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ドストエフスキー「罪と罰」を読みました。内容はともかくとして、文学としての一つの「特徴」が気になったので、架空人物の名付け方・ロシア人の姓名についてお尋ねします。罪と罰を読んだことない方でもけっこうです。

全体的に「堅苦しい言い回し」が多いという印象を受けました。ただ、それはロシア文学に限らず日本文学でも明治のものは難解ですし、「筆者がわざと難しい言い回しをして、読者の知的好奇心をくすぐっているのかな」
「ひょっとして、19世紀当時~20世紀初頭は、大衆文学とは言っても文芸誌・雑誌を買う人は限られていて、『くだけた言葉で書かれたものは価値がない。荘厳な言い回し・読解を必要とするブンガクテキ表現をする著作の方が、読者に対して読む価値のアルモノとしてのハクを示せる』と思っていた作家が多いのかな」
とすら思ってしまいます。

それにしても罪と罰を読む上でつらかったのは、私に全くなじみのない姓名が多かったことです。ロジオン、ロージャ、この2つが同じ人物を指すことまでは受け容れられますが(英語圏でもリチャードがディックになったりしますものね)、場面ごとどころか、同じ場面の中でさえ、ロージャ、ラスコーリニコフ、ロジオン・ロマーノヴィチ、ところころ呼び名が変わるのには四苦八苦しました。
私は本作が初めて触れたロシア文学ですが、
          ロマーノヴィチ  ・ラスコーリニコフ と
          アレクサンドロヴナ・ラスコーリニコワ と
アヴドーチャ   ・ロマーノヴナ
が親子兄妹の血縁関係だ、ということに慣れるにも時間かかりました。

本作を読むに当たり、インターネットで補助検索をして、
イワン(A)  ・イワノヴィッチ(B)・イワノフ(C)
というルールは見付けましたので、
ゴルバチョフ、フルシチョフ、カラシニコフ、カラマーゾフ、
ロシア人名の語尾がみんな似通っていることには納得した次第です。
女性の場合はたぶん
エカテリン(A)  ・イワノヴナ(B’)・イワノワ(C’)
となりますよね?

■まず、
アヴドーチャ   ・ロマーノヴナ
には 「・ラスコーリニコワ」(C)がないのは、未婚女性だからですか?

■ドゥーニャ、ドゥーネチカは アヴドーチャ の愛称(英語でいうニックネーム)ですか?
でも英語の場合は人によってなんていう愛称で呼んでもらうか一つに決まっている、と聞いたことがあります。
例えばエリザベスという本名の登場人物を、呼ぶ人によって エリー、エリザ、リサ、ベス、ベティ とばらばらに読んでいる文学作品に、僕は出会ったことがありません。大将、兄さん、あのバカ、といった役柄によって呼び名が変わることはあったとしても、ニックネームを2つも持っているのは、「ロシア特有なんだろうか」と素朴に疑問に思いました。中国における 阿備 や 美美 のように、未成年や特に女の子の場合には、
  気分によって よし子ちゃん、よっちゃん、と呼び分け
たりするものなのでしょうか。
さっきまで ソーニャ、と呼んでいた人が、急にソーネチカ、と呼んだりすると、
ソーニャとソーネチカのどちらがより親しい言い方なのかわからない私としては、とまどい続けるばかりです。ソフィア、と呼びかけるのは、たいへん距離感のある言い方でしょうか(ドゥーニャ、ドゥーネチカも同様)。

■医師や弁護士が登場しますが、(少なくとも19世紀ロシアにおいては)英語でいうDr.のような尊称はあまり一般的でなかったのでしょうか。
ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンのことを「ピョートル・ペトローヴィチ、」と呼び捨てにして話しかけている人物の多いことが気になります。
「ピョートル・ペトローヴィチさん、」
「ピョートル・ペトローヴィチ先生、」
という呼びかけをしていないのは、訳者の癖でしょうか。

■また逆に、ルージンと結婚しようとしているドゥーニャでさえ、「ピョートル・ペトローヴィチ、」とほぼフルネームで呼んでいるのが気になります。ピョートルの愛称って一度も出てきていませんよね? ルームメイトでさえ。

■ドゥーニャはスヴィドリガイロフのことは、
「スヴィドリガイロフはなんて言ったの?」
「スヴィドリガイロフさんの話はおやめになってください」
と、さんを付けたり付けなかったりしています。これは原文にミスターやムッシュやヘルみたいなのがあったりなかったり、ということなのか、訳者の癖ということなのか、どちらなのでしょうか。この「さん」を付けるかどうかやフルネームで呼ぶかどうかで心理的距離感がわかったりしますか?


