作られたのでD511161まで千輛以上あった訳で、初期の大ナメクジ(煙突から機関室までスッポリと流線型の綽名)から戦時型まで色々でした、詳しくは下記などをご覧下さい。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84D …

    次いでですが四月二十九日は天長節、学校に行って校長のご講話を、天皇皇后両陛下のご真影の前で拝聴しました。皇后陛下の誕生日は四月六日、地久節と言いました。
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この回答へのお礼

補足をいただきありがとうございます!
なるほど、そのような理由で「デー」と読むのですね。
ウィキペディア読みました。
本当に大量に生産されていたのですね!そして沢山働いていたのですね。
昔は学校に天皇皇后両陛下のご真影があったのですね。
戦後に外されるようになったのでしょうか。
今のような象徴的な存在ではなく、それ以上の存在だったのですね。

お礼日時:2014/04/30 21:05

こんにちは。

 七十代の男性です。

生まれは中国大陸です。 二才の時、家族で日本に帰って来ました。 

父は満州国政府の官吏。 やっていた仕事は満族と言う山岳に住む少数民族に芥子を栽培させ、これをアヘンに加工。 これを上海で売る。 膨大な富を背景に台頭して来たのが東条英機と関東軍です。

権力の座に就いた東条は自分を支えて呉れた父たち若い満州国政府の官吏を優遇してくれ、日本に呼び戻してくれたのです。  その父も昭和19年暮れに応召され、朝鮮戦線へ。

昭和20年に入ると東京にも戦火が及び、危険だと言うので3月初めに父の郷里鳥取へ疎開。 その一週間後の3月10日、東京は大空襲に見舞われます。 疎開する前にも再三空襲警報が鳴り、電気を消して防空壕へ。 三才でしたが、その時の記憶はあります。

終戦は山陰の片田舎で迎えました。 母が閉め切ったままになっていた雨戸を開け放なって、嬉しそうに言いました。 『今夜からは安心して眠れるよ。』

その年の秋、鳥取の連隊兵舎に進駐軍がやって来ました。 親たちはみんな隠れていましたが、子供は何も恐くないので遊びに行きました。 『ボーイ、ボーイ』と言って可愛がってくれました。 時代が大きく変わる時は子供が一番先に飛び込んで行けるのです。 そしてそれを見て、親たちが出て来るのです。

戦後、新しい教科書が出来、新しい教育体制が出来た時、私は入学しました。 先生たちの意気込みが伝わって来たのでしょう。 本当に先生方に良くして頂きました。 今になってみると私たちの世代がこの国の黄金世代ではなかったのか。 

日本が戦後の何もない時代から世界有数の経済大国にのし上がって行くまでをつぶさに体験出来ました。 

戦争の記憶は『空襲警報のサイレン』『電気を消して』『防空壕に逃げ込む』

後で知ったのですが、米軍は11ヶの原爆を落とす計画だったそうです。 もしそうだったら、七番目に鳥取の飛行場が標的だった由。 そうだったら今頃生きてはいない。 

一週間、疎開するのが遅かったら、東京大空襲に巻き込まれていた。  
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この回答へのお礼

「この国の黄金世代」 そうですね。きっとそうかもしれませんね・・!
ずっと締め切っていた雨戸を開けて嬉しそうにしているお母さんの姿はきっと印象的だったのでしょうね。
そして、
「時代が大きく変わる時は子供が一番先に飛び込んで行けるのです。 そしてそれを見て、親たちが出て来るのです。」というところはその様子が目に浮かびました。
11個も原爆を落とす予定だったなんて・・・知りませんでした。
疎開のタイミングが良かったことや、鳥取に原爆が落とされなかったこと。それが生死を分けたのかもしれませんね><;

アヘンと東条英機・関東軍のあたりを全く知らないので調べてみようと思います。

貴重なお話をいただけて大変感謝いたします。回答ありがとうございました!

お礼日時:2014/04/30 20:48

40代なので直接の記憶は当然ありませんが、今は亡き明治生まれの祖母から聞いた話しです。


戦時中は配給制度の為、ほとんどの家庭では食料不足で祖母も15km程離れた農家である実家に食料を貰いに娘を連れて行ってました。行き帰りの交通手段は汽車でしたが帰りの停車場(駅)では取り締まりが待ち構えてて貰って来た物全部取り上げられた事もあって、次からは行き帰りは歩いてだった、と話してました。また祖母は魚の行商もしてたので戦時中でも我が家は割と食べる物には困らなかった、とも聞いてます。田んぼに蛙を取りに行ったとも聞きました。祖父は杜氏でしたが戦争に行かない為に鉄工所で働いて召集は免れました。戦後は杜氏に復帰しました。当時市内には何軒もの大店と言われる呉服店がありましたが、絹物を多く扱ってた為、戦後長くは続かず、逆に木綿物を扱ってた店は財をなして今でも呉服店として残ってます。また市内で一番古い中心部にあった小学校は空襲で爆撃を受けました。大きい建物だったので軍需工場と間違われたらしいです。戦後進駐軍が来た時には、駐留場所近くに薪を拾いに行く時は娘も一緒だけど常に離れる事は出来なかった…と。引きずり込まれる恐れがあり、嫁入り前の年頃の娘は近付けなかったと聞かされました。戦時中ではありませんが、義母は昭和30年代に結婚しました。当時義父は東京の銀行勤めだった為、上京する時には配給手帳を持って行かないと東京では米が買えなかったと言ってました。そういえば、昭和50年代終わりに中学の修学旅行で東京の本郷の旅館に泊まりましたが一人米一合持参でした。まだまだ有りますが、この辺で…。
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この回答へのお礼

お婆様の貴重なお話をありがとうございます。
往復30kmも歩いて食料をもらいに行っていたのですね。
蛙も食べていたのですね・・!さばいて焼いたりしていたのでしょうか。
絹物を多く扱ってた為、戦後長くは続かず、逆に木綿物を扱ってた店は財をなして今でも呉服店として残ってます。というところはなるほどですね!
修学旅行でお米を持参とか、今では考えられないですね。そんなことがあったのですね。
回答ありがとうございました!!

お礼日時:2014/04/29 22:02

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