ここから一番聞きたいことです。
■なぜ一つの作品で、ペトローヴィチやイヴァーノヴナという、同じ姓の登場人物が3人も4人も登場するのですか?
三国志でも夏侯淵・夏候惇とか孫権・孫堅・孫権みたいな、読んでて嫌になりそうなややこしい名前が存在しますが、あれは歴史小説として捉えれば、罪と罰とは少し違う気がします。架空小説ならばなるべく「個性が生きるように」人物設定するのが自然であって、一つの作品に
X・ペトローヴィチ
Y・ペトローヴィチ
Z・ペトローヴィチ
を登場させるのは、ダメな作家のやることだと思うのですが(血縁でない限り)。前述の通り「ヴィチ」が息子を意味することまでは理解しました。日本でいえば「佐藤さん」のようにありふれた名前、ということでしょうか。しかし、
伊藤
佐藤
近藤
という架空の名前を人物相関図に当てはめていくときに、「もう少し違う名前にしよう」と思いませんか? ましてペトローヴィチは「一字一句違わない」ですし。
ダ・ヴィンチ、デカプリオ みたいに、AとB をセットで呼ぶことに慣れてしまっているのでしょうか。ゾシーモフはずっと「ゾシーモフだけ」で呼ばれているから気の毒ですが。

洗礼名という日本にはない慣習のことを考えると、欧米人の個人名(ファーストネーム)が日本ほどバリエーションに富んでいないことは理解できます。特に ペトロ はありふれた名前なんでしょうね。
ペトロ(ピーター)やイワン(ジョン)がありふれているからペトローヴィチやイヴァーノヴナがありふれている、
ということまでは理解ができます。

でも架空小説なら、「田中」という登場人物は一人だけに抑えることができるでしょう?
アメリカの映画でも、ジョンが3人も4人も出てくる作品を、見たことありません。まして、血縁関係もない「ジョンソン氏」が3人も出てくるなんて、狂ってると感じます。

■やたらめったら、相手をフルネーム(ファースト+ミドル)で呼ぼうとすることについて、これは当時のロシアで一般的だったのですか? 今のロシアでもそうですか?
つまり、池上さん、や、あなた、や先生、と呼びかけるよりは、池上アキラ、と呼びかける方が、より相手に敬意を込めた表現なのでしょうか? 一連の会話の中で何度も何度もフルネームで呼ぶのが気になります。
それとも、これは「文学特有の」わざと堅苦しい言い方をして、読者に印象付けようという、ドストエフスキーの「テクニック」ですか?
それも、よくあったテクですか、それとも彼固有ですか?

以上、長くて恐縮ですが一つずつでも良いので、よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

どうやら24時間以上たっても回答が付いていないようですのでお答えいたします。


たぶん外国語カテゴリーのほうがより多くの回答を望めたかもしれません。
かく言う私も決してロシア文化に明るいわけではありませんので、回答は部分的なものになります。ご了承願います。

まず、
〔男性〕 イワン(A)  ・イワノヴィッチ(B)・イワノフ(C)
〔女性〕 エカテリン(A)  ・イワノヴナ(B’)・イワノワ(C’)
のうちで
Aが「個人名(その名前の持ち主本人に与えられた名前)」、
BおよびB’が「父称(ふしょう、その名前の持ち主の父親の名前に由来する呼び名)」
CおよびC’が「姓(いわゆる苗字に相当)」
であることを理解してください。
父称は東アジア(日本含む)や西欧の多くの国では馴染みのない習慣ですが、「○○の息子(娘)」を意味する呼び方であり、
古くは、実の親子関係であることや、家系を示すために使われたといわれます。
(アイスランド語では現在でもこの利用法に基づき父称が用いられていて、何世代にもわたって使われる「苗字」は使われません。)
ロシア語などスラブ語圏ではもともと「姓」はなく、父称が姓の役割を果たしていたそうですが
(つまり古くは、上記例でいえば「A・B」だけの形だった)、
近代になって、この「父称」の使用を保ったまま新たに「姓」を使用するようになりました(「A・B・C」の形になった)。
ここ、ロシア人の人名を理解するうえで、大事なポイントです。

>アヴドーチャ   ・ロマーノヴナ
>には 「・ラスコーリニコワ」(C)がないのは、未婚女性だからですか?
これは当方には分からないので割愛させてください。

>ドゥーニャ、ドゥーネチカは アヴドーチャ の愛称(英語でいうニックネーム)ですか?
はい、そうです。
ただ、英語でいうニックネームは正式な名前として用いられることがあるのに対し、
ロシア語の愛称形はあくまで愛称であり、正式な個人名としては用いられません。
使い方ですが、
>気分によって よし子ちゃん、よっちゃん、と呼び分けたりするものなのでしょうか。
そのとおりです。但し、日本語でも「よし子さん」のことをそんなに軽々しく「よっちゃん」と呼んだりしないのと同様、
よほど親密な相手でないと「ソフィア」のことを「ソーネチカ」と呼んだりはしないようです。
(「ソフィア」の愛称形のひとつが「ソーニャ」ですが、「ソ-ネチカ」はその更にずっと砕けた呼び方です。「親称」ともいいます)
ちなみに「ソフィア」とだけ呼ぶと、まるで親が子供に向かってお説教でも始めるかのような雰囲気になってしまいます。

>ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンのことを「ピョートル・ペトローヴィチ、」と呼び捨てにして話しかけている人物の多いことが気になります。
これは呼び捨てではなく、当時のロシアの習慣としてはこのように「個人名+父称」で呼ぶのがいちばん正式で、礼儀にかなった呼び方だったのです。
日本人の感覚だとどうしても呼び捨てに思えてしまうのは致し方ないのですが、「○○さんの息子(娘)の△△さん」というふうに呼んでいるわけであり、日本語の「山田太郎さん」「鈴木花子さん」といった「苗字+名前+敬称」の感覚にいちばん近いともいえるでしょう。
『罪と罰』の主人公を「ロディオン・ロマーノヴィチ」と呼んだのなら、それは「ロマンさんの息子のロディオンさん」と呼んでいるわけですね。

>やたらめったら、相手をフルネーム(ファースト+ミドル)で呼ぼうとすることについて、これは当時のロシアで一般的だったのですか? 今のロシアでもそうですか?
さすがに現代ではやや堅苦しい呼び方になってきているようですが、公式な場や公的書類などでは今でも用いますし、年配の人や社会的立場の高い人に対する呼びかけにも用いられているようです。礼儀を重んずる人なら当然のように父称を付けて相手を呼ぶでしょうね。
ですからテクニックでもなんでもなく、ちゃんとした礼儀正しい表現です。ゴーゴリもトルストイも、それどころかショーロホフやソルジェニーツィンだって用いていますよ。
ちなみに「名前+父称」はフルネームではありません。これに姓が加わってはじめてフルネームになります。


>なぜ一つの作品で、ペトローヴィチやイヴァーノヴナという、同じ姓の登場人物が3人も4人も登場するのですか?
上記のように、ペトローヴィチやイヴァーノヴナは姓ではなく「父称」です。
つまり父親の名前がピョートルであったりイヴァンであったりしたために(いずれもありふれた名前だという点はご指摘の通りです)
ペトローヴィチなりイヴァーノヴナなりの父称が息子や娘についているわけです。
これらの父称が、『罪と罰』の中で、一見、登場人物たちの姓のように見える理由ですが、当方もよく理解していません。
作者(ドストイェーフスキー)が作中人物たちのうち重要度が低いものにたいしてはわざわざ姓を設定しなかったのか、
それとも身分がそれほど高くない人物はこの時代(19世紀半ば)「姓」を持っていなかったのか。
いずれかだとは思うのですが、当方もあいにく存じません。
『罪と罰』にペトローヴィチが何人か登場するのは、作者がその「ペトローヴィチさんたち」の個性をあえて目立たないようにしたとも考えられます。ラスコーリニコフやソーニャの印象が高まりますから。
(どうでもいい話ですが、作中でいちばん私の印象に残っている人物は、ロージャ君を除けば、飲んだくれのマルメラードフおじさんです。)


ロシア人の名前に関する資料として分かりやすく説明しているサイトを貼っておきます。
http://rossia.web.fc2.com/sp/fio/index.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

この回答への補足

アマーリア・イヴァーノヴナが名前について怒った理由
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8579859.html


「罪と罰」を読んだことある方 助けてください
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8588883.html

として投稿し直しました。
たくさんの方が来てくださることを願っています。

補足日時:2014/05/10 10:57
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

過去の質問を調べて、罪と罰についての回答も付いていたので、文学カテゴリーに立ててもたくさんの方に見ていただけると思っていたのですが、
おっしゃる通り、なかなか回答がいただけなくて落ち込んでいました。
アドバイスありがとうございます。

ドストエフスキーのことを
「(血縁でない限り、似た名前の人物を登場させるのは)ダメな作家のやることだ」
と言ってしまって、投稿完了してから
 しまったなぁ、
と思っていました。
「一般的に」というのを付け足しておきます。
罪と罰を1日に6~30ページずつ読み進んで(文字の大きさにもよりますが)、最後まで読むのに3ヶ月近くかかりましたが、
読んで良かったと思いました。
きっかけは人間失格などを読んでいて日本の文豪が罪と罰を引き合いに出すことが多いことが気になったから、なのですが、150年経ってもなお、引き合いに出す人たちが多いことが、よく理解できる名作でした。

だから私は、
 名前の難解さにうんざり
はしていますが、
 ドストエフスキーの罪と罰は好き
です。

ネット検索してみて、
マルメラードフおじさんのファンは本当に多いようですね。
私はドストエフスキーの作品はこれ一つしか知りませんが、ゴーゴリや「白痴」や「カラマーゾフ」にも興味が出てきました。「罪と罰」は映像化もされているようですが、「映画だったらこんな感じかなあ」と想像力をものすごくかき立てられています。
登場人物が、飾り立てない、というか、人間の「汚い」部分も等身大で描かれているから魅力的なのかな、と自分なりに考えずにはいられませんでした。
「金がないから人の物を盗んでやろう」と考えたり、
結婚したい女を手に入れるためなら他人を罪に陥れることまで厭わなかったり、
酒場で知り合ったばかりの人に「他人からしたらどうでもいい」ような身の上ばなしを愚痴って急に親しげになったり、
などなど、いずれも現代日本にもいそうなくらい、生き生きとした人間たちなので、
ドストエフスキーの人間観察力がすごい、
と感じました。
マルメラードフおじさんは特に、ああいう感じになってしまったので、読者を引き付ける魅力もよくわかります。
飲んだくれでも、奥さんからしっかり尊敬(世間体的なプライド?)されていますしね。


さて、
>アヴドーチャ   ・ロマーノヴナ
>には 「・ラスコーリニコワ」(C)がないのは、未婚女性だからですか?
すみません、この質問は誤りでした。
多くは アヴドーチャ・ロマーノヴナ のようですが、アヴドーチャ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワ という部分も発見しました。


父称のルールについては今回初めて学んでいましたが、「それは姓ではない」ということについて、私の認識不足でした。ご指摘ありがとうございます。
ミドルネームとか、ファーストネーム(ギヴンネーム、クリスチャンネーム)とか言ったものになかなか慣れません。
カチェリーナ・イヴァーノヴナでも充分フルネームだと思い込んでいたのですが、ファミリーネームがないのにフルと呼ぶのは確かにおかしいです。
感覚的に、「全ての名前で呼んでいる」のではなく、「(藤原の)タカスエが娘、菊」「奥州太郎」「ヴィンチ村のレオナルド」という感じでしょうか。
時代背景まで話してくださって、ピョートル・ペトローヴィチをピョートル、ピョートルと呼ぶよりも尊敬を込めて丁寧に呼んでいる、ということがわかってすっきりしました。

「身分がそれほど高くない人物はこの時代「姓」を持っていなかったのかも知れない」
とご指摘いただいて、「江戸時代の百姓と同じか」と思い出しました。
同時に、
主要人物以外はありふれた名前にする・姓まで表示しない(設定しない)ことによって「個性をあえて目立たない」ようにした、
というご考察に感服です。


カチェリーナ・イヴァーノヴナ と
アマーリア・イヴァーノヴナ の
けんか
なんか、個人的には読みにくさMAXだと思いました。

●● 引用1 ●●●●●●●●●●●●●●●●
アマーリア・イヴァーノヴナはコップをぶつけられ、周囲から笑われて耐えられなくなってしまった。彼女はカチェリーナ・イヴァーノヴナに飛びかかった。「部屋から出て行け!」彼女はそう言いながらカチェリーナ・イヴァーノヴナの品物を手当たりしだいに投げ付けた。息を切らせ顔も真っ青なカチェリーナ・イヴァーノヴナは、アマーリア・イヴァーノヴナに飛びかかった。しかしこれはあまりにも力の差の開き過ぎた戦いだった。アマーリア・イヴァーノヴナは羽毛でも吹き飛ばすかのようにカチェリーナ・イヴァーノヴナを突き飛ばした。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

この2人が親子でも姉妹でもなんでもないのに同じ「・イヴァーノヴナ」という姓(私の誤解)を持つ、ということに私はいらだって、このような質問を立てさせていただいたわけですが・・・。
さらに
アリョーナ・イヴァーノヴナ と
リザヴェータ・イヴァーノヴナ と
ルイーザ・イヴァーノヴナ も
上の2人と血縁関係でも何でもないですし。

●● 引用1改 ●●●●●●●●●●●●●●●
アマーリアはコップをぶつけられ、周囲から笑われて耐えられなくなってしまった。彼女はカチェリーナに飛びかかった。「部屋から出て行け!」彼女はそう言いながらカチェリーナの品物を手当たりしだいに投げ付けた。息を切らせ顔も真っ青なカチェリーナは、アマーリアに飛びかかった。しかしこれはあまりにも力の差の開き過ぎた戦いだった。アマーリアは羽毛でも吹き飛ばすかのようにカチェリーナを突き飛ばした。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

の方が私としては「普通の文章」「こういう風に書いて欲しい文」だったのですが、東欧系の人たちにとっては
  セリフではない部分、本文(台本で言えばト書き?)であっても、
  アマーリアと書くよりアマーリア・イヴァーノヴナと書いてあった方が
  読んでてしっくり入ってきやすい
ということがなんとなく理解できました。
たぶん現地の人たちは、私が思うほど「・イヴァーノヴナ」の多さは気にしていないのでしょうね。

(ちなみに私が読んでいるのは小泉猛訳 集英社ギャラリー[世界の文学]版ですが、ネットに落ちていた グーテンベルク21版(訳者不明)では、アマリアとカテリーナという、・イヴァーノヴナ抜きの(私にとって)読みやすい形となっていました。同書ではピョートル・ペトローヴィチも「ルージン」に置き換えられていたので、どちらかの訳者が、訳者の裁量の範囲で原文をそのままではなく意訳したのでしょうね。)


アナファーシィ・イワーノヴィチ (・ヴァフルーシン)
アルカージィ ・イワーノヴィチ  (・スヴィドリガイロフ)
(またイワン!)

ピョートル  ・ペトローヴィチ
ポルフィーリィ・ペトローヴィチ
イリヤー   ・ペトローヴィチ
マルファ   ・ペトローヴナ

アンドレイ・セミョーノヴィチ (・レベジャートニコフ)
ソフィア ・セミョーノヴナ  (・マルメラードワ)

と出てきても、
 「ああ、あれとこれが、同じイワンの息子・娘だな」
という意識はほとんど意識に上ってこなくて、
日本でいう「デヴィ夫人」の「夫人」みたいな、あってもなくても気にならない、名前の一部(誰かの夫人である、という意味をほとんど意識しない)
というニュアンスなのかな? と解釈しました。

  混乱しない現地の人たちはすごい!
文化の違い、でしょうかね。
スラブ系民族の皆さんから見たら、日本で
 桃太郎、浦島太郎、鬼太郎、
 よし子、ふつ子、わる子
がありふれているのも、
  ややこしい!
っていう同じ感想を抱くんでしょうか。

日本で同じ文学作品の中で、
 紫の上
 葵の上
と設定した(フィクション)のと同じような感覚で、
 ピョートル  ・ペトローヴィチ
 ポルフィーリィ・ペトローヴィチ
という超重要人物たちも 特に何も考えず似たような名前に設定した、ということでしょうか。

マンガの主人公などが、
 西園寺、龍崎、白鳥
みたいな「ありふれていない」名前を設定してもらっているのと対極にあるようで、おもしろいです。
マンガで、田中良太郎、田中小次郎 などが同時に登場して、兄弟でも何でもなくても、現地の人間にとっては何も疑問に感じないのかも知れませんね。


なお、私が例として
エカテリン・イワノヴナ・イワノワ
と架空の名を挙げてみましたが(エカテリン1世という女王がいたと思ったのですが)、
キャサリンはロシア語では エカテリン ではなく カチェリーナ が正しかったのかも知れませんね。適当な名前を挙げてすみませんでした。


新たな疑問がわいてきて別の質問を立てましたので、
もしお時間あったら、そちらにもご意見いただけると幸いです。

アマーリア・イヴァーノヴナが名前について怒った理由
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8579859.html

深いご洞察に心より感謝いたします。
1週間ほど置いてから締め切らせていただきます。

お礼日時:2014/05/03 19:19

